Layer_0/ Reboot(3)
『あの、ダリアさん?』
君の声が聞こえた途端、ノイズは晴れ、曇りひとつない視界に君の姿が映し出される。君は、視線だけは聳え立つ塔に向けたまま、不安げな声で問うてくる。
『僕があの塔を上らない、という選択肢は存在しているのですか?』
全く同じ質問を、前の試行でもされたはずだ。一瞬だけ目に映った妙なイメージを振り払い、気を取り直して考え直す。
その時、私は何と答えたのだったか。「上らないのは自由だろう。ただ、私が知る限り、今、君がいる回廊には出口が存在しない」とか、そんなところだったか。
最初の試行で提示されたクロウリー博士による説明によれば、塔の中で行われるRIP――再誕儀式プログラムを完遂することによって君の意識が肉体と同期し、棺の鍵が開くとされている。故に、この塔を攻略しない限り、君が現実に目覚めることは不可能だ。
ただ、三度の試行を経てきた今では、果たして「君がこの塔を攻略し、目覚めること」そのものが正しいのかも、わからなくなってきている。
第一層のガーデニアは、君が塔を攻略することを望んではいなかった。
第二層のシスルは、前に進もうとする君に何かを伝えようとしていた。
第三層のクロウリー博士は、君が全てを取り戻して目覚めることを望んだ。
それぞれの願いには、相容れないものがある。特にガーデニアは、このシステム自体が果たして君のためになるのか、懐疑的なようだった。とはいえ、彼女は君のことが嫌いであったようだから、意地悪でそう言っただけなのかもしれないが。
それにしても、プログラムによって形作られた守護者たちが、てんでばらばらなことを考えているのが不思議だ。このプログラムの意義を考えれば、三人とも同じように君の記憶を取り戻すことに積極的であるべきだとは思うのだが。
『ダリアさん? どうかしましたか?』
「あ、ああ……。そう、君に与えられた選択肢、だったな」
駄目だ、考えれば考えるほど、わからなくなってくる。この再誕儀式プログラムの存在目的、君に過去を追体験させる意義。それに、選択肢、という言葉で思い出されるのは、第三試行でのシスルの言葉。
『選択するのは、あくまであなた方だ』
私は、もしかして何かを失念しているのではないか。君が記憶を取り戻すか、諦めた結果として初期化されるか。その二つしか取れる選択肢などないと思っていたし、今でもその認識は覆ってはいない。
ただ、選択するのは何も、君だけではないのかもしれない。シスルの言葉を信じるならば、私も、何らかの選択を迫られている――?
考えは尽きないが、まずは君に答えなければならない。呼吸を一つ置いて、一つ一つ、君に伝わるように言葉を選びながら語りかけていく。
「君が今いる回廊に、出口はない。私も詳細は把握していないが、君が塔を上りきって、己の記憶を取り戻すことで、初めて外に出られる仕組みになっているはずだ」
『なるほど、ほとんど僕に選択肢はないも同然ですか……』
「すまないな、困らせるようなことを言ってしまって」
『いえ、出口があるらしい、とわかっただけでもよかったです。ここは息苦しくて、何となく寂しいんです』
――寂しい。
きっと深く意識したわけでもない、ごくごく率直な感想。だが、それは確かに、私の心の奥深くに木霊する。
「そう、だな。君がここから外に出られるよう、私も出来る限り協力しよう」
寂しい。当然だ。ここに君以外の生きた人間は存在しない。
己の意思を持っているように見える守護者も、それに、開発者にしてプログラムの管理役を務めるクロウリー博士だって、あくまで私の目の前に聳える電子演算機が構築した仮想人格でしかない。
もちろん、今の君がそれをわかっているとは思えないし、私がそれを伝えることもできないけれど。それでも「寂しい」という言葉は私の胸にも鈍い痛みを伴って広がっていくのだ。
寂しい。私だって、寂しいんだ。君が、自分の命を投げ捨てるその瞬間を目にしてしまえば。それが記憶を取り戻した君――ヒース自身の意志だとしても。
モニタの上に載せた手を、強く、痛みを覚えるほどに強く握り締める。こんな痛み、君がこれから思い出していく痛みや苦しみに比べたら蚊に刺された程度でしかないのだろうけれど――。
唇を噛んだところで、君が、ふと、真っ赤な目をこちらに向ける。
『もう一つ、質問していいですか』
「……ああ」
『ダリアさんは、何故、僕の協力をしてくださるのですか? それがあなたの仕事なのでしょうか』
真っ先にそういう思考になるのは、今までの経験を通して、記憶を持たない今もなお「常識」として染み付いたものだからだろうか。人の手でつくられた人であり、生まれた時から実験体であった君は、あまりにも他者に「観測される」ことに慣れきってしまっている。
だから、私は、真っ先に否定しなければならない。
「いや、そうじゃない」
私が君に呼びかけたのは、誰かに求められたからではない。
「私は、君を、この閉ざされた塔の外に導きたいんだ。君ときちんと顔を合わせて、言葉を交わしたい」
それだけ、と言いかけた君の口を塞ぐように。
私は。
「だって、君のことが、好きなんだ」
今まで決して届かなかった思いを、はっきりと、告白する。
君は、きょとんと大きな目を更に見開いて。長い睫毛に縁取られた瞼をぱちぱちさせて。
『え、好き、って……、僕のことが?』
「君以外に誰がいるというんだ」
『いえ、その、でも急に言われても、って僕が忘れてるだけなんですよね……?』
別に、忘れてるわけじゃない。君の記憶を全て取り返したところで、ヒースの記憶の中に私の姿などあるはずがないのだから。
それ以前に、君がヒースとしての記憶を最初から持っているならば、私のことを知っているかどうかにかかわらず、断固拒絶しただろう。
今までの試行で理解している。ヒース・ガーランドの「恋」へのトラウマは、それほどまでに根深い。
けれど、何もかもを忘れているまっさらな君は、おろおろしながらも、真っ直ぐに、見えてもいない「私」を見上げて目を逸らそうとはしない。
『あなたのことを忘れてしまって、ごめんなさい。今の僕は、あなたの気持ちを、どう受け止めていいかも、わからないんです。でも、あなたの言葉を聞いていると、何だか、温かい気持ちになって――そう、ほっとするんです』
その透き通った瞳の奥の奥に、私の顔が映りこんでいる――そんな幻視を垣間見て、胸が高鳴る。
『僕は、一人じゃないんですね』
そうだ、一人じゃない。君はこれから知ることになる。今まで君が築いてきた人と人との繋がりを。
だが、それと同時に、私が確かにここにいることも、知ってほしい。
君のために今日まで生きてきた、私が、ここに。
君は、胸の前でぎゅっと白い拳を握り締めて、よく通る綺麗な声で宣言する。
『……記憶を取り戻したい。あなたのことを、知りたい。そのためにも、僕は塔を上ろうと思います。よろしくお願いします、ダリアさん』
ダリア。私の名前。私にとっては当たり前のはずの名前も、君の唇から紡がれると、それが一つの歌のように聞こえて、体の芯が熱く燃えるような錯覚を覚える。
不安は消えない。また同じ結末を辿る可能性を考えると、恐怖すら感じる。
それでも、私は諦めない。私は君を目覚めさせる、そのためにここにいるのだ。
「よし!」
緊張と、あと少しばかり火照った頬を落ち着かせるために、強く頬を叩いて。ちょっと力加減を誤って、結構痛かったけれど。
「ならば行こう、ユークリッド!」
ユークリッド、と。繰り返した君は、こくりと首を傾げる。
『それが、僕の、名前ですか?』
何となく、気づいているのだろう。それが、本当の名前ではないことに。今までの試行でも、君は全てを忘れていても「名前」に対してだけは違和感を感じていたようだったから。
「いや、私が勝手にそう呼んでいるだけだ。本当の名前は、君が思い出すまで君の耳には届かない仕組みになっているようでな。だが、それまで名前が無いのは不便だろう?」
本当は、二人きりなのだから「君」とでも呼べばよいのだとは、わかっている。
けれど、どうしても。君の本当の名前を知った今でも、君のことを「ユークリッド」と呼びたかったんだ。理由は、私にもよくわからなかったけれど。
君は、もう一度「ユークリッド」と呟いて、くしゃりと笑ってみせる。
『仮でも、名前を呼ばれるのは、嬉しいです』
「嬉しい……、そういうものだろうか」
『ええ。何もわからないって、すごく怖いんです。今にもこの指先からほどけて、溶けて消えてしまうんじゃないか。僕が今考えていることも、一瞬後には忘れてしまうんじゃないか。そんな悪い想像ばかりが膨らむんですよ』
それは、初耳だった。今まで、目覚めたばかりの君は、私に警戒してか多くを語ってはくれなかったから。
『だけど、名前で呼んでもらえると、僕は僕だってわかるというか。ダリアさんに呼ばれることで、僕がここにいることを、信じられる。そんな気がします』
ユークリッド。
やはり君は、私のことを覚えていてくれているのだろうか。
私を、信頼に値する相手だと、信じてくれているのだろうか。
そうでなくとも構わない。初期化しきれなかったほんの一滴の残滓でも構わない。
ただ、私はたった今、君の言葉に救われたんだ、ユークリッド。
「ありがとう」
『え?』
「お陰で、私も迷わずに済みそうだ」
そうだ、もう迷うのは止めだ。らしくないにもほどがある。
このダリア・シャール・バロウズ、君と出会ったその日から、今日を夢見て生きてきた。
これが最後。君を思うなら、最後であるべきだ。そう決めたことを覆す気はない。
だが、最後の最後まで諦めなどしない、君が記憶を取り戻すその時まで、私は全力で君を支え、そして君が目覚めるその時を信じ続けよう。
君が――そして何よりも私自身が、後悔のないように。
私は、武者震いと共に声を上げる。
「さあ、冒険の始まりだ、ユークリッド!」
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