[14]
ヴィシネフスキーのアパートは、少し北に立つ教会と運河をはさんで向かい合う革命前からある老朽化した建物の中にあった。その前の通りにリュトヴィッツはジグリを停める。
「手をこっちへ出したまえ」ギレリスは言った。
リュトヴィッツは黙って片手を差し出した。手相に造詣があるわけではないが、妙に迷信深いところがあるギレリスは1分近くかけて、リュトヴィッツの左手をつぶさに調べて納得したようにうなずいた。
「エレーナがはじめて君を家に連れてきたときのことを覚えてるかね?」
「ええ」
「君の手相はそのころと全く変ってない。すさまじい悪運の持ち主ということだ」
ギレリスとリュトヴィッツが建物の裏庭に入る。60歳ぐらいの小柄な老婆とすれ違った。よれたレインコートを着て、小さな金庫を脇に抱えていた。老婆は鋭い目付きでギレリスのジグリを見据え、それからうさんくさそうに2人の刑事を睨んだ。「罪と罰」に出てくる金貸しの老婆その人ではないか。リュトヴィッツにはそう思えた。
「そういえば、ラスコーリニコフの下宿はこの近くだったな」
リュトヴィッツの思いを知ってか知らずか、ギレリスはそんなことを呟いた。ペンキも塗ってない安っぽい木の扉を開ける。差し込んだ陽光に驚いた大きなネズミがこそこそと暗がりへ逃げこんだ。古代の遺跡を思わせる汚れた茶色の壁を落書きが覆いつくしていた。
ひどい臭いのする狭い階段を四階まで上がった。ギレリスは手早くタバコを吹かして呼吸を整えてから、ドアのそばにある表札に眼をやった。
ドミトリ/カテリーナ・ヴィシネフスキー。
「カテリーナ?ドイツ系か?」と言うなり、ギレリスは引きひも式の呼び鈴を鳴らした。遠い教会の鐘のようなベルの音が響いて、1分ほど経ったころ、錠が回る音がした。
がっしりした鎖の長さの分だけ開いたドアのすきまに、30代半ばの金髪の女性が現れた。聡明な美しさをたたえたその顔に、隠しようのない不安の表情を浮かべていた。ギレリスがさっと身分証を開いて見せる。
「ヴィシネフスキー夫人ですか?」
「夫に何かあったんですね。そうでしょう?」
「中へ入れていただけますかな」
カテリーナはいったんドアを閉める。鎖を外してから再び開けた。刑事2人を散らかった廊下へ通した。
居間に折りたたまれたダブルサイズのソファがあった。一面の壁をユニット式の棚が占めている。ほかに小さなテーブルと二脚の肘掛け椅子、大きなワードロープが置かれていた。棚には大型のテレビとビデオデッキ、たくさんの本やビデオが収まり、テーブルには質素な食事の残りがのっている。
ロシアの平均的な住宅事情からすれば、さほど悪くない部屋だったが、棚と窓のカーテンのせいで昼間でも穴倉のように暗い。リュトヴィッツはすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。カテリーナは腕を組み、すでに予感している運命に備えて、固く身構えていた。
「悪い知らせをお持ちしました」ギレリスが抑揚のない声で言った。「ドミトリ・ヴィシネフスキー氏が亡くなりました」
未亡人になったことを宣告されたカテリーナはびくんと身を引きつらせる。それからまるで自分が死期を迎えたかのように、深いため息をついた。
リュトヴィッツはカテリーナの顔から眼をそむけた。カーテンを開けて窓の外に眼をやる。運河の向こうにある教会の丸屋根が日差しを受け、太陽のように金色に輝いている。
「そうですか」ようやくカテリーナが言った。「分かりました」
「それだけではありません。申し上げにくいことだが、ご主人は殺されたのです。われわれもついさっき、現場を見てきました。いずれ正式に身元を確認していただくことになりますが、ご主人であることは間違いありません。そして、奥さん、われわれはあなたにいくつか質問をしなくてはなりません。無神経に思われるでしょう。こちらとしてもたいへん不本意なんですが、ご主人の生前の行動を早く明らかにできれば、それだけ早く犯人を逮捕することができます」
ギレリスは堅苦しい口調を用いることで、自分の感情と事件の間に距離を置こうとしているようだった。カテリーナはぎこちなくうなずき、アクリルのセーターの袖からハンカチを取り出した。
「ええ、そうですね」
カテリーナは目元をぬぐい、鼻をかむ。気持ちを落ち着かせようと、タバコに火をつけた。しばらく煙を吸った後、うなずいて心の準備が整ったことを知らせる。
「最後にご主人を見たのはいつですか?」
「夕べの・・・7時ごろだったと思います」遠い記憶をたどるような口調だった。「主人が出かけたんです。情報提供者に会うんだと言ってました。いま書いてる原稿のことで」
ギレリスは一度にいくつもの質問をくり出した。
「その情報提供者の名前は、言いませんでしたか?どこで会うのかは?何時ごろ戻るというようなことは?」
「いいえ」
カテリーナはタバコの灰を少し落とした。
「夫は決して私に仕事の話をしませんでした。その方がいいと言うんです。聞いたら、心配するだろうって。たいていの場合、雑誌を読んだり、テレビを見たりしてはじめて夫が追いかけていたテーマを知るという有様でした。お二人とも、夫の仕事の内容はご存知ですよね?嫌がられるようなところへばっかり、首を突っ込むんです。ソ連が蛆虫の缶詰だとしたら、自分は缶切りになるんだというのが口癖でした。でも、ひとつだけ困ることが・・・」
「切った後にギザギザの角がたくさん残ることですな」ギレリスがカテリーナの言葉を引き取った。「我が国最初のジャーナリストともなれば、敵の数は2人や3人ではきかないでしょう」
カテリーナがとげの含んだ笑い声を上げた。
「2人や3人?ご自分たちの眼で確かめてみたらいいわ」
カテリーナはワードローブの前まで行き、扉を開けた。中に入って明かりのスイッチを入れると、書斎が現れた。天井から吊り下げられた裸電球が、小さな机と古い型のタイプライターを照らし出していた。
「ご覧の通り、このアパートはとても手狭です」
カテリーナは奥に取り付けられた棚から箱入りのファイルをいくつか取り出した。
「これが夫の仕事部屋でした」
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