暗黒の花

 反応、してしまう。

 触れるか、触れないか。そんな力の入れ方なのに。

 たったそれだけの、ことを。

 こんなにも、感じて……

 あえなく吐息の洩れる唇を深く奪われ、舌をからめ取られて、とろりとした欲望に混ぜ合わされる。

「う……んっ……」

 みだらに広げた聖神官のコートの上で。

 アリストラムは。

 ラウの手首を片方だけ地面に押さえつける。

 もう一方の手は、愛おしげに指をからめて。

 理性の消え失せた視線だけが、ラウの向こうにいる誰かを探して、さまよっていた。

 唇を重ね、かすれた声でささやく。

「早く、命令してください」

 身悶えるような吐息が。

 耳朶に、ふっ、と吹きかかる。

 身体が、びくっ、と震える。

「ぁ……っ!」

 耳元を通り過ぎてゆく、甘いささやき。

 唇が、押し当てられる。熱い湿り気が、肌に汗を滲ませる。

 切なくも苦しい吐息とともに、心を揺り動かされる。

 ラウは無意識に身体をアリストラムへとゆだねながら、それでも支配されつくしてゆく感覚に抗って、ほろほろとうずめ泣いた。

「ゾーイ」

 熱情に浮かされた吐息がラウを包み込む。普段のアリストラムならば決して立てぬような声で。

 泣くような、笑うような、うわずった自分の声に、ますます身体の奥がびくん、と震え上がる。

 ラウは涙混じりに拒絶しようとした。

「……違う……」

「もっと、よく、見せてください」

 優しい熱情に、ほんの少しだけ、強情な力が交じる。

「ゃ……ぁっ……」

 ラウは拒絶しようとして、わずかに腰をずり上げた。アリストラムは強引にラウの腰を押さえ込んだ。

「貴女の、すべてが見たい」

 甘やかな……喘ぎが。

 途切れる。

 刻印の光が罪深く降りかかった。

 ラウは眼を閉じてなお染み込んでくる翡翠の光に身悶えた。

 触れられるたびに、腰の奥が、息を呑んだように跳ね上がる。


「愛しています」

 荒い息に覆い尽くされて。

 意識が、断片になってかすれ飛ぶ。

「ゾーイ」

 耳元で何度も、名を、呼ばれる。

 自分とは、違う名を。


 ゾーイ。


 すべての音が、潰え去る。

 その名前だけが、壊れた器械のように頭の中で反響していた。

「ゾーイ」

 また、アリストラムが喘いだ。胸に、ゾーイの刻印をくろぐろと宿して。

「……愛しています……」

「や、だ……違う、あたし……あたしは……!」

 刻印に宿されたゾーイの色が。ゾーイの声が。まとわりついてくる。

 もう、ゾーイはいない。

 もう二度と戻っては来ない。

 笑ってもくれない。

 突然襲ってきた人間に、殺されて、

 里もろともすべてを焼き尽くされて、

 眼を灼き潰すかのような、あの銀の光炎に呑み込まれて。

 ゾーイは、死んだ。死んだ。死んだのに、どうして――!


 心は――抗っている、のに。


 身体が、溶けてゆく。

 喘いでいる。

 求めている。

 たとえ、ラウ、と一度も――呼んでくれなくても。

 急激に呼び覚まされた狼の本能が、汗ばむほどの情念となってラウの身体を波打たせ、とろとろに染め上げる。

 もう、戻れない――

 むせかえるような欲情の吐息が立ちのぼる。

 互いの身体を奪い取るようにして抱き、つぶさにくちづけ、求め合い。

 身体の奥底に潜んでいた熱をさらけ出して。

 それでも、まだ。

 足りない――

「ゾーイ」

 刻印に支配され、くろい影にまとわりつかれたアリストラムが、ラウの耳元でぬるりとささやき入れる。

 狂い壊れた笑みが、近づく。

「愛して……います、ゾーイ、貴女だけを……死ぬまで愛し続けます……」

 また、噴き出すような熱い熱が身体の中からあふれる。

 分かっているのに、止められない。

 刻印が呼び覚ましているのは愛でもただの欲望でもない。狂気だ。

 ラウは涙にかすんだ眼でアリストラムの視線の行方を探した。

 ラウを抱きしめ、口づけていながらまるでラウを見ていない。ただ遠い、遠い死の果てを見つめて微笑んでいる。もはや心臓だけではなく、首筋から頬、目元に至まで刻印の影にいろどられ、罪に呑み込まれて。

「ゾーイ」

 姉として族長として、愛し、尽くし、憧れてやまなかった美しき暴虐の女王。

 比べるまでもなく永遠に遠いその名を、耳元で残酷にささやかれながら。

 押し上げられてゆく。

「ゾーイ」

 違う女の名を呼ばれながら。

 何度も、何度も、何度も。


 違うと――分かっているのに。

 その思いを、振り払うこともできずに。

 ただ、乱れ堕ちてゆく。


 好き。

 だいすき。

 ずっと子供じみた意地を張って、わがままを言って、反発してばかり――なのに、何を言っても優しくうなずいてくれたアリストラムが。

 甘えさせてくれたアリストラムが。

 本当は、だいすきだった。

 いじわるな顔をして。

 くすくす笑って。

 いけませんよ。そんなことをしては、と。

 ちょっと怖い顔で叱ってくれるその声がたまらなく好きだった。

 ときどき、ラウの知らない顔をするアリストラムがいて、どこか遠くを見ていることがあって、そのときは確かにちょっと怖かったけど、でも、それは、もしかしたら、アリストラムがどこかに行ってしまうんじゃないかってやきもきして……不安でしかたなくて……

 でも、眼が覚めたらやっぱりずっと傍にいてくれて、ほっとして安心して。

 そうしたら逆に、オトナで、保護者のくせに、そんな心配をさせるアリストラムのことがやたらに腹立って、またコドモっぽいわがままを言って、わざと怒られるような悪いことをして気をひいて。

 構って欲しくて。

 叱ってほしくて。

 そばに、いて欲しくて。


 あさましくもねだる。


 暗黒の花が、いくつも咲き乱れる。

 アリストラムは。

 きっと。

 こんな――ことは望んでない。

 今のアリストラムは、ゾーイの刻印に支配されて、ゾーイのことしか、頭になくて。

 ラウのことなんか見てもいなくて。

 たぶん、きっと、


 


 ラウは悲鳴を上げた。

 身体はこんなに悶えているのに。

 心が。

 ずき、ずき、と痛い。

 アリストラムは、ラウの向こうにいるゾーイを見ている。ゾーイを抱いている。

 どんなに、もがいても。

 どんなに、叫んでも。

 声さえ、届かない。


 もう、やめて──


 ふいに。

「ラウ」

 茫然と離された唇と唇の間に、とろりと淫猥な糸がつたい落ちる。

 ラウはぐったりとアリストラムの腕に倒れ込んだ。

 アリストラムは凍り付いたように抗わなかった。

「私は、何を」

「……アリス……」

 ラウはあえぎながら泣き、アリストラムの腕に身体を押し付けた。

 弱々しく尻尾を振って、とがった耳をアリストラムの胸にこすりつけながら、鼻の詰まったようなちいさな鳴き声をあげる。

「ラウ……」

 アリストラムが呻く。

 ラウは、ふいにこみ上げてきた嗚咽を噛み殺そうとして、叶わずにアリストラムの胸に顔を埋めた。

「ご、ごめんなさい、アリス、あたしがわるいの……」

 アリストラムは茫然とラウを見下ろした。息をつき、自らの肌に浮かび上がった罪のしるしへと視線を移す。

「刻印を使えば、こうなると――分かっていた」

 みるみる剥がれ、崩れ落ちてゆく孤独の光。

「貴女を、汚し――」

 ラウはアリストラムの首にかじりついた。腕を回して抱きしめ、ぶるぶるかぶりを振り、声を殺してすがりつく。

「違う。あたしがしたの。アリスのせいじゃ……!」

「分かっていて、貴女を、危険にさらした」

「アリスはわるくないよ。助けてくれたんでしょ。あたし覚えてるもん。アリスが助けてくれなきゃあたし死んでた! ……ね、ねえ、そうでしょ……」

「ずっと……変わらなければいいと思っていた……いつかは、終わる。いつかは貴女も大人になると――分かっていたのに」

 アリストラムの手がラウを押しやろうとする。

「やだ、そんなの、やだ……!」

 ラウはすべてに抗って呻き泣いた。


 ――知られたくなかった。


 何もかもが変わってしまったことを。

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