きっと、もう。この言葉は――届かない。
――堕ちてゆく
「あ……ぅ……ううん……」
うなされ止まぬ鈍痛が襲ってくるたび、意識もまた重苦しく引き戻される。全身が、熱く、寒く、波のように痙攣して、止まらない。
自分の身体が自分のものでは無くなってしまったかのようだった。手も、足も、ひどく熱を帯びて、ロウのようにこわばって、無様に震え続けて。
それでいて、突然狂気の発作を起こしたかのように身体の奥底が捻れ返る激痛に襲われる。そのたびに誰かに抱かれ、全身で押さえ込まれて。
行くな、と。
悲痛な声で、呼び戻される。
胸の奥から漏れ続ける苦悶の呻きをふさぎ、口うつしに与えられる水薬。唇の端を罪深くつたい落ち、逃げてゆく、甘いような苦いような、それでいてどうしようもないやりきれなさ、切なさに、呑まれて。
恐ろしい夢へと――堕ちてゆく。
(アリスぅ……!)
転がるように走っていって、犬っころのように背中へ飛びつく。
(もう、何やってんの、こんなとこで。どんだけ探しまわったと思ってんの)
姿が見えなくなった、と気づいて。
すぐに探し回った。
傍にいれば、むかーっ! ってなることもあるけど、でも傍にいてくれないと、やっぱりどこか不安で。あちこち探し回る。
どこ?
アリス、どこ……?
ふわりと広がって、また背中に戻る、薄衣のような銀の髪を見つけたとたん。
まぶしい太陽が、きらきらをいっそう振りまいて注いでくるような気がした。
待っていてくれたんだ、と思ったとたん嬉しさに声がはずみ出していた。青空の下にぽーん、と投げられたボールを追いかけてゆく子犬のように、風を切って駆けだしてゆく。
ラウ、ここですよ、こっちに、いらっしゃい。
そう、呼ばれるだけで嬉しくて。
いつもみたいに優しくよしよしって撫でて欲しくって。
どきどきしながら駆け寄って、思いっきり背中に飛びついた。
(アリス!)
ラウはアリストラムの背中に顔をうずめて、胸一杯になるまでその優しい香りを吸い込んだ。馥郁とした、芳醇な森の香り。
(ねえ、何してたの?)
答えるまでに一拍の間をおき、肩越しに穏やかな笑みを投げかけて振り返ったアリストラムは、今まで、一度も見せたことのない表情を浮かべていた。
(貴女を)
謎めいた憂いもためらいもなく、ただまっすぐに見つめてくる、紫紅の瞳。
(待っていました)
(あっ……あたしを?)
どぎまぎとうろたえ、うつむけば、微笑みとともに手を取られ肩を抱かれ引き寄せられる。
(えっ……? アリス、あ、あの……?)
(私を見てください)
驚くほど、顔が近くにあるような気がする。ラウは思わず顔を赤らめ、ぎごちなく眼をそらそうとした。
(な、何か……い、いつものアリスと感じが違……ってない……?)
(私は、私です。いつもと同じ)
ふっと笑って。真っ赤になったラウの頬に、いたずらな指づかいで触れ、そうっと掌を押し当ててくる。たったそれだけで心臓の鼓動が、きゅっ、とちぢんで。
どきん、
どきん、って。
脈打つ音が次第に大きく、今にも聞こえてきそうなほど、伝わってくる。
(いや、あの、とてもそうは思えないんだけど……っ!)
ゆっくりと微笑みが近づく。風になびく銀色の髪が頬に触れかかった。
(私は、いつだって貴女の傍にいます……約束したでしょう……?)
優しい声。腰に回された腕の力が少しずつ強くなってゆく。ラウはたまらず尻尾をぱたぱたと振り――ぎゅ、っとそそるように抱かれて、また、少しぞくりと震えた。
(う、うん)
(だから、良いのですよ)
(……うん)
(……来てください)
そろりと触れる指の淡い感触。
思わずはっと身構えそうな驚きすら感じながら、募る思いのままに、くん、くぅんと鼻を鳴らす。
(……あ、あのね、アリス)
もっと、どきどき、したくて。
恥ずかしいけど……でも、もっと、きゅってなりそうな心地に、してもらいたくて。
喉をのばして、ほっぺたを、甘えた仕草でこすりつける。
(はい)
(……ちょっと……はずかしい……)
(狼は、普通、そんな細かなことを気にしないものです)
ふっ、とやわらかに笑いかけられる。まぶしかった。いつものアリストラムと何が違うのか、本当にアリストラム本人と話しているのかどうか、それすらもよく分からない。分からないけれど、でも、もしこれが夢なら。
(で、でも、恥ずかしい……けど、あの)
(……何ですか? 言って下さい)
くすぐるような笑顔が降ってくる。
(……きもちいい……)
(それはよかったですね)
ラウは、また、顔をこころもち赤くさせて、もじもじと口ごもった。指の先をつん、と突き合わせて、うつむき、ちらっとまた見上げて。
ちょっとだけ、でいいから……
ちゅっ、てして……くれないかな?
ふいに耳元を熱い吐息がかすめた。アリストラムが身をかがめてくる。
(えっ……?)
微笑みが近づいてくる。
(えっ、えっ……?)
指先で顎を持ち上げられ、こころもとない角度で見上げさせられて。
(逢いたかった)
目の前でつぶやいた唇が、視界を完全に奪ってゆく。
意地悪なほど深く、長く、優しく、愛をむさぼるキスはひどく手慣れた感があって、恐いぐらい大人の味がした。
絶え間なく続く甘いせせらぎ。
遠い風の音。ざわめく木の葉の波。微笑みが風となって、アリストラムの髪をまた、いたずらに舞い散らしている。柔らかな銀の光が目に染みて、映る。
いっせいに揺れなびいて青く輝く、一面の草原。
(ゾーイ)
笑う声が遠ざかってゆく。光に呑み込まれる。
何を言おうとしたのだろうか。続いて出てくるはずの言葉を、切ない指先がふさぐ。
着ているものを。
一枚ずつ。
優しい手が取り払ってゆく。
ラウのようでラウではない、別の――
違う。
どれほど叫んでも。
声にならない。
抱きしめられて。
ささやかれる。
何度も、何度も。
違う名を呼ばれる。
聞きたくない。見たくない。そんな顔をするのはやめて。おねがい。笑わないで。優しくしないで。違う。
どうせ嘘だと――すべてが、偽りだと、本当はもう気が付いていたはずだったのに。
ふいに、全身を熱性の痙攣が走った。
身体は全く言うことを聞かない。堅く引きつけながら、のけぞる。手足が躍り、幾度となくばたついて、切羽詰まった水しぶきを散らした。
「あ……あっ……!」
砕け散りそうな悲鳴が漏れた。背後の固い岩のくぼみに全身を強く押し込まれ、抱きすくめられる。
「ラウ。動かないで。どうか落ち着いてください……ラウ……ラウ!」
悲痛に叫ぶ声が耳に突き刺さる。
意味が分からなかった。うわずった声の調子そのものが恐ろしかった。
暴れ、もがき、吠える。
噛みつく。
爪を立て、掻きむしる。
引き裂く。
ラウは嫌悪に身をよじった。茹だるような灼熱の痙攣が襲いかかってくる。
喉がささくれ立ったかのように痛い。
吠えれば吠えるほど血の味がこみ上げてくる。魔力の入り混じった銀の吐息が近すぎるほどに迫っていた。人間に支配される恐怖に耐えきれず、反射的に相手の唇を噛み切る。
血の味があふれた。
「……っ!」
銀の軋む味と血の甘みとが入り混じって流れ込んでくる。毒に犯された血が喉につまり、ふきこぼれそうなほど膨れ上がった。
足りない。何もかもが足りなかった。
血も、妖気も。制御できない魔力が全身をがつがつと食い荒らし、蝕んでいる。今にも破裂しそうだった。
もう、聖銀の封印程度ではのた打ち回る獣の本能を抑えきれない。
自分の身体でも、何でも良い、ばらばらに食いちぎってしまいたかった。
壊してしまいたかった。何もかも引き裂いて――
「ラウ!」
切迫の声が響き渡った。
冷たく、昏い、氷の刃のような声。だが、その声はすぐにくじけ、力なく心折れて消えてゆく。
また、ぎゅっと抱かれる。
人間の臭い。
男の臭い。
憎い、憎い、あの銀の炎と同じ臭いだった。
消えろ。
ラウは憎悪のこもった唸り声をあげて腕を振り払おうとした。
何度傷つけても罠のように執拗に押さえ込んでくる腕に牙を立て、首を振って噛みちぎる。
「ラウ……!」
苦悶の呻きが狂気を呼び覚ました。
ラウは流れる血を舐めすすって笑った。
抱き支えてくれる人間の背中を爪でめちゃくちゃに掻きむしり、傷つけ、けたたましく泣き、呻き、絶叫をあげては壊れ果てた妖気に呑まれて血に狂う。
「眼を……覚ましてください、ラウ……!」
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