魔女見習いの湯 (後)
◆
ハレイナはまず時間をかけて身体を洗い、洗髪した。
頭から湯をかけ泡を落とし終えると、ようやくさっぱりした気分になったので、湯船のなかに入り腰を落ちつかせる。
「……はあ生き返る」
良い湯だ。
生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのだから、これは間違った表現ではない。
久しぶりに人間らしい気持ちに戻れた。
「お湯加減は如何ですか?」
「あ、番頭さん」
声をかけてきたのは番頭。
ここの従業員だ。
ハレイナにとって彼女は同じ分野で活躍する人物だと思っている。
何故なら番頭はカンポーに造詣が深い。この銭湯で生み出される薬湯は、彼女と若旦那の知識によるものなのだ。
故に自分にとっては、先人のような存在だ。尊敬の念を込め、心の中で師匠と呼んでいる。
「風邪大変だったみたいですね」
「すっかり治りました」
いつの間にか風邪を引いたことになっている。
もう訂正するのも面倒なのでそういう事にしてしまう事にした。
「良かったら日替わりの湯も試してみて下さい。病み上がりにぴったりの湯ですから」
日替わりの湯は、松の湯の名物のひとつだ。
いつも一風変わった湯が楽しめるのだが、病後に効果がある湯というのは非常に興味深い。
何の湯か尋ねると、番頭は僅かに嬉しそうに口元を緩めた後、教えてくれた。
「蜜柑の湯です」
◆
日替わりの湯に移動すると、橙色の何かが、ぷかぷかと浮いていた。
「いい匂い」
どうやら柑橘類のようだ。
甘橙オレンジに似ているが一回り小さなもので、爽やかさのある甘い匂いがした。
皮は一端、カラカラに陰干ししたものだと分かる。これもカンポーの一種なのだろう。
こうして湯に浮かべる事で有効成分が、体を温め体調を改善してくれるのかもしれない。
油分が肌にピリピリとくるが、むしろ効果を実感できる気がした。
「やや高価ではあるがありふれた果実の皮に、高価を見出し、二次利用するとは、カンポー……おそるべし!」
ハレイナは銭湯が好きだ。
このマツノーユでは色々学ぶ事も多い。
だが何より、銭湯が良いと思うのは思索にふけるのに適している事だ。
気分転換になるし、何というか考えに没頭できる。
「……ふむ」
ハレイナは蜜柑の皮を弄びながら考える。
「それにしても何故、黒霧の病が治ったのだろう」
あれは自然治癒ではない。また薬品棚にあった薬のどれかの効果でもない。
もっと別の要因によるものい違いなかった。
「……」
湯船のへりに寄り掛かり、同居人の様子を観察する。
お湯を貯めた風呂桶の中で、彼はぷかぷかと浮いていた。
湯船からすくった湯をかけてやると、更に嬉しそうに身体を揺らす。
「ププ」
世間ではあまり知られていなかったが、ブルースライムは実は優れた免疫能力を持っている生物だ。
どんな強力な毒や疫病を全く受け付けない。
また他にない強力な環境洗浄力も持っている。
例えば毒で満たされた沼地を数日で無毒化できる程だ。
更には黒霧病すら受け付けないことにハレイナが目をつけたのは数年前のことだった。
「……」
瞼を閉じ、記憶を探る。
黒霧病にかかり、意識が朦朧としていた時の、自分の行動を思い出そうとした。
確か、同居人に餌をやろうとしたのだ。
そしてふと思った
『もしかしたらブルースライムと同じ物を口にすれば、強力な免疫能力が身につくのではないか』
平時であれば馬鹿げた発想と一蹴していただろう。
だが、あの時は熱に浮かされており、更には精神的に追いつめられてもいた。
つまり正気ではなかった。
故に一か八か、試みた覚えがある。
「確かあの時に口にしたのは柑橘類と……チーズ」
どちらも多くの人間が日常的に口にするものだ。
それが薬になるなら、今のように疫病は広まってなどいない。
なからばどういう事か。
あの二つはただの食べ物ではなく、ブルースライムが食べられるように加工したものだ。
「……黴! 青黴!」
スライムは腐った物や黴の生えたものなどを好んで食べる。
あの時、果実の皮とチーズには青黴が付着していた。ならばあれに病気の原因を殺す力が含まれている可能性があると考えるべきだろう。
「でも多分、黴を生やすだけじゃ駄目だろうな」
ハレイナは更に考える。
青黴にも幾つも種類がある。
ブルースライムがとりわけ好む味・がある事も理解していた。
つまり彼が本当に好む青黴こそが有益な黴。
薬の素になるに違いない。
「これを突き詰れば、黒霧病の薬が生成できる……?」
「プ!?」
思わず湯船のなかで立ち上がると、同居人がびっくりしたように粘体の身体をびくりと震わせる。
青黴など簡単に培養できる。
これが成功すれば、安価で大量生産可能な薬が生成できる。つまり貴族や金持ちでなくても黒霧の病を治療できるようになるに違いない。
「……なんてね。所詮は推論の世界。憶測の産物」
そんな簡単に事が運ぶはずがない。
大陸中で起きている病を治すだなんて大それた事だ。
落ちこぼれの魔女見習いにできるわけがない。
「まあ地下研究室に戻ったら、一応実験してはみるか」
「プ」
同居人も手伝ってくれるようだ。
ハレイナは「んーっ」と伸びをし、ふうと肩を落とした。
それから湯船に入り直すと、縁に身を委ねた。
瞼を閉じると、暫く考えるのは止める。
代わりに爽やかな蜜柑の香りを楽しむことにした。
何より今は、くつろぎたい。
世界を救うよりも自分を癒す方が先である。
「はあゴクラクゴクラク♪」
【魔女見習いの湯 了】
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