Layer_2/ Adolescence(4)
――再び、一人になってしまった。
静けさの中で、私はもう一度、少年の言葉を繰り返す。
「諦め……」
ユークリッドは、諦めないと約束してくれた。だが、例えば、全ての記憶を取り戻した君なら、何と答えたのだろう。きっとその前に、頭を撃ち抜いてしまうのだろう、君は。
君は何故死ななければならないのか。未来を否定しなければならないのか。
本当は、自分が生きている世界を、何よりも愛していたのだという、君が。生きることを諦めてしまう理由は、何なのだろうか。
その時。
『諦め、か。それもまた、一つの決断ではある』
ぽつり、と。闇の中に声が生まれる。微かな、しかし妙によく響く声が。
『だが、時によってそれは猛毒だ。……まあ、私は、その毒に侵されて死んだわけだが』
声が近づいてくるにつれて、モニタの暗闇の中に青ざめた禿頭の青年の姿が浮かび上がる。
「シスル」
何も無い場所に突如として現れた第二階層の守護者は、色眼鏡越しの視線をこちらに向けて、小首をかしげる。
『誰か、そこにいたのかな。管理側の誰かが』
「……ああ。案内人の少年が」
少年、という言葉にシスルの表情が少しだけ動いた。『彼が』と言いかけたことだけはわかったが、すぐに苦笑じみた表情を浮かべて言う。
『それはそうか、これは奴の記録だからな。彼が役割を負っていなければ、それこそ片手落ちもいいところだ』
「君は……、彼について何か知っているのか?」
知らない、ということはないはずだ。かの少年があれだけシスルについて喋ってくれたのだ、シスルもまた、少年を知っていてしかるべきだ。
かくして、シスルは小さな頷きをもって、私の問いに答えた。
『ああ。ただし、今こうして話している「私」の彼に対する知識は、オリジナルの私に比べていくらか欠けているだろうな』
いくら私について詳細に記録していたとしても、奴は私ではありえないのだから、と。そう言ったシスルの表情は、少しばかり冴えなかった。今までの彼らしくもない表情だと思いながら、つい、質問を投げかけてしまう。
「君と彼は、どういう関係なんだ?」
『それはこの試行には関係ないだろう? でもまあ、そうだな』
シスルは言葉を選ぶようにしばし沈思して、それから、ぽつりと、言った。
『本当は共に生きたかった。そういう関係だ』
共に、生きたかった。噛み締めるように囁かれた言葉の重みに、いつでも余裕に満ちてユークリッドを導いてみせる彼が抱えていた感情を、初めて垣間見たような気がした。
少年は、「シスルになってから」の彼については知りえないと言っていた。要するに、あの少年は――ヒースの記憶ではない本来の少年自身は、シスルが辿った顛末を知ることができなかったのだ。
おそらくは、少年自身の死をもって。
苦いものが身の内側からこみ上げてくるのを感じる。シスルは相変わらず飄然とした態度を崩さないが、それでも、彼が少年に対して抱いている思いの強さくらいは、わかる。
「……すまない、辛いことを聞いてしまった」
『いや、どうせ、終わった話だ。彼についても、私についてもな。私の「シスル」としての生涯は長い後日談だったが、今の私は更にその続き、劣化した続編というやつだ』
シスルは不器用に口の端を歪めて、歌うように、もしくは物語るように言う。もしかすると、彼の認識を通せば、この塔での出来事だけではなく、彼の人生そのものが一篇の「物語」なのかもしれない。私は彼の人生を知らないが、それはきっと、波乱に満ちた物語であったに違いない。
少しばかり遠くを見つめるように、顎を上げて色眼鏡越しに闇を見透かすような仕草をしていたシスルは、小さく息をついたかと思うとこちらに向き直った。
『さて、ダリア。君にいくつか質問したいことがあるのだが、いいかな?』
「それも『ゲーム』のうちか」
『そういうことになるな。言っただろう、私は君のことも試さなきゃならない』
そうだった。シスルが「二人を試す者」だと宣言した以上、私もまた試されるべき存在なのだ。モニタ越しにシスルの手が届かないということはわかっていても、言葉の力で押しつぶされることのないように、身構える。
対するシスルは、私の緊張に反していたって軽い口調で言い放つ。
『まずは、君について教えてくれないか。私も、ユークリッドほどではないが、過去の試行の記憶は曖昧でね。いつか断片的には聞いていたのかもしれないが、改めて聞かせてほしい』
……少々、意外な質問だった。
今まで、この塔の誰も、観測者であり、直接このプログラムに干渉することができない私に意識を払うことはなかった。そう、シスルですら、そうだったのだ。私の名は聞かれたが、私の出自や背景を気に留めることはなかった。
守護者というのはそういうものだと、思い込んでいた。
そう言うと、シスルは『はは』と軽やかに笑う。
『アンタの認識が正しい。本来、守護者は観測者に意識を払うようにはできていない。今の私は何かがおかしいんだ。いや、アンタたちの話を聞く限り、私だけじゃなく、この再誕儀式プログラム全体が、と言った方がよさそうだな』
あっさりと言ってくれたものだが、それは最も私が危惧していることだ。つい渋い声が漏れてしまう。
「……やはり、何かが狂っているのは間違いないのか」
『ああ。原因も何となくわかってはいるが、それは私が言うことではないからな。アンタたちがこの先で、明らかにしていくことだ。――先に進めれば、だが』
そのためにもアンタのことを教えてくれないか、と言うシスルの態度は、私を試すというよりも、単に私の人となりに興味があるだけのようにも思えてくる。
とはいえ、答えなければ話は先に進まないので、何とか、私という存在を上手く言葉を選びながら答えていく。この「言葉を選ぶ」という作業がなかなか難しくて、何度かシスルに聞き返されることになった。
何しろ、私が本来使っている言葉と、このプログラムで使用されている言葉はまるで異なっている。中には、ごくごく簡単な内容ですら、プログラム内の言語では上手く説明できないこともあるのだ。今まで、ユークリッド以外に私の事情に関して説明する必要に迫られたこともなかったから、尚更。
そんな、要領の得ない私の言葉を、しかし、シスルは極めて根気強く聞いてくれていた。興味と関心と、少しばかりの羨望を宿して。やがて、私の言葉が絶えたところで、シスルは深く息をついて言う。
『いくつか、私にはよくわからない言葉はあったが、アンタが恵まれた環境にあるということはわかったよ』
「……だろうな。それは、ずっと、感じているよ」
私のこれまでの生涯が、シスルやガーデニア、それにユークリッド本人から見てもいたって平穏で恵まれたものなのだろうことは、あえて指摘されるまでもなく、塔のあちこちに刻まれた記憶を眺めているだけでもわかる。
だから。
『では、次の質問だ。話を聞く限り、アンタは本来ユークリッドとは縁もゆかりもないはずだ。何故、このプログラムを実行しようと思った?』
その質問が当然だということも、わかる。
わかるのだが、改めて言葉にしようとすると、何とも気恥ずかしい。ユークリッド本人には言えるかもしれないが、それを、いくら君の記憶から現れた存在とはいえ、別の相手に物語るのはなかなか辛いものがある。
それでも、言わなければならない。シスルには、わかってもらわねばならない。
私が、どれだけ棺の内側に眠る白々とした「君」に思いを募らせてきたのかを。
「恋を、したんだ」
『……お、おう?』
「恋をしたんだ! 一目ぼれだったんだ! きっと君は笑うだろう、最初に私が恋したのは彼の姿形だったのだから。だが、言葉を交わしたいと願った。何を思い、何に笑いかけるのかを知りたかった。だからこのプログラムに挑んでいる! 彼と本当の意味で出会うために!」
もし、私がシスルと同じ空間に立っているならば、その肩をぐっと掴んで揺さぶっていただろう。そして、その剣幕はシスルにも伝わったらしく、慌てた様子で両手を振る。
『わ、わかったわかった、だから落ち着いてくれ、頼むから』
「落ち着いていられるか! 勢いで言ってしまったが、恥ずかしくて仕方ない!」
ここに鏡がないのが救いだ。もしここで自分の顔を見てしまったら、それこそ頬の赤さに更にいたたまれなくなるに違いないから。
そんな私の言葉を聞いたシスルは、ふと、穏やかな息をつく。
『そうか……、そうか、あいつになあ』
シスルの声は、私への揶揄というよりは、単純に感慨深さを噛み締めているようだった。
『恋というのは落ちるものだ、理性でどうこうできるものでもないことは、私もよく知っている。それこそ、痛いほどにな』
「シスル……」
『だが、聞かせてくれ、ダリア。アンタは「誰」に恋をしている?』
「……どういう意味だ?」
『言葉通りだ。最初はまあ、あれの姿形に恋をした、それでいいと思う。だが、アンタは今までに四度の試行を経ているから、わかるはずだ。このプログラムは、アンタがユークリッドと呼ぶあの男に「ヒース・ガーランド」を取り戻させるための儀式だ』
それは、わかっている。
最初からわかっているのだ。このプログラムは、ユークリッドがヒースとしての記憶を全て取り戻さなければ終わらない。死者であるらしいヒース・ガーランドを、ほぼ完全な形で取り戻すための儀式である以上、その前提は覆らない。
だが、シスルはこう問いかけてくるのだ。
『で、アンタは、本当に「ヒース・ガーランド」を取り戻したいと望んでいるのか?』
そういえば、そんなこと、考えもしなかった。
このプログラム自体が最初から「そういうもの」と定義されていた以上、そこに疑問を差し挟む余地がなかったといえる。私の目的は、棺の中に眠る君を目覚めさせることで、この試行は目的に必要な過程であったから。
ただ、改めてシスルから問いかけられた内容は、私が記憶を取り戻した君に感じた僅かな反発を思い出すには十分すぎた。
私は、恋をした。それは間違いないと思う。だが、それは本当に「君」に対する恋なのか。
私が恋をしているのは、誰に対してなのか――。
堂々巡りに陥りかけた私の思考に、ぱん、という音が割り込む。シスルが手を打ち合わせた音だと気づいたのは、一拍遅れてからだった。
『オーケイ、今ここで答えられないならばそれで構わない。ただ、奴をよく知る者として、一つだけ言っておきたいことがある』
人差し指を立てたシスルは、ほんの少しだけ薄い色の唇を歪めて言う。
『アンタの恋を叶えるには、奇跡が必要だ。あの石頭を納得させるだけの、とびっきりの奇跡がな』
――都合のよい奇跡なんて望まない。
そう言った君の姿が脳裏に蘇る。奇跡。本来なら起こりえないような出来事。神秘的な力の関与を感じさせる出来事。そういう辞書的な意味はわかるが、シスルが言う「奇跡」は――もしくは君の言うところの「奇跡」とは、ただそれだけの意味とは思えなかった。
『奇跡とは、自然に起こるもんじゃない。ましてや、誰かに用意されるもんでもない。心から望み、その望みのために全力で駆け抜けた時、初めてその先に現れるものだと、私は考えている。きっと、奴もな』
何しろ奴と私は、そういうところばかり似ているからな、とシスルは皮肉げに笑う。
『そして、アンタに必要な奇跡は、アンタ一人が望んだところで決して引き寄せられない。恋というのは、人と人との間に生まれるもの。相手がいなきゃ、始まらない。そいつが奇跡を望まない限り、アンタの望みは叶わない』
「だが、あの時、ユークリッドは、ヒースは『奇跡など望まない』と言っていた」
そして、頭を撃ち抜いたのだ。その時の彼のどこか申し訳なさそうな表情を思い出して、胸が軋むのを感じた、その時。
『ああ、その通り。本来は、奴が奇跡を望むなんてあり得ないんだ。奴は不確定なものを信じない。奴が信じるのは確かな行動と思考の積み重ねと、そこから導き出される結果だけだ。だが、この試行ならば、あるいは――』
シスルが言いかけた時、モニタの向こうに広がっていた暗闇に、音も無く、光の亀裂が入る。私の息を呑む気配で、シスルも異変に気づいたのだろう。特に驚いた様子も無く亀裂を見やり、のんびりと言う。
『おや、案外早かったな』
そんなシスルの声と同時に、亀裂が一瞬にして広がり、暗闇が砕け散った。そして、一瞬前まで暗闇に包まれていた場所には、
『見つけましたよ、シスルさん!』
灰色の街を背景にして、背筋を伸ばしたユークリッドが立っていた。
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