厄介な依頼、再び
「改めて、紹介しましょうか、クロナさん。こちらは、ファフニル様。私の所属する魔術師ギルド、そのギルド長の一人であらせられます」
「………ここで?」
落ち着いた口調で話し始めたスーツ姿の魔術師――確かベルフェとか言っていたか――に、私は呆れて視線を向ける。
印象の薄い顔に、感情の薄い笑顔を浮かべたベルフェは、軽く肩を竦める。長くも短くもないその黒髪は、強い風にバタバタと音を立てている。あれは、さぞかし手入れが大変だろう。
かく言う私も、飛ばないよう必死に帽子を押さえている。
なぜそんなことが必要かと言えば、まぁ風が強いからである。ではなぜ、風が強いのかと言えば、ここが上空だからである。
なぜ、空の上にいるのか。私は、ややというか、かなりうんざりとした気分で自分の足元を見た。
そこに広がるのは、爬虫類を思わせる鱗。岩肌のようにゴツゴツとした筋肉質な地面は、驚くことに1匹の生命体の背中である。
力強く翼を動かしながら、私達を背中に乗せて空を行くその生物、ファフニルと呼ばれた竜は大声で笑った。
「ワハハ、すまんのう、ラヴィのお嬢さん。この方がやはり、馬など使うより早いでな!」
「馬って………」
乗れるのだろうか。それとも、何か特別な馬があるのか。
悩む私に、ベルフェが苦々しく笑いながら首を振る。
「あー、すみませんね、クロナさん。このお爺さん、話長い上に冗談ばかりなんですよね。聞き流してください」
「一応言っとくが、上司じゃぞワシ」
「まぁ、ここなら余計な邪魔も入りませんし。密会にはもってこいですよ。まぁ密会した、という事だけはひたすらおおっぴらに広まりますけど」
隠したいのか目立ちたいのかどっちなのか。………確かに、この場での話を盗み聞き出来る者は居ないだろうが。話をしやすい場所とも言いがたい気もする。
というか、言いたくない。
まぁ、私への依頼だというのなら、恐らくどこでだって話し辛いはずだ。街角の喫茶店はもちろん、人のいないバーでさえ、最適な場所にはならない。
それは、心の内の問題だからだ。心に後ろめたさを感じる限り、どれだけ警戒して対策を練っても、不安はつき纏う。
もしかして、誰かに見られているんじゃないか、もしかして、誰かが聞いているんじゃないか、もしかして、もしかして、もしかして。
全く馬鹿らしい。そんなことを気にするなんて、滑稽だ。
もう、そんな段階ではないのだ。他人の目を気にするくらいなら、話を持ち込むべきではない。私、【暗殺者】クロナのもとに、やって来るべきではないのだ。
暗殺者。
これほど歪んだ職業は、世界広しと言えどもそうはないだろう。
人間社会においては、人を殺すことはタブーだ。これは亜人だろうが精霊だろうがさして変わらない、文明社会における基礎中の基礎である。ある意味、『人を殺してはならない』ということを信じ込ませることが、文明というものの役割かもしれない。
汝殺すなかれ。
特に自らの同族を殺すことは、許されてはならないのだ。それを許せば、社会は崩壊してしまう。
極端な話、殺すことは誰にでも出来ることだ。周囲の人間全てが例外でなく、我々はいつ自分に向くか分からない切っ先の中で生活していると言っても暴論ではあるが、けして間違いではない。
それでも、曲がりなりにも人間関係を構築し、生活しているのは、殺人が悪だという決まり事のおかげなのだ。
誰もが持つ、罪の意識。それが、私達を繋ぎ止めている。
だが、それでも。
誰かを殺すことを選ぶ者はけして無くならない。
それは復讐であったり、排斥であったり、敵対であったり温情であったりする。どんな場合にしろ、生きる限りいずれは誰かを死なせるものだ。
それが無意識ならばともかく、意識的に行うには多くの者が二の足を踏む。何せ、それは悪いことなのだから。
だから、何かを使う。剣や弓矢、魔法の杖や呪文書、魔女の毒薬、呪いの言葉、そして、この世で最も蔑まれる行為の代行者などを。
己の殺意を金銭に託し。
人は、私にそれを渡す。
私は、そのための道具だ。毒を与えた林檎と同じように、静かに、速やかに、相手を眠らせる………二度と覚めない、眠りのなかに。
「さて、依頼の件じゃが。………お前さんは、金額だけが問題だということを、ベルフェから聞いたが?」
ゆったりとした動作で羽ばたきながら、ファフニルは首を巡らし、私達に向き直った。因みにもちろん、飛行速度は落としていない。何かに衝突する可能性は低いとはいえ、出来れば前を見てほしい。
しかし、話が依頼についてなら、私としても応じるしかない。
「あぁ、そちらの事情は興味はない」
どんな理由にしろ、やることは一緒だ。取り敢えず、金額を示そうとする私に、「いやいや」とファフニルは首を振る。
「それはちと困る。あぁいや、困らないのか。何にせよ、引き受けてもらえるのならそれでよいからの」
「………クロナさん。主義に反するのなら別ですが、良ければ触りだけでも聞いてもらえませんか?」
「構わないが………」
なんだか、面倒な予感がする。
内心が顔に出たのか、ベルフェは苦笑し頷いた。
「まぁ、お察しの通り、楽な依頼ではありませんよ。………今回の依頼は、言うなれば標的審査ですからね」
「どういうことだ?」
「簡単ですよ、口にするのはね。理解するのも簡単だと思いますよ」
首を傾げる私に、ベルフェが笑う。その表情は先程までの愛想笑いのようなものとは違っている。
それは、以前に見た笑い。
まるで獲物をいたぶる猫のような、残酷な好奇心の発露。
三日月のように笑いながら、ベルフェは一枚の写真を取り出した。つくづく写真の好きな男である。
受け取って見ると、そこには一人の少女が映っていた。
淡い空色の服が可愛らしい、十代前半くらいの美少女が、何やら古びた本を抱えて歩いている。ずいぶんと大きなその本は、少女が両手で抱えて余りある。
「私達の目的は、その本です。少女の方はおまけに過ぎませんが、しかし、本にとっては重要な足になっている。もしかしたら、それ以上かもしれませんが、定かではないですね」
「………詰まり?」
「本さえ確保できれば、あとは貴女の裁量にお任せします。………この少女がどこまでするのか。逃げる標的の馬か、或いは護衛の真似事でもしてくるか………ちょっとわかりかねるんですよね。馬を射抜くかどうかは狩人次第でしょう?」
やれやれとばかりに肩を竦めるニヤニヤ笑いの魔術師に、私は疑いの視線を向ける。
「わかりかねる?単に秘密主義なだけではなくてか?この前みたいに」
「いえいえ、本当に判断がつかないんですよ。何せ、この本は、ただの本じゃないもので」
急速に、私の胸中に警鐘が響いた。闇の稼業に勤しむ者にとって最も慣れ親しんでいて、かつて最も重視するべき感覚が、霧のように心の中に生まれて広がっている――いわゆる、嫌な予感だ。
魔術師の言う、【ただの本じゃないもの】。私に依頼してまで取り返すべき、手段を選んでいられないような代物。
私の脳裏に浮かんだ、悪い予感。その名前を、ベルフェは苦笑しつつ口にした。
「………【
「断る。降ろせ」
魔導書、という単語を聞いた瞬間に、私は反射的にそう答えていた。仮に熟考していても、答えは同じだったろうが。
その返事を予測していたらしく、ベルフェは首を振る。
「いや、そうはいかないですよ。話の途中ですし、ここはほら、飛び降りるには少しばかり高いでしょうし」
「ふざけるな。魔導書関連なら、ここから飛び降りるのと大差はないだろう」
魔導書とは、魔術師が記した書物のこと――ではない。
それは、存在としてはそれより高位のものが書いた代物なのだ。
その文字の羅列は、『書かれた』という事実だけで世界を歪ませるほどの神秘を秘めている。極端な話、火の話を書いた魔導書があれば、そのページが捲られるだけで周囲は火の海になる。
力ある存在が書いた、力ある書物。それこそが、魔導書というものだ。
それ自体に意志があるものから、読めばそれだけで力を発揮するものまである。更には、ただあるだけで悪魔を呼ぶ媒介となるものさえあるのだ。その破片をチラリと見るだけでも、耐性のない者は正気を失いかねないような、常識の範囲を逸脱した爆弾にも近いものである。
何者かが持ち出したそれを、私に回収しろというのか。私は、いっそ微笑みながら拒絶する。
「冗談じゃない。お前、私に死ねと言ってるのか?」
「滅相もない、それこそ、冗談ではないですよ。僕は、貴女のファンですよ?そんな婉曲な自殺をおすすめするほど歪んではいません」
さも心外だという表情を浮かべるベルフェ。しかし、本人がどういうつもりにしろ、話の内容はまさにそれ、【婉曲な自殺】だ。
生憎、私には自殺願望はない。私は無言で首を振ると、腕を組んで、口を閉ざした。
全身での拒絶アピールに、ベルフェは肩を落とす。更に何か言い募ろうとしたベルフェを、ファフニルは笑いながら遮った。
「ははは、そう言わんでくれ、お嬢さん。それとも――儂にやらせるかね?」
その言葉に、私は息を呑む。
時に生きた災害とさえ言われる竜種。それが、逃亡者を探す?
「………汚いぞ、お前………!」
「あー、僕に言うのは止めてくれます?言い出しっぺはこの空翔ぶ蜥蜴です」
「お前さんの辞書には【尊敬】とか無いのかのう?」
「すみません、本棚に置いてきました」
射殺さんばかりに睨む私から目をそらしながら、ベルフェは肩をすくめる。
こいつだって解っている筈だ――この大型爬虫類が静かに街中を探すとは思えない。本を確保するために、その口から吐き出されるのは住人への質問ではなく、何もかも焼き払う火炎だ。
ファフニルはくつくつと笑いながら、わざわざ首を巡らして、私に顔を向けてきた。ぎょろりと蠢く大きな瞳が、獲物を見るように私を見る。
「頼むぞ、小さきもの。何せこの魔導書は、儂よりも人に優しくないからのぅ」
私はため息を吐いた。なかなか面白い冗談だ、竜種の冗談にしては。
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