彼らには翼がある

「……そんなにじろじろ見られたら、したいこともできないでしょう」

「……うん」

 口ごもりながら、ぎごちなくうなずく。

 落下した水晶柱の放った圧電の衝撃で気を失っていたミシアが、こめかみを押さえ、身じろぎした。苦しげな息を吹き返す。

 ラウは砂を蹴ってミシアの傍へと駆け寄った。

「大丈夫?」

 ミシアが眼を開ける。アリストラムが指を鳴らして魔法を唱えた。折りたたまれた毛布がふわりと降ってくる。

 ラウは毛布を広げ、ミシアの肩にかけてやった。赤くあざの残った胸元にはまだ刻印の痕跡が残っている。だが、全身をおどろおどろしく覆い尽くしていたあの凶悪な暴走の跡は、もう、どこにもなかった。

「怪我はありませんか、ミシア」

 アリストラムは声を低めた。

「は、はい、わたしは。でも」

 大きな黒い瞳に涙が浮かんだ。

「本当に、お二方には申し訳ないことを」

「どうかお気になさらず」

 アリストラムは諭すように穏やかに言った。

「それよりも」

 背後の気配を探るようにしながら口を開く。

「……に」

 アリストラムの視線が後方の闇へと向けられる。ミシアはつられて立ち上がった。目を凝らし、両手を結び合わせて、二、三歩、歩き出す。

 ラウもまた、アリストラムの目線が示す方向へと振り返った。うずくまる暗い影が見えた。

 ミシアが息をすすり込む。

「キイス」

 ラウはぎくっとした。

「生きてたの、あいつ!」

「キイス」

 ミシアは声をつまらせ、駆け出した。砂に足を取られながら涙ながらに走り、影に飛びつく。

「逢いたかった……!」

「ミシア」

 黒狼の――キイスのうめき声が聞こえた。

「ごめんなさい、わたしのせいで」

「泣くな」

 ミシアは傷だらけのキイスにすがりつき、泣き崩れている。キイスの腕がぎごちなく持ち上げられて、ミシアを受け止める。おそらく爆発のときにラウやアリストラムと同じく底の抜けた洞窟から落ちてきたのだろう。

 そんな二人を横目に見つつ、ラウは、困惑まじりにアリストラムの顔を盗み見た。

「何あれ。どういうこと? ねえ、もしかして……えっ?」

「見ての通りですね」

 アリストラムはにべもない。表情一つ変えずに、ぼそりと言う。ラウは頬を引きつらせた。

「うそ」

 アリストラムは肩をすくめた。

「そうでもなければ最初から彼を泳がせたりはしません」

 ラウは眼を皿のようにぱかっと押し開いた。口をぱくぱくさせ、キイスを指さしたまま、あたふたと抗議の声を上げる。

「だって、アリスが!!!」

「本気で戦えない敵を相手にどうやって戦えと言うのです。言っておきますが負け惜しみじゃありませんよ。お子様だったラウには、男女の機微を理解するには少々早すぎかもしれませんが」

 アリストラムは声を忍ばせて笑う。

「そんな、哀れんだような眼で見るなあっ!」

 ラウは、ぶうう、と頬を膨らませてアリストラムを睨んだ。

「あたしには無茶するなって言っておいて、ヤラレ放題にやられてやるとか、自分が一番めちゃくちゃじゃん!」

「あんまり怒ると牙が見えてしまいますよ」

「はああ!? 何そのいいぐさ! 頭にくるーーーっ!」

「まあ、貴女の、その怒ったときに見せる牙がこれまたとっても可愛らしくて、私としては、愛おしくてたまらないのですけれども、ね」


「アリストラムさま」

 話を聞きとがめたのかミシアが近づいてきた。

「ほんとうに申し訳ありません。キイスのことも」

 キイスはあからさまに口元をゆがめ、ミシアから眼をそらした。憎悪とも自己嫌悪とも取れる複雑な眼差しを、憎々しくアリストラムへと突き立てる。

 不穏な気配がよぎった。

「礼など言わん。聖銀などに誰が礼を言うものか」

 血に汚れた口元が、生々しい獣の本性をのぞかせている。

「貴様等さえ来なければ、こんなことには」

 ミシアが遮る。

「アリストラムさまは、そんな人じゃないわ」

「人間は信用できない」

「わたしだって人間よ」

「お前は別だ」

 キイスは顔を背けた。

 ミシアはかぶりを振ってキイスの前へと回り込んだ。

「いいえ。アリストラムさまもラウさまも、わたしを助けようとしてくれたわ」

 キイスは陰鬱に嘲った。卑屈に笑う。

「余計なお世話だ」

「キイスのばか」

 ミシアはわずかに唇をふるわせ、噛みしめた。掌を閃かせる。キイスの頬がぴしゃりと鳴った。平手打ちをくらわせたのだ。

 たかが少女の細腕ごときに引っぱたかれたところで、通常なら何の痛痒も感じはしないだろう。だが、キイスは半分、唖然として頬を押さえた。

「ごめんなさい」

 キイスを睨むミシアの顔は高ぶって紅潮していた。

「アリストラムさまはレオニスみたいな人とは違います」

 キイスは喉の奥を憎々しく鳴らした。

「聖銀はみな同じだ。魔妖を魔妖と言うだけで殺し歩く。誰がそんな奴らの言を真に受けるものか。昔話の鬼退治じゃあるまいし。助けてもらって目が覚めました。もう、これからは悪いことはいたしませんって泣いてペコペコ這い蹲って懇願しろとでも?」

 キイスは吐き捨てるように言った。

「馬鹿にするな。あのゾーイでさえ聖銀アージェンの教徒に関わったせいであっけなく殺された。俺だって、いつ」

「大丈夫よ、キイス」

 ミシアは、するどい爪の生えたキイスの手をそっと包み込んだ。愛おしむように手を重ねる。

「わたしがついてるもの」

 キイスは、愕然とミシアを見やった。

「お前に何ができる」

「傍にいられるわ。あなたの傍に。あなたのためなら何だってできる」

 キイスはミシアの手を振り払おうとした。

「無理だ」

「やりもしないであきらめたら無理に決まってる」

 黒い獣毛に覆われたキイスの手を、そっと自分の頬に押し当てる。キイスは抗おうとした。

「あなたが好き。キイスが大好き。だから一緒にいたいの。それだけなの」

「駄目だ、ミシア」

 キイスの声が、わずかに震えていた。

「俺は魔妖だ。魔妖と人間は、絶対に一緒にはなれない。俺が聖銀を憎むように、人間もまた俺を憎む。俺がどんなにお前を……愛していても、俺が魔妖である限り、人間は俺を認めない。俺への憎しみはいずれ、必ずお前にまで向けられることになる」

「勝手に決めつけないで」

 ミシアは眼の奥に強い光を宿らせ、キイスを睨み付けた。

「いつまでもわたしを子供扱いしないで。今はまだ頼りないかもしれないけど、あと三年もすれば、わたしだって、ちゃんとした大人の女になる。もっと年を取れば、もっと大人のおばちゃんになる。腹をくくった人間の女がどんなに強いか、あなたに見せてあげるわ」

 恋する乙女の、そのまぶしいぐらいに純粋な表情を、ラウは、ぽかん、と口を開けて眺めていた。

「ラウ」

 アリストラムはラウの肩に手を置いた。きょとんとして振り返るラウの耳を、きりっとつねる。

「いつまでもほけーっとして見ていないで、こっちに来なさい」

「痛たた、何すんの」

「ほら、早く」

「だ、だから何で耳引っ張るの」

「……そんなにじろじろ見られたら、したいこともできないでしょう」

 そのまま、無理矢理に物陰まで連行される。

「したいことって何!」

「私だって我慢しているのです」

 アリストラムはちらりとキイスの様子を窺い見たあと、ラウの耳から手を放した。

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