「あんまり暴れると落っこちますよ」

 思わず、しどろもどろに口ごもる。

「すみません。驚かせてしまったようですね」

 アリストラムは微笑んで身を起こした。

 意味ありげに指を一本立てて。

 ぱくぱくと金魚みたいに口を開きっぱなしにしているラウのくちびるを、つ、となぞる。

「あう!?」

「もっと、傍に寄って来てください」

「う……うん?」

「もうすこし。そう。もっとです」

 肩を抱かれ、ラウは頬を赤らめた。

 アリストラムが頬を寄り添わせてくる。

「動かないでくださいね」

「うん」

 アリストラムの頬は、すこしひんやりとして心地よかった。もしかしたら自分のほっぺたが真っ赤っ赤で熱いせいなのかもしれなかったが。

 腕にゆったりと包まれる。

 ラウは、ことん、とアリストラムの肩に頭をもたせかけた。

 頬が熱い。詰めていた長い吐息をほうっ、とつく。

「ラウ」

「うん?」

「もふもふしたい」

「は!?」

 アリストラムは握った手を口元に当て、小さく咳払いした。

「何でもありません。もうすこし、こうやって元気を頂いていても構いませんか」

「いいよ。ってか」

 抱き寄せられるがままに、アリストラムへと身を寄せる。

「この際、ずうっとこのまんまでもいい。アリスが元気になるまで、ずっと、じっとしてる」

「ありがとう、ラウ。嬉しいお言葉です」

 椅子の後ろで、尻尾だけが揺れすぎな振り子のようにせわしなく動いている。

 怖いぐらい、嬉しくて、心地よくて。身じろぎもできなかった。少しでも動けばこのぬくもりが逃げてしまいそうで。それだけが怖い。

 どれぐらいの間、寄せた頬の暖かみを感じていたのだろう。

「さてと」

 アリストラムはかすかに笑って、居住まいを正した。ラウは耳を伏せた。

「私たちも、今後の身の振り方を考えなければいけません。レオニスはキイスを追ってドッタムポッテン村へ来たはずです。そのレオニスが消息を絶ち、キイスはミシアとともに逃亡、私たちがそれを隠避、あるいは幇助した──となると、聖銀教会も審問を行わざるを得ないでしょう。追っ手を差し向けられるかもしれません」

「説明すればいいじゃん。レオニスが魔妖だったって。アリスを殺そうとしてた、って」

 アリストラムは頭を振る。

「それは、貴女の名誉をも傷つけることに他ならない」

「あたしのせいでアリスまで犯人扱いされるってこと?」

 ラウは息を呑んでアリストラムを見上げた。

 言葉もない。

 アリストラムの端整な顔立ちが、月明かりの逆光が落とす影に呑み込まれた。

 見えなくなる。

 ほのかな紫紅の彩をたたえた瞳だけが、ラウの不安な表情を映し込んで光っていた。

「私自身の信仰の問題です。今のままの聖銀の教えに従えば、人に仇なす魔妖は狩り取らねばならない。でも、もう、それはできない」

「あ、あのさ」

 ラウは、今にも頬に触れそうなアリストラムの唇の近さに緊張しながら、おずおずと言った。

「……前みたいに……したらどうかな」

 アリストラムの動きが止まった。

「また、貴女本来の姿を、本来の魔力を封印しろと?」

 声に翳りが混じる。銀の髪が滑り落ちてアリストラムの表情を隠した。

 ラウは先を越されて黙り込んだ。アリストラムは短く雄弁なため息をつく。

「それはできません」

「どうして」

「もう二度と貴女を苦しめるようなことはしないと、ゾーイに誓いました」

「でも!」

「それだけはできません」

 アリストラムは取り付くしまもなく口を閉ざす。


 ラウは唇を噛んだ。

「アリスは、前に、人間と魔妖が一緒に暮らすためには決まりごとがあればいいって言ってたじゃん。人間の決まりさえきちんと守れば、一緒に暮らせるって。でも、あたし、狼だから。ニンゲンじゃないから。我慢できなくて、誰かの魔力を食べちゃうかもしんない。そしたら、あたし、きっとそんな自分が嫌いになってアリスの傍にいちゃいけないって思うようになる。そんなの、嫌だよ」

 アリストラムはためいき混じりに笑った。肩の力を抜き、くしゃくしゃとラウの髪をなでて、指で梳いて、なびかせる。

「大丈夫。今の貴女なら何でもできますよ」

「努力はするけど。でも、もし、人を噛んじゃったらどうしようとか、粗相しちゃったらどうしよう、とか。びくびくしながら過ごすなんて嫌だよ。ずっとアリスと一緒にいたいから……頑張るよ。頑張るけど」

 ラウはうつむき、両手を膝の上で握りしめた。血の気の失せた指先が小刻みに震える。

「怖いよ」

 アリストラムはラウの手に視線を落とした。


「もし、苦しくなったら、いつでも」

 硝子越しのランプの火が、ゆらめく淡い影をテーブルに広げている。消えそうで消えない、かぼそい炎。アリストラムはランタンへと手を伸ばし、ねじをひねって芯を伸ばした。

 灯された明かりが不安定に揺れながら火力を増して高く立ち上る。じりじりと音を立てるほどだった。

「私の魔力を分けて差し上げます。それではいけませんか」

 今までは炎が小さすぎて光が届かなかった夜の森が、はっきりと濃く照らし出された。しかし、夜目の利くラウに、その光は眩しすぎた。ぱちぱちと眼をしょぼつかせる。

「いたずらに闇を恐れて火を強める。でも、こんなにも不相応な明るさが、はたして本当に必要でしょうか」

 火に寄せられた羽虫が白い軌跡を描いて飛び交う。風防がなければ焼けてしまいそうだった。

 アリストラムは光の向こうにある闇を見つめた。再び、手を伸ばしてねじを逆の方向に締める。

 ランプの炎が穏やかに縮んだ。周囲は再びほんのりと手元を照らす明るさに戻る。

「大切なのは、行く手を照らす火を絶やさないことです。ミシアの言ったこと、覚えていますか?」

 アリストラムは謎めいて揺れる森の陰影を愛おしげに見つめた。ラウは首を横に振る。

「ううん……全然。何だっけ」

「あの子を見ていると、自分が恥ずかしくてなりませんでしたよ」

 ランプを眺める横顔に、ほのかな影が踊る。思い出して、微笑んでいるのか、口角がうっすらと上がった。

「『好きだから、大好きだから、一緒にいたい』なんて。魔妖と人間が共に暮らすことがどんなに大変か、思いも寄らないのでしょうね。一途に彼のことを思って、その気持ちが揺らぐことなど絶対にないと信じ切って、青臭い、子どもっぽい言葉を連ねて。後先の事なんてぜんぜん、考えてもいないのだろうな、なんて」

 言葉とは裏腹に、諦めたような、悟ったかのような声でアリストラムは語りかける。


 揺らぐ炎に眼を向けたまま、アリストラムは何気なく続ける。

「でもね、本当は、ちょっと……羨ましかったのです」

 夜を振り仰ぐ。白く煌々と光る月が見えた。女性の横顔。逆さまの蟹。跳ね上がるライオン。本を読む老女。同じ影の形ながら、見る人によってさまざまな空想になぞらえられる月。

「彼らには、翼がある。どこにでも行ける自由という名の翼が」

 吹いてくる風が髪をいたずらに吹き流す。手で押さえきれない髪が、指の間からこぼれて月光のようにたなびいた。

「えっ? 人間なのに羽があるの?」

 ラウは目を丸くした。

 アリストラムは相好を崩して柔和にうなずく。

「私も欲しいと思っているのです。彼女と同じ、勇気の翼が」

「いやいや、それはいくらアリスでも無理でしょ、人間なんだから。それとも魔法でいっぱい生やすの? 聖銀の天使みたいに?」

 思わずつっこみを入れるラウ。

「まさか」

「じゃ、やっぱ、無理じゃん」

「それでも、欲しいのです。翼が」

 アリストラムは妙に拗ねた子どもっぽい口調で言い張った。

「無理でしょ」

「無理だからこそです」

 しばらく、やくたいもない押し問答を繰り返す。

 やがて二人とも何も言わなくなった。黙って風に吹かれる。森の立てる物音、川のせせらぎ、虫の声、木々の葉ずれ、呼び交わす梟の声。心なしか全部が遠くに思えた。

 しんしんと月明かりが降る。

 ラウは、よく分からなくなって、アリストラムの表情を窺い見た。

 アリストラムは、優しい表情でラウを見返していた。

「な、なに?」

 アリストラムは薄く微笑んだ。

「貴女を見ていました」

「ぇっ……何で急に? っていうか今さら何? 何か用?」

 睫毛の影が蒼く頬に落ちている。

 瞳に、互いの気持ちが映り込んでいた。

 ぴん、と立てた耳の先を風がくすぐる。心まで、連れて行かれそうだった。

「言いたいことがあって」

「う、うん、だから何?」

「言っても構いませんか?」

 ラウは、どきっとして眼を見ひらいた。

「えっ……何? もったいぶらないで言ってよ」

「本当に?」

 そんなふうに念を押されると、ますますどきどきしてしまう。指の先をもじもじ突き合わせる。

「聞きたい」

「ラウ」

 指の先で、つと顔を上げさせられる。

 はっとするほどあざやかな、アリストラムの瞳が近づいていた。

 まるで宝石みたいだ。驚きに眼をみはり、息を吸い止める。

「何と言われようと、どうしても欲しいのです」

 悪戯な指が耳元と喉をくすぐる。

「貴女を幸せにできる勇気の翼が。前へ進むための勇敢な翼が」

 唇が、そっと重なる。

 情感のこもった、やさしい息づかいだった。とろりとした感触に胸が痛くなる。

 嬉しくて、幸せでたまらないのに、キスの終わる瞬間が果てしなくやるせない。

「貴女を……幸せにしたい」

「アリス」

「貴女と……幸せに、なりたい。なのに」

「アリス」

「怖いのです。私が、そう願っていること、それ自体が貴女や……彼女への裏切りになってしまいはしないかと……それが、怖くて。どうしても前に進めない」

 ラウは、アリストラムの愁いに満ちた表情をのぞき込んだ。

 こんなに近くにいるのに、遠い、遠い、遠すぎるほど遠い過去の悲しみが、未だに二人を遠ざけている。

「……ゾーイのこと……?」

 何だか、自分まで泣き出しそうになって。

 どうしたらいいのか、よく、分からなかった。

 とにかく何かを伝えたい。何か言いたい。でも、何をどう言えばいいのか分からない。

 当たり前だ。そんな、もやもやした気持ちでうまく言えるはずもない。だから。

 ただ、アリストラムの眼を、真っ直ぐに見上げた。

「アリス、ちょっと立って」

「はい?」

 アリストラムは椅子を押しやって立ち上がる。ラウも一緒に並んで立つ。

 相変わらず背が高くて。見つめ合うというよりは見上げる目線のままだ。

 つま先で、背伸びしてみる。

 やっぱり、少し身長が足りない。

 でも、もう少し、あと少しだけ背伸びすれば、もっと、アリストラムの気持ちに近づける気がした。

 そうすれば、背の高いアリストラムに無理に身をかがめさせなくても、もっと、もっと、近くに行ける。

 思いが届く。

「ラウ」

 思いも寄らないキスに、アリストラムは眼を瞠る。


「無理しなくってもいいよ」

 ラウはけろっとして笑った。

「あたしだって、ゾーイのこと、ずっと忘れられないでいるんだし。だって、たったひとりの大切なお姉ちゃんだよ。すっごくエロかっこよくてさ、群れの誰よりも美人で、誰よりも強くて、最凶最悪、超強烈な肉食系お姉ちゃんだったんだもん。忘れられるわけないじゃん。だから」

 アリストラムは、声もなくラウの話に耳を傾けている。

「アリスも、ゾーイのこと、ずっと忘れないでいてくれたらいいと思う。あたしはこれからもずっとアリスにくっついてられるからいいけど。ゾーイは、アリスと一緒にいたくてもいられなかったわけだしね。だから、せめて……」

 ふいに、強く引き寄せられる。

「ふぁっ!?」

 思わずラウは素っ頓狂な声を上げた。思いも寄らぬ力でそのまま一気に抱き寄せられ、ふかぶかと包み込まれる。

「う、あ、えっ……なにっ……!?」

「貴女には」

 ため息にも似た、泣き笑いの声が耳元に飛び込んできた。

「本当に敵いませんね」

「へっ? あ、あたし、何かした!?」

「ええ」

 解き放たれた、晴れやかな声だった。

「ラウ。私の大事なラウ。愛しい、素敵な、たまらなく可愛いラウ」

「な、な、何こっ恥ずかしいこと恥ずかしげもなく言っちゃってんのよ! 大人なんだから少しは自重しなってば。恥ずかしいったら!」

「嫌です。もっと、貴女にいじわるをしたいから」


 アリストラムはラウの手をゆっくりと弄び始めた。気取った貴族がするキスのように、唇を手の甲に押し当てつつ、両手でラウの指先を包み、からめあわせては、指の一本一本を揉み合わせる。

「分別のない子どもみたいに意地悪を言って、もっと貴女を怒らせて、もっと、もっと、貴女の気をひきたいから」

 さすがに抱かれる力が強すぎて、声も出せなくなってきて、ラウは、何とか息を継ごうとじたばたした。

「はう……うう!?」

 苦し紛れの尻尾が、ふりふりと、なおいっそう愛おしく大きく揺れ動き始める。

「何、分別のないお子様みたいなことって! あっ、ぅうん、苦しいっってば……」

「悔しいのですよ。こんな単純なことにすら気付かず、それをまたよりにもよって貴女に看破されてしまったのが。本当に悔しい。男として情けない限りです。こんな自分でいることが自分で許せない。怖れてばかりで、わざと眼をそむけて、前を見ようともせず、そのくせ行く手が見えぬと拗ねて、闇の中に立ち尽くしていた。何が勇気の翼だ。何が行く手を照らす明かりだ。こんな間抜けな男が他にいますか? 止せばいいのにお高く止まった聖職者面をして、口先だけのつまらぬ見栄を張って、せめて貴女の前だけでも完璧な男の振りをしようとして失敗して、ヘッポコな正体をさらけ出すなど」

 アリストラムの笑顔がますます近づく。

 ラウはどぎまぎとうろたえ、眼をそらそうとした。

「は、はぁっ……!? 何言ってんのかぜんぜん分かんな……」

「いいのです。分からなくて結構。こんなものは単なる詭弁。口から出任せです。私が馬鹿だっただけのこと。絶対的にすべて、貴女が、正しい。全面降伏します。こんな愚かな男だった私を許してください、ラウ。難しく考えることなど何一つなかった。徹頭徹尾、答えは目の前にあった。それだけのことです。ああ、馬鹿だ。私は。一発や二発、ぶん殴ってもらうぐらいでは足りません」

 アリストラムはわずかに腕をゆるめた。いたずらな笑みをたたえ、ラウを間近に見つめる。

「今度こそ、本当の気持ちを伝えなければなりません」

「ええっ、今度は何!」

 ラウは息をつめ、アリストラムが再び口を開くのを待った。

 もう、尻尾すら硬直したように動かない。

「ラウ」

「う、うん?」

 アリストラムに名を呼ばれて。

 ぎごちなく見上げる。

 ゆらり、夜ににじむ赤いランプの火影が、アリストラムの微笑みに、不思議な陰影の重なりを投げかけていた。

 声が、耳元で、忍びささやく。

「今夜は、一晩中、普遍の愛について深く語り合いたいと思います。アガペーあるいはエロスについて」

 ラウはぽかんとする。完全に訳が分からない。

「こっちへ」

 アリストラムは虫も殺さぬようなおっとりと上品な表情を浮かべて、ラウの手を取った。

 どきり、とするぐらいに如才ない笑みを目端に利かせる。

 かと思うと、あっという間にラウの膝下に腕を差し入れ、やすやすとお姫様のように横抱きに抱き上げる。

「あ、わ、ちょわっ……!?」

 尻尾が、きゅううっと巻き上がる。

「な、な、何すんの!」

 ラウは反射的に、食われる、と思って首をちぢこめた。

「あんまり暴れると落っこちますよ」

 アリストラムは、ぐいとラウを揺すり上げると、にっこり微笑んだ。

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