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 セミョーノフは早耳の老人だった。どこかから刑事2人が青いジグリでこちらにやって来ると耳にして、すぐに準備を整えた。刑事たちはスモリヌイ聖堂の北に広がる森の中に入っていった。セミョーノフの作業所は森の中に建っていた。作業所はトタン屋根と大きな車輪付きの引き戸を持つ石造りの建物である。

「また太ったな」セミョーノフは近づいてきたスヴェトラーノフに向かって挨拶がわりに言った。「ソファーなみの大きさだ」

「セミョーノフ教授」スヴェトラーノフは言った。「あんたは掃除機のゴミ袋からもそっと落ちてくるゴミみたいに見えるよ」

 セミョーノフは小柄で虚弱そうな撫で肩の老人だった。背が150センチもない。75歳と言われているが、骨ばった顔は目尻を別にすれば若々しくつるりとしていた。落ちくぼんだ青い眼、黄色みを帯びた青白い肌。まばらな白髪を長く伸ばし、白いあごひげともみあげは密生しているのにしょぼしょぼして見えた。襟付きのファスナーカーディガンを着て、白い靴下の上に濃紺のビニールサンダルを履いている。靴下の左足の親指の部分には穴が開いている。お手上げの状態が百年続いても、こんな風貌の老人に助けや情報を求める気にはならない。リュトヴィッツはそう思った。

「この5年ほど、わしを煩わせに来なかったが」

「ちょっと休ませてやろうと思ってね」

「そりゃ、ご親切なことで」

 作業所のアーチ形の入口の前に立つ若者に声をかけた。

「お茶、カップ、ジャム」

 若い学士がドアを開いた。

 セミョーノフと2人の刑事は後から作業所に入った。中は音がよく響く広い部屋で仕切はないが、車庫と事務室に分かれていた。事務所には地図保管用のスチールキャビネット、額入りの免状類、何巻もの黒い背表紙に地形学、地理学、測地学などの文字が並んでいる。車輪付きの大きな引き戸はバンが出入りするためのものだ。滑らかなセメント床についた油染みの数からすると、バンは3台あるようだ。

「これは相棒のリュトヴィッツ大尉だ、教授」スヴェトラーノフが紹介した。「何か困ったことがあったら、相談するといい」

「お前さんと同じ厄介者にかね」

「おい、俺を怒らすなよ」

 リュトヴィッツとセミョーノフは握手をした。

 セミョーノフはリュトヴィッツに近づいてよく見ながら言った。

「この男のことはよく知ってるぞ。巡査の頃からな」

「俺もだ。雨まじりの強い風が吹いてた夜に、ホテル・プーシキンの前で。あの時は喜捨箱と、でかいスーツケースを抱えていたな。救世主の物語が書いてあるとても長い本が入ってるって。あんたは預言者だって言われてた」

「おまえさんは、わしがそういう連中の一人だと思うかね?」

 実際、リュトヴィッツはセミョーノフが《教授》であることさえもいくらか疑っていた。だが、電気ポットを相手に悪戦苦闘している若い学士の頭より少し高いところに額入りの免状がいくつもかけてある。モスクワ大。ワルシャワ大。クラクフのヤギェヴォ大。その他に各種推薦状、感謝状、宣誓供述書。どれも地味な黒い額におさめられていた。

「どうやら違うようだね」リュトヴィッツが言った。

 セミョーノフは2人に手招きする。オーク材の重厚な地図台の脇を通り過ぎて、大きな蓋つきデスクのそばに置いた二脚の椅子に足を運んだ。背もたれがハシゴ状の椅子は壊れていた。セミョーノフはきびきび動かない学士の耳をつかんだ。

「何をやっとる!」今度は若者の手をつかむ。「お前の指の爪はなんだ!まったく!」

 セミョーノフは電気ポットに水を注ぎ、お茶の葉をひと摘み入れた。葉は糸屑のようにも思えた。

「殺人事件の捜査をしてるんだが」リュトヴィッツは言った。「被害者はセンナヤ広場のホテル・プーシキンに、カスパロフの名前で泊まってた」

「カスパロフ?あの世界チャンプと同じ名前かね?」セミョーノフの羊皮紙のような黄色い額にしわが寄り、眼の奥深くで炎がきらめいた。「わしも昔はチェスをやった。もうだいぶ昔の話だが」

 セミョーノフは湯気の立つカップをよこした。持っていられないほど熱い。リュトヴィッツは指を火傷しそうだった。ひと口含む。草の匂いがするお茶だった。

「おれもだ」リュトヴィッツが言った。「殺されたカスパロフという男も、最後の最後までやってた。遺体の隣に対戦中のチェス盤があった。それから、ユスポフ・チェスクラブに出入りしてた。クラブではニコライという名前で知られてたが」

「ニコライをクラブに連れてきたのは、アンタだっていう話があるんだが」

 スヴェトラーノフは背広の内ポケットから出したポポフが撮った写真をセミョーノフに手渡した。セミョーノフは両腕を伸ばして写真を見つめた。しばらくして、死体の写真だとわかってきたようだった。深呼吸を1つする。唇をきつく結ぶ。手にした証拠品に知識人らしいしっかりした判断を加えるために心の準備をした。ただはっきり言って、死体の写真などは日常からひどくかけ離れたものだろう。

 セミョーノフはあらためて写真に視線をあてた。リュトヴィッツは老人が表情を抑える前に一瞬、腹にすばやい殴打を受けたような顔をするのを見た。肺から空気が抜け、顔から血の気が引いた。その眼から知性の光が消えた。つかの間、リュトヴィッツは老人自身の死に顔の写真を見た気がした。それから、光が老人の顔に復活した。

 刑事たちは少し待った。リュトヴィッツに老人が心の抑制を保とうと必死に戦っているのが分かった。ようやくスヴェトラーノフが問いを発した。

「それは誰なんだ、教授」

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