第二日:01【御堂小夜子】

第二日:01【御堂小夜子】


 テレビでは、朝のニュース番組が流れている。


 アナウンサーが外交問題について読み上げる声を聞き流しつつ、もそもそと気怠げに咀嚼する。何度も繰り返されてきた、小夜子の朝食光景であった。

 献立は牛乳代わりに豆乳を使ったコーンフレーク、もしくは前日に買っておいた惣菜パンだ。理由は至極簡単で合理的。「片付けが楽」だからである。

 作業的にコーンフレークを食べ終えると、水でボウルとスプーンを洗う。その後水切りバットに食器を入れた小夜子は、今度は身支度を整えに洗面所へ向かった。


 御堂小夜子には、母親がいない。

 いや正確には何処かで生きているのだろうが……連絡はとれないし、とるつもりもない。何故なら血縁上のその母体は娘が小学二年になって間もないころ、男を作り出て行ってしまったからだ。

 あの日学校から帰ると家には誰もおらず、台所のテーブル上に母親の分が記入された離婚届が置かれていたのを少女は覚えている。

 今にして思えば、夫より娘が先に目にするであろう場所へそんな物を置いておく行為自体に理性の存在を疑うものの……まあ所詮そんなメンタリティの女だったのだろう、と小夜子は評価を下すことで終わらせている。


 別段、感傷は無い。

 何故なら当時から既に、彼女の精神の拠り所は母親でも父親でもなかったためだ。だからこの件に対する感想は、「やっぱり女ってクソね」という程度であった。

 感性がおそらく一般からズレていることは、小夜子自身も自覚している。


 一方妻が出て行ってからの父は、劣等感を振り払うかの如く仕事に没頭した。そしてそれが功を奏したのか、若くして重要な役職を任されるまでに出世していく。かくして取引先との商談やら社内調整やらに追われる彼は日本中を飛び回り、家にはほとんど帰れなくなったのだ。

 しかし父親が家を空けるのは仕事のせいだけではなく、自分を避けているからだ……と小夜が気付いたのは、小学校も高学年になってからであった。


 最早彼は、逃げた妻に対する意地だけで娘を育てているのかもしれない。

 自分を裏切った女の顔に年々似てくる少女を育てねばならない、という父親の苦痛を察すると、小夜子は時々申し訳ない気分になってくる。

 いっそのこと愛人を作るなり、後妻でも貰って気持ちを切り替えてくれればいいのにと小夜子は思うのだが……そんな簡単に折り合いを付けられるものでもないらしい。そういった気配は、父からは全く感じられなかった。



 歯を磨いて、シャワーを浴びる。髪を乾かすのは面倒だが、昨夜は夢のせいで気持ちの悪い汗をかいたため、どうしても浴びておきたかったのだ。


 ドライヤーでの乾燥を終え、制服に着替えて鏡の前で髪を編む小夜子。

 鏡には、見慣れた顔をした眼鏡の少女が映っている。色も生気も薄い肌、低い鼻、血色の悪い唇、細長くつり上がった目にはご丁寧に慢性的なクマのおまけつき。「陰湿そうで病的な顔」というのが、小夜子の自己評価である。


「んっ」


 編みながら途中、ふと手を捻って小指側の側面を見た。

 昨晩散々転んで付いたはずの傷は、何処にも無い。夢である良い証拠だろう。


「ホント、最低な夢だったな」


 身支度を終わらせ、壁掛け時計へ視線を投げる。

 液晶には大きなデジタルで、「午前七時四十分」との表示。


「そろそろ出ないと」


 一人呟く小夜子。

 だがその声は少なからず、弾んでいる。



 通学バッグを持ち玄関に向かい、靴を履く。ドアを開けて外に出て施錠、門へ向かう。家の前に出たところで足を止め、バッグを右肩にかけ直しながら少し待つ。


「ふんふん」


 鼻歌交じりに待っていると……やがて左隣の家から「行ってらっしゃい」「行ってきます」という、親子の交わす声が彼女の耳にまで届いてきた。次いできぃ、と門を開け、そして閉める音。

 すぐに小夜子の視界に、彼女と同じ制服を着た少女が現れる。


 背はすらりと、小夜子より頭一つほど高い。加えて高校生とは思えぬ、均整のとれた体つき。優しげな目元に形の良い鼻、薄い唇。口元左下のホクロもアクセントになっている。身体の動きでふわりとなびくストレートの黒長髪がなんとも映える、清楚な少女だ。

 いや。「美少女」と形容すべき人物であった。


 その彼女へ向けて、満面の笑みと共に小夜子が声を上げる。


「おはよう、えりちゃん!」


 美少女が微笑みながら、挨拶を返す。


「お待たせ。おはよう、さっちゃん」


 彼女は隣に住む、幼馴染の長野恵梨香。

 小夜子の女神である。


「行こうか、さっちゃん」

「うん!」


 さも当然という流れで、恵梨香の右腕に自らの左腕を絡める小夜子。

 そこからさらに身体を密着させつつ、深呼吸するフリをして大きく鼻から息を吸い込み、恵梨香が纏う空気を全力で鼻腔に送り込む。自身とは違うシャンプーの香りが、小夜子の心身を満足させた。

 幼馴染のスキンシップにしてはいささか以上に過剰ではあるが、これがいつもの調子ということなだろう。恵梨香は全く動じずに、微笑みを浮かべている。


「もう行かないと遅れるよ、さっちゃん」

「うんうん」


 そして二人は腕を組んだまま、学校へ向けて歩き出した。


 ……小学校入学時から、二人は一緒に通学し続けている。

 恵梨香が体調を崩して休むことはあっても、彼女が登校する日に小夜子が休んだことは一度も無い。女神と二人きりでいられる至福の時間が減るからだ。


 どんなに体調が悪かろうとどれほど熱があったとしても、薬や強めのドリンク剤を飲んででも、恐るべき執念で小夜子は文字通り家から這い出てくる。そして、恵梨香と会う時には平気な顔をして共に登校するのだった。

 それほど、小夜子にとってこの時間は大切なものなのだ。


 二人の家がある高台から高校までは、徒歩で約三十分程度かかる。

 恵梨香がその高校を選んだのは、県内でも安定した進学校であることと「家から近いから」。小夜子が同じ高校を選んだのは、「恵梨香が通うから」だ。

 眼鏡の少女はその高校受験のために、一生分の学習意欲を使い果たしたと思っている。実際劣等生である彼女の学力では、かなり際どい受験であった。

 それなりに苦労はしたが……共に合格したことを知った恵梨香の笑顔を思い出すと、小夜子はそれだけで一週間は飲まず食わずでいられそうなほど、胸の内が満たされる。


「天気予報、晴れだってね」

「良かったぁー」


 取り留めのない会話を交わしながら、歩いて行く二人。

 家が住宅地や高校最寄りの駅からは逆の方向にあるため、通学時間の内十五分は他の生徒たちとまったく経路が重ならない。

 人目を憚ること無く、恵梨香の勉強の時間を潰すこともなく、堂々たる理由をもって女神を独占できる、「至福の十五分」。

 この時間だけが小夜子にとって灰色の一日の中で、光り輝く鮮やかな時間なのだ。彼女はこの時間のためだけに生きていると言っても、誇大ではあるが虚偽ではない。


「さっちゃんもシャワー浴びてきたの? 私もちょっと早めに起きて浴びたんだ」


 ええそうね。おかげであなたの体臭が弱いのが残念だけど、髪についたシャンプーの香りも素敵よ。


「えりちゃんも? 私は何か変な夢見ちゃって、嫌な寝汗かいたから浴びてきたの」


 とか。


「あ、しまった。図書室で借りた本、日曜日に読み終わったけど持ってくるの忘れちゃったな。あれ結構面白かったから、さっちゃんも読んでみるといいかも」


 内容なんてどうでもいいから、私はあなたが本を読む姿をずっと眺めていたいわ。


「へー、どんなタイトルだっけ? たしか、えりちゃんが読んでたのは歴史物の真面目なお話だったよね? 私は漫画やラノベばっかりだからなあ。難しいのは苦手かも」


 とか。


 概ね会話の裏側には、小夜子のどろりとした独白が付随していたが……それは恵梨香の知らぬところであり、そして、知られてはならぬことであった。

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