第16話事情
あやめは仕事を終えて帰り支度をしていた。思っていたより締めに時間が掛かってしまい、もう事務所に残っていたのは悟とあやめだけだった。あやめは急いで事務服を着替え、悟に頭を下げた。
「お疲れ様です。失礼します。」
悟は立ち上がって微笑んだ。
「お疲れ様。送るよ。飯でも食って行こうか?」
あやめはためらった。確か星路によると、かなりうるさそうな奥様がいるはずだ。食事をしただけで変に勘繰られて今より更にややこしくなるのは避けたい。
「でも…」
なんと言ったものか考えあぐねていると、悟は苦笑した。
「オレ、下心ないし、それに独身だからうるさく言われる事もないよ。物騒だから心配なんだ。」
独身?あやめは驚いたが、悟が星路のオーナーだったのは8年前。離婚したのかも知れない。あやめは、断る口実も思いつかず、そのまま悟と一緒に事務所を出た。
「オレはここから近いから、歩いて来てるんだ。君の車でいいかな?」
あやめが頷くと、悟は星路のスペアキーを出して、それでキーを開けると、運転席側のドアを開けた。
「運転して行くよ。ここから少しの所に、いい店があるんだ。」
あやめは、初めて星路の助手席に座った。今まで、運転席しか座ったことはなかったのだ。
星路は、どうせ悟には聞こえないのに黙っている。あやめは居心地悪く感じながら、そのまま悟の運転する星路に乗って、そこを後にした。
相変わらず星路は黙っているが、普通、車とはこんなものだったと思い、あやめも黙っていた。悟が言った。
「いい歳して独身だなんてと思ってるだろう。」悟は冗談めかして言った。「失敗してるんだ。8年前に別れてね。今は、身軽に生きてるよ。そうしたら仕事がうまく行き始めたんだから、皮肉な話だ。」
あやめは、やっぱり、と思った。星路は知っていたんだろうか。8年前なら、ちょうど星路が売りに出される辺りになるわよね。
「悟さんは、それからお一人なんですね。」
悟が、驚いたような顔をしてあやめを見た。あやめはハッとした。そういえば、星路が悟悟と言うから私もそう呼んでいたけど、考えたら本人にそう呼んだことはなかった。あやめは慌てて言いかえた。
「すみません、宮脇さんは。」
悟は、ははと笑った。
「いや、別にいいよ。じゃあ、オレもあやめちゃんと呼んだらいいな。車の趣味も同じだし、話しは合いそうだ。こうして飯行ったりする時は、そうするよ。」
あやめは真っ赤になって頷いた。そんなつもりはなかったのに。相変わらず黙っている星路が気になったが、星路だって今のは仕方ないと思うはず。あやめは言った。
「ロードスター、買うつもりはないんですか?」
悟はしばらく黙ったが、言った。
「新しいのはいいかな。この型のロードスターを探していてね。ディーラーを回ってるんだけど、無くて。オレは男なのに変かも知れないけど、オートマがいいし。渋滞に巻き込まれたりしたら、ミッションは足がつるからさ。」
あやめは笑った。
「確かにそうかも。坂道発進とか面倒だし。」
悟も頷いた。
「そうそう、山とか走るの好きなんだけど、一度山頂の遊園地へ夜景を見に行こうとした時、皆が向かっていてすごく混んでてね。皆がオートマ走りする中、かなり面倒だった覚えがある…違う車の時だけどね。」
あやめはその様子が思い浮かんだ。自分も無理してミッションの免許を取ったから、ミッションに乗りたいと思って友達の車に乗ったことがあったけど、同じだった。その時、絶対オートマにしようと心に決めたっけ。
「もう、今では私もミッションの車には乗れません。忘れちゃったと思う。」
悟はちらとあやめの方を見た。
「オレは違うぞ?ちゃんと乗れる。だけど、乗らないだけさ。」
そこに、変な男の意地みたいなのを感じて笑えたが、あやめは我慢した。
そんなことを言っているうちに、悟が勧めるレストランに到着したのだった。
星路は、相変わらず無言だった。レストランで、話し上手な悟にすっかり話し込んで楽しんだあやめは、今度は自分が運転席に座って、悟を家の近くへ降ろすと、言った。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。」
運転席の窓を開けて言うと、悟が頷いた。
「こちらこそ楽しかったよ、あやめちゃん。また行こう。」
あやめは頷いて頭を下げると、家路に付いたのだった。悟は、ずっとその車を見送っていた。
やっと、星路が口を開いた。
「…で?悟とよろしくやってたって訳か。」
あやめが驚いて慌てて首を振った。
「何を言っているのよ。マスターキーから聞いていたでしょう?話してただけよ。それより、離婚してたのね、悟さん。」
星路は少し黙ったが、答えた。
「…ああ。オレが売りに出される日にそんな話になってたのは知ってる。後から回りの車達に伝言して聞いたら、別れてたという訳さ。別にお前にそこまで言わなくていいと思ったら言わなかったんだ。」
あやめは遠くを見るような目をした。
「そう…なんだか、分かる気はするけど。でも、何があったのかしらね。」
星路は答えない。あやめは不機嫌な星路に困りながら、家の車庫に星路を停めた。
「おかえり、あやめちゃん。今日は一日ここに居たが、変なやつは見かけなかったよ。」
前の家のプリウスが言う。あやめは頷いた。
「ありがとう、りっさん。あのね、きっと私と星路を見てるんだと思うわ。だから、見てたなら今日は職場のほうじゃないかな。夜は星路も私もあっちに行っててここに居ないから、もし何かあったら知らせてくれる?」
プリウスは頷いたようだった。
「わかった。私のオーナーがどっかへ私を連れて行かない限り見てるよ。」
あやめは微笑んで頷き、星路を見た。
「じゃあ、私は由香里さんを見て来るわ。星路はどうする?あっちへ行く?」
星路は憮然として答えた。
「オレはどうせ由香里の所へは行けないだろう。ここで見張ってるよ。その方がいいだろう。」
あやめは機嫌の悪いままの星路をなだめる気にもなれなくて、頷いて家の中へと歩いて行った。
部屋に入って、夜中を待っている間、あやめは考えた。玉を取り出すと、その透き通った美しい姿を見つめながら、立っているべきか座っているべきか悩んだ。もしも寝ていなかった場合、目の前にいきなり女が立っていることになる。でも、座っているのも驚くかな。
いろいろ考えた結果、まだ時間が早いので、デミーを先に連れて行っておくことを考えた。
確かに由香里が寝ていなかったら空振りになるが、何回行ったり来たりしてもいいんだし…。
あやめは、玉にあちらの世界へ連れて行ってくれることを願って、そしてデミーの居るディーラーの駐車場へと戻り、デミーに触れるとあちらの世界へとまたとって返した。
デミーは、車のままだった。
「ここで待ってたら、由香里さんが来るの?」
デミーが、少し緊張気味に言った。あやめは答えた。
「うん。でも、今日は無理かもしれないよ。寝ている間に連れて来ようと思ってるんだけど、まだ寝てないかも知れないもの。寝てたら、連れて来るからね。」
デミーは素直に答えた。
「わかった。いつも寝るのは早かったから…11時にはベッドに入ってたよ。今はどうか分からないけど…。」
あやめは腕時計を見た。今、もう11時半だ。
「じゃあ、そろそろ行ってみようかな。待っててね。」
あやめは、緊張気味に構えた。もしも、由香里がまだ起きていたら、顔を認識しないぐらいすぐにこっちへ戻らなくてはいけない。そんなに早く念じられるのか不安になりながら、あやめは目を閉じて、今まで何度か見た由香里を思い浮かべた。しかし、顔がはっきり出て来ない…やっと思い浮かんだのは、あの日オープンカフェで調査のために座っていた時に、デミオから降り立った、あの姿だけだった。
あやめはその顔を思い浮かべて、思い切って一気に飛んだ。
ふっと目の前の光りが消え、次に視界が開けた時、そこは薄暗い部屋の中だった。あやめが必死に目を瞬かせると、由香里がその薄暗い中、じっと座ってこちらを見上げていた。
起きてるじゃない!しかも、こんな暗がりで!
あやめが慌てて、とにかく踵を返そうとすると、由香里が突然に立ち上がってあやめの腕を掴んだ。
「待って!私を連れに来たんでしょう?!」
あやめはびっくりして振り返った。なんで知ってるの。
「…どうしてそれを?」
由香里は、ホッとしたように息を付くと、あやめを見た。
「だって、毎日ご先祖様に願っていたもの。もう、あちらへ連れて行ってくださいと。」
そっち?
あやめは思った。私を幽霊か何かと思っているのだ。こんな暗い中に突然に現れたのだから、そう思っても仕方がない。あやめは、首を振った。
「私は、あの世へ連れて行くためにここに来たんじゃないわ。あなたと、どうしても話したいと言っている子が居て。その子の所へ連れて行くために来たのよ。」
由香里の目は、ヒステリックに見開かれた。あやめは驚いた…何て目をしているの。まるで、人が違ったようだ。
回りを見ると、暗い中でも、古く狭い府営住宅の一室で、部屋は今居る所と隣の和室しかないようだ。目の前にキッチンがあるが、昔の仕様でシンクの位置が低い。ガスコンロがあるべき場所には、電気の一つだけのコンロがポツンと乗っていた。シンクの中には、汚れた食器がいくつか残ったままになっていて、生ごみの臭いがした。由香里が一人座っていた部屋には、布団が一組敷かれているだけだった。他には何もない…本当に、死にたいとだけ思ってここに篭っていたのかしら。
「誰が私なんかに会いたいと言うというの!誰も私のことなんて要らないのよ…本当に傍に居てほしい時には、結局誰もいない!誰もかれも、利用する時にしか私を見てもくれないの!」
あやめは、そこに由香里の悲しみを見た。男に翻弄された…確かに、桑田なんかに引っかかって、こんなことになってしまって、どれだけ悔いていることか。
「…ダンナ様の所へ戻りたいと思っているの…?」
由香里は、とんでもないと言う風に首を振った。
「あんな男!結婚した当初からケチで、お金の事しか言わないような人よ。でも、一人で生きてく自信が無かったから、ずっと一緒に居たわ。そこから抜け出させてくれると言うから、あんな男について行って…こうして、何もかも失ったのよ。あんな男の口車に乗せられた結果がこれ。ダンナとは別れたかったから、良かったんだけど。でも…この歳で、一人で何が出来るのかと思うわ。何も出来ないじゃない。」
あやめは、まだ掴まれている腕を見た。今なら、連れて行ける。
「じゃあ」あやめは、言った。「一緒に来て?」
由香里が唖然とした顔をした中、二人の姿は、その部屋から消えた。
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