陵辱の刻印
絶望の闇が目に入る。
鎖に縛られた手。
枷に囚われた自分の姿。
無力にうなだれた首筋から、滂沱の血がしたたり落ち、無力についた膝の下に黒い沼を作っている。
そんな自分の姿に――
ふいに笑いがこみ上げた。
てっきり、何もかも無くしたと思っていた。
違う。
まだ、自我が残っている。
アリストラムは、褪めた眼を押し開いて眼前の魔妖を見やった。
凄艶に笑い、吐き捨てる。
「……誰が、お前になど従うものか」
キイスの拳がアリストラムの頬を襲った。さらに何度も殴りつける。身体がのけぞった。鎖が軋み、悲鳴のような音を立てる。
血まみれの姿でぐったりと枷に身を預けるアリストラムを、キイスは憎悪にまみれた蛇の眼差しで見やった。ふと、何かに思い当たった様子でにやりと笑う。
「あの狼のガキ、ゾーイとずいぶんと似ているようだな」
アリストラムは声を押し殺した。
「……何のことだか」
「図星か」
なめずるような吐息をつき、キイスはアリストラムの頤をつかんだ。残忍な爪先で頬を挟み、無理やりに顔を上向かせる。黒い尻尾が、あざ笑うかのようにくねっていた。
猛毒をたっぷり含んだ冷淡な眼がアリストラムを見下ろす。
「人の魂は脆い」
キイスは確信を込めて笑った。
「見えるぞ、聖銀。魂を嫉妬の炎で焼き焦がす醜い素顔、その取りつくろった仮面の奥にひそんだおぞましい欲望がな」
血塗られた爪が、無数のあざと爪傷に腫れる肌をいたずらに嬲ってゆく。
「ずいぶんと小難しい言葉を使いますね」
アリストラムは赤黒く変色した唇を吊り上げた。血の匂いの笑いを漏らす。
「まだ抗う力があるのか。面白い」
喜悦に満ちた眼が、アリストラムの秘め隠した過去を視姦する。キイスはアリストラムの耳元に唇を寄せ、血なまぐさい吐息を吹きかけた。
「あの狼を、殺せ。何も考えるな」
囚われの音が響き渡った。
四肢が病的に震えている。
後ろ手に縛られたまま暗闇にうち捨てられた挙げ句、何日も放置されている。もがけばもがくほど、互いに結びあわされた鉄の鎖がさらにきつく手首と喉とを締めあげる。起きあがることもできない。
もはや、定かな意識はなかった。骨に皮が貼り付くほど急激にやせおとろえ、絶えず漏れる呻きも混濁にのまれ、まともな言葉にすらならない。
刻印の煮えたぎる毒に犯された人間が、理性を保っていられるはずがなかった。
身体の中外をうごめきまわる刻印の狂気と幻覚にひきずられ、ときおり、つんざくような悲鳴を上げて。また、何処ともしれぬ暗黒へと堕ちくずれてゆく。
絶望の彼方にほんのわずか、星くずのように瞬いては幾度となく空しく流れ去ってゆく、かすかな思い。見果てぬ悪夢に澱んだ意識の底で、ぎらぎらと妄執の色を奔らせた眼だけが、食い入るように闇の向こうを見つめ続けている。
絶対に来てはならない誰かを、探して。
壊れた笑いがもれる。心が、深い闇のうねりに呑み込まれていく。
まだ、自分を嘲える。
まだ、生きている。
アリストラムはわずかに揺り戻ってきた意識の中でぼんやりと思いをめぐらせた。こんな辱めを受けてまで何故、生に拘るのか。どうして、死ねないのか。
だが、胸の底で冷たく狂おしくわだかまる闇が全てを否定する。
それができるなら、とうに命を絶っている。
できない理由がある。
生きなければならない。
たとえ、何があっても、生き抜かなければならない。
ゾーイを殺して手に入れた命。後悔と絶望の汚泥にまみれた記憶の奥底に、怨念にも近い執着が渦巻いている。
いや、違う──
何かが、違う。そうではない。
蜘蛛の糸にも似た、今にもちぎれそうな違和感だけが、アリストラムを生の妄執に引きずり止めている。
それが何なのか、考えようとすれば即座に刻印が意識をくわえ込んで闇へと引きずり込む。
体中を蝕み、絡みつき、うごめき這い回る、翡翠色の闇。心臓にまで食い込む棘が、全身を束縛し続ける。
考えるな。
考えるな。
何も考えるな。
何が大事なのか。何を守りたいのか。何を成し遂げたいのか。何のために、誰のために、なぜ、歯を食いしばっているのか。考えてはならない──
ふと。
地面を跳ねる堅い金属の音が響いた。確かな足音が飛ぶように駆け寄ってくる。
アリストラムは絶望にくすんだ顔を上げた。
岩陰から獣の影が飛び出す。獣は突然広がった空間の心許なさにつんのめり、立ち止まった。岩を掻く爪の音が響く。
暗闇の中、はりつめた翡翠色の双眸がぴかりと反射した。
痛々しい狂気に満ちた闇の気配に、ぶるぶると頭から尻尾まで順に身を震わせる。後ろ足を完全には地に着けられないせいか、よろめくような仕草だった。
勢いでくわえた山刀が鞘からはずれて岩床にすべり落ち、飛び上がりそうなほど大きな音を立てた。
獣は鼻をくんと鳴らし、柄部分を大切にそっとくわえ直すと、耳をぴんと前に向け、頭をそびやかせて闇を見下ろした。すぐに、地の底に縛り付けられたアリストラムの存在に気付く。
まっすぐにアリストラムを見つめる翡翠の瞳が、ふいに大きく瞠られる。
狼は喉をそらし、耳を伏せて低く唸った。
ひらりと跳ねて、アリストラムの傍に飛び降りる。風の音がした。
かつん、と小さく爪が鳴る。
「ラ……ウ」
アリストラムの唇が、蒼白な照り返しに小さくわなないて、震える。
狼は剣を置くと、ものすごい勢いで尻尾を振った。立ち上がって前肢でアリストラムにもたれかかる。鼻を鳴らし、全身をくねらせて吠え、自分の尻尾を追いかけてくるくる回っては、じゃれかかって甘える。
「本当に、ラウ……貴女なのですか……?」
狼は頭を傾げ、じっとアリストラムを見つめた。柔らかい吐息が腫れたまぶたにかかる。無言の肯定。
暖かく湿った舌が、そっとアリストラムの傷をすくい舐める。アリストラムはかぶりを振った。
「いけない……ラウ……来てはいけません」
つめたく濡れた狼の鼻面が、きゅっと頬に押し付けられる。翡翠の眼が、揺れる水面のようにうるんでいた。悲痛な鼻声だけが小さく聞こえる。
狼はアリストラムの涙を、傷に滲んだ血を、汚れた肌を、ゆっくりと拭うように舐め始めた。ずっと縛られていたせいでかじかみ、萎えきった手足を、柔らかい舌の感触が解きほぐしてゆく。
アリス。
アリス。
アリス。
狼の喉では人語を発することもできない。
か細く鼻をつまらせて鳴く以外にこみ上げる思いを表すことができず、狼はただもどかしげに尻尾を振り、アリストラムの頬を幾度も舐めた。
銀碧の毛並みに覆われた頭を、押し付けるようにしてアリストラムに添わせ、こすりつける。
アリストラムは狼の柔らかい首回りに顔を埋めた。息を吸い込む。懐かしい太陽の匂いがした。
「ラウ……」
気持ちを言い表す言葉がみつからない。胸がつまる。
狼は耳をぴんと立て、アリストラムを見つめた。
白い息を吐き、尻尾をなおいっそう大きく振って、アリストラムに頭をすり寄せる。その口元は、確かに笑っていた。
やがて、狼はアリストラムを縛める首枷と鎖に気付いたらしく、爪で引っかいた。喉の奥で低く唸って鎖を鼻で押しのけ、外れないと見るや、軽くくわえて引っ張ってみる。重苦しい金属の音がした。錆びた臭いが漂う。
アリストラムは身をよじって狼の気をそらそうとした。かすれ声で呻く。
狼は、うるさい、と言いたげにじろりとアリストラムを睨み、牙を剥いてかるく威嚇してみせた。アリストラムが黙ると前足で鎖を押さえ、奥歯でぎりぎりと音をさせながらかじり出す。
くわえた鎖の堅さを何度か頭を振って確かめる。
と、渾身の力を牙に込め、頭を振り上げ鎖を食いちぎった。
鎖の輪がばらばらと岩床に散る。
狼は口の中に残った血と、折れた牙を吐いた。
吊されていたアリストラムの腕が棒のように地面へと落ちた。アリストラムは身体を支えられず、そのままくずおれる。
狼は狼狽えた様子でアリストラムの周辺を歩き回った。
気を引く仕草で何度もくしゃみをし、前片足を上げて動きを止める。
「ラウ。おいで」
アリストラムは、狼を呼んだ。狼は飛んで走ってくる。
ずっと拉がれていたせいで、身体全体がひどく痛む。
狼はアリストラムに頭を擦りつけた。舌を出して、はあはあ息を弾ませながらも、ちぎれそうな勢いで尻尾を振る。アリストラムの手を舐める。
狼を、殺せ。
その他は何も考えるな。
「……ありがとう、ラウ」
アリストラムは微笑んで狼を抱き寄せた。首に手を回す。耳に触れ、顎を手挟み、喉を撫でる。なぜか、指に力がこもる。
何も考えるな。
何も考えるな。
頬に氷の粒が転がり落ちる。
顔だけが笑っている。すがるように、包み込むように、狼をその手に強く抱きしめながら。
アリストラムはこの上もなく優しい声音で語りかける。
「ラウ、ナイフを取っておいで」
違う。身体の奥底が悶えのたうつ。心が引きちぎられそうに痛む。何も考えるな。何も考えてはいけない。嬉しそうに飛び跳ね、命じられたとおり己を殺すであろうナイフを拾ってくる狼の可愛い仕草を、うっとりと愛おしげに見つめ、頬ずりする。
「もう二度と、私から離れてはいけませんよ、ラウ」
語りかける完璧な形の唇が震える。
醜悪な笑顔が髑髏の顔に貼りついて剥がれない。
抱きしめて、その首筋に顔を埋めて、何度も名を呼ぶ。狼の口から山刀を受け取る。背後で鞘を走らせて落とす。逆手に握った山刀の、抜き身の刃が白く光る。
殺せ。自分の声が聞こえる。ゾーイと同じように。この呪縛から逃れるために。この屈辱から脱するために。この狼を殺せ。そうすれば絶望の輪舞曲から逃れられる。殺せ。
頭蓋内に何人分もの絶叫が響き渡る。乱舞する色彩。目を刺す刺々しい音階。鼓膜を破る無数のささやき。脳を掻き乱す、星くずにも似た酩酊の狂気が体を揺すぶる。顔だけが皺だらけの老人になったような、何の理性もない法悦の笑いが漏れる。あの時もこれと同じ声を聞いた。何も考えず、ただ、命じられるがままに、殺──
片目からだけ涙が溢れる。嬉々として狼を撫でる手の、もう一方で刃物をかざす。手が痙攣を起こしたように震える。
狼はアリストラムに撫でられるがままだった。刃の反射光を視界の隅に捉えながら、甘えた鼻声を鳴らし、うとうとしながら地面を尻尾で叩く。
やがて、狼は目を閉じた。すう、と長く息をつくのが聞こえた。
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