第1話 邂逅

 少女はムクッと起き上がった。薄明るい室内。中央にそそり立つ太い柱。その柱の伸びた先、頭上で放射状に渡された梁の、はっきりとした朱色が見える。

 梁の更に上を覆うのは、羊の毛で作られた円形の天蓋。その覆い同士を繋ぐ継ぎ目からは、微かな日の光が差し込んでいた。

 少女はまだドクドクと激しく鼓動している胸元に手を当てる。何度か深呼吸を繰り返してから、再び仰向けに倒れこんだ。

 この夢を見るのは何度目になるだろうか。いつから見始めたかは覚えていないが、幼い頃から見ていたのは確かだった。忘れた頃に再びこの夢を見て、夢の中にボンヤリと思いを馳せる。それが、少女スイの恒例行事だった。


「スイ、起きたか」

「じじ様」


 大の字になってポケーッとしていると、入口の幕がしゅるしゅると上がって一人の老人が入ってくる。

 白髪を無造作に伸ばす腰の曲がった老人は、背負ってきた甕を柱の脇に置いてその場に腰を下ろした。懐から黒く光るパイプを取り出してくわえると、火のついたマッチを火皿に持っていく。スイが身支度を整えている間に、室内には煙草の煙が緩く広がっていた。


「もう少し寝ていてもいいんじゃぞ」


 スイが長い栗色の髪を結っていると、背後からゆったりとした祖父の声が聞こえてくる。髪紐を結び終えたスイは立ち上がり、振り返って笑みを浮かべた。


「動物達、放してきますね」




 彼女の一族は、何代にも渡ってこの夢を見続けてきた。不思議なもので、子孫が生まれると夢を見るのはその子孫の役目となり、他の者は見なくなる。スイの前は、亡くなった母が見ていたらしい。

 母と、入り婿である父は、数年前に亡くなった。それ以来スイは年老いた祖父と二人でここ、コンパル国の北西にあるサイタヅマ平原で暮らしていた。


「おはよう、ツキクサ!」


 出入り口の幕を下ろしたスイは、振り向き様に足元で寝そべる一頭の犬に声をかける。ツキクサと呼ばれた赤茶の長毛をたくわえる小型犬は、だらしなく放り出された長い尻尾をピクリと動したが、それ以降は動こうとしない。未だに惰眠を貪っているのだろう。スイは口元に微かな笑みを浮かべると、隣に建つテントの入口を開放する。


「みんなおはよう! 出ておいで!」


 スイの一声で、テントの中にいた家畜達はのそのそと中から出てきた。スイは一頭一頭の様子を確認しながら、東の空を仰いで目を細める。

 彼女の胸元で、朝の光を浴びてキラキラと輝く小さな玉が揺れた。透明を帯びた鮮緑色のそれ。

 夢の終わりに出てきた玉と同一のものが、今スイの胸元でキラキラと輝いていた。


 スイ達が暮らすコンパル国は、大陸の南端にある大きな国だ。北は数千メートル級の山々が連なり、その雪解け水が川となって大地を潤している。東西には草原地帯が広がり、人々は草原を縦断する川に沿って幾つもの町を興していた。

 南は肥沃な土壌の為、農耕が盛んだ。そして、二本の大河によって出来た三角州地帯に、王都ビロウドがあった。


 朝食を済ませた後の午前中は、殆ど放牧している家畜の世話で終わる。子ヒツジや子ヤギを母親の元へ連れていき、乳を飲ませる。その間に他の家畜の乳を絞り、絞った乳をテントまで運んでいくのだ。

 この乳運びは中々の重労働だ。家畜達は皆揃って乳の出が良く、甕はすぐにいっぱいになってしまう。スイはもう十五にもなる娘だが、彼女にとって甕はまだまだ重い荷物だった。何もない場所でつまづいて、全てを地面にぶちまけてしまう事もよく見られる光景の一つだ。


 昼食が終わると、家畜の番は祖父と交替になる。スイは家の中で縫い物をしたり、夕食の準備をしたりと比較的ゆったりとした時間を過ごすことになる。

 彼女は今祖父の為の外套を作っていた。羊の毛で織物を拵え、それをせっせと縫い合わせていく。指を血だらけにしつつも毎日少しずつ形になっていったそれは、今日ようやく完成するのであった。

 歯で糸を切って手元の外套を広げた彼女は、目を輝かせながら外へ飛び出した。


「じじ様! 出来ましたよ、見て下さい!」


 祖父は家畜の放牧地帯を区切っている木の柵に腰かけて、草笛を吹いている所だった。長い眉毛で目元が隠れて表情が読めないが、その声色はとても嬉しそうだ。


「ほっほ。どれ、見せてごらん」

「はい」


 スイは誂えたばかりの外套を祖父へ手渡す。日焼けしてしわくちゃな手は、均等な間隔の縫い目をいとおしそうに撫でた。


「死んだばあ様が見たら、大層喜ぶじゃろうて。あの不器用なスイがここまでの腕前になった、とな」

「ばば様ほど綺麗には出来なかったけど、作りはしっかりとさせたつもりよ。どうでしょうじじ様、お気に召しましまか?」

「ああ、勿論じゃ。ありがとうな、スイ」


 頭をくしゃくしゃと撫でられ、スイは照れ臭そうにはにかんだ。舞うようにくるりと一回りすると、手を後ろに組んで微笑みながら小首をかしげる。


「じじ様、ツキクサと川に行ってきても良いですか?」

「うむ。行っておいで」

「やった! 行こう、ツキクサ」


 祖父の許可が下りると、スイはテント脇で寝そべっている愛犬に一声かけて走り出した。名を呼ばれたツキクサは素早い動作で起き上がると、ウォンと高く哭いて少女の後へ続く。

 ツキクサは走っているスイの真横へ瞬時に追い付くと、そのまま速度を合わせて並んだ。初夏の瑞々しい風が脇を駆け抜けていく。少女は弾む息に頬を赤らめながら、子犬のように駆け続けた。


 スイらが虚を構えている草原からしばらく東に行ったところに、綺麗な水の流れる小川がある。川幅は一メートルもないような細い川だが、水は絶える事なく滔々と流れていた。

 川が見えてくると、スイは早速履いていた靴を脱ぎ捨てる。一瞬立ち止まって足元を露出させると、川の中へ勢いよく跳躍した。ツキクサもその後に続いて、水しぶきをあげて飛び込んでくる。水を頭から浴びたスイは、ケラケラ笑いながら水を掬って愛犬へと浴びせかける。


「えいっ、やったなー! このっ、この!」


 ツキクサはスイの反撃をさらりとかわすと、再び岸に上がってまた川の中へ飛び込んできた。スイは再度頭から水をかぶってしまう。

 ツキクサは、スイの唯一の友達だった。偶然知り合った遊牧民から数年前にたまたま譲ってもらった子犬が、ツキクサだ。日陰で寝そべる事が好きな雑種の小型犬だが、頭は良いらしい。家畜の一頭が群れからはぐれたことに主人達が気付かなくても、ツキクサは自分で連れ戻して来たりする。しかし普段はもっぱら四肢を投げ出して眠っている、そんな犬だった。


 スイは一頻り遊び終えると、川から上がって草原にごろりと寝転がる。隣で身体を震わせるツキクサの飛沫を感じながら、頭上に広がる空を見上げた。濃い青空にかかるうっすらとした細い雲は、ゆったりと流れている。耳元でサヤサヤと風に揺れる草の音を聴きながら、目を閉じた。

 このまま少し寝てしまおう。そう思って深い呼吸を何度か繰り返していると、頭の上を駆けていく軽い足音を感じた。片目を開けて確認してみると、ツキクサの後ろ姿があっという間に小さくなっていくのが見える。

 動物でも発見したのだろうか。まあいいかと再度目を閉じようとすると、次いでツキクサがけたたましく吠える声が聞こえてきた。


「何……?」


 身体を起こしてみると、爪ぐらいの大きさになるまで遠くに行ったツキクサが見えた。ウォンウォン吠えながら、川からひどく汚れたボロボロのズタ袋らしきものをくわえて引き上げている。

 しばらく待機してみたが、ツキクサは鳴き声は止まない。スイはどっこらしょと立ち上がった。


(ズタ袋なんかで、どうしてあんなに吠えるんだろう)


 やれやれと思いながら歩いていたスイは、ふと一抹の予感を感じる。そのまさかという思いを最初は否定したが、距離が近付くにつれ、悪い予感はどんどん大きさを増していった。

 遂にスイは走り出した。ツキクサがくわえる『もの』が、動いたのが見えたからだ。


「ツキクサ!」


 スイが近寄ると、ツキクサはずぶ濡れになった『もの』を地面に落とした。

 僅かに聞こえるくぐもった呻き声。ボロボロに破れた衣服。所々血で濡れた身体。スイはごくりと唾を飲み、無意識に呟いた。


「ひ……、人だった……」

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