何かが、呼んでいる

 たいした怪我ではないけれど、無茶をしたせいでできた傷には違いない。

 治療される前に少しでも怪我を減らしておこう、と、ラウは少しあたふたしながら、手の甲にできた傷を舐めた。舌が触れるだけでやたらひりひりする。血の味がした。

 よく見ればあちこちに同じような傷ができている。ラウは血の臭いをかいだ。もう一度、今度は傷ではなく、血そのものを舐めてみる。何だか妙に胸がざわざわした。身体のどこかがやたら緊張して、うわずるような、息詰まるような感じがした。眼が冴えてゆく。意識の底に追いやられていた何かの記憶が、とろりとした舌触りに呼び覚まされ、ぐらり、ぐらりと、揺すぶられる。

 血の臭い――

 ぐうううう、と、お腹の虫が鳴った。

 お腹が空いていたせいらしい。いつの間にやら、またお腹はぺったんこになっていた。ラウは悲しいため息をついた。何でこんなにお腹が空くのか分からない。これならまだ食べ過ぎで苦しいほうがずっとましだろう。

 はてさてどうしたものか、と逡巡する。お腹がすいた……かといって勝手に狩りをするとアリストラムに叱られる。黙って狩りをしてもこれまた何故かすぐにばれる。とすると、ここはいったん城に戻って食糧倉庫を荒らすしか……

 そこでラウは顔を上げた。

 ドッタムポッテン城を探して振り返る。随分と森の奥にまで分け入ってしまったらしい。空は明るいはずなのに、足元は異様にひんやりとして薄暗かった。

 木々の彼方、生い茂る青葉や絡まる蔦、背丈を優に超す下生えの向こう側に、かろうじてあのぼろっちぃ城の尖塔が垣間見えている。外壁のタイルが濃灰色にはげ落ちているさまがまた白々しくも厚かましい。

 ぷい、とそっぽを向く。あの城の香水まみれな臭いは気に入らない。だが――

 しめった落ち葉の匂いが、ためらいの足を踏み出すたびに胞子のように噴き上がって地表近くを漂う。

 土の臭い、草の臭い、枯れ木の朽ちた臭いに、獣が縄張りを主張してこすりつけた何種類もの麝香めいた臭いが混じっている。臭いをたどってゆけば、さらに深く暗い場所へと魂を吸い取られてしまうような気がした。

 森の吐く深緑の空気が、ざわざわと揺れる葉ずれの音や、けものの臭い、雑多な鳴き声といった命の感覚となって立ちこめている。

 ふいに、血の味を思い出した。

 ラウは呆然と立ちつくす。自由という名の野生が、薄暗がりに似た凶暴な誘惑のまなざしでラウを手招きしているような気がした。

 何かが、呼んでいる。

 森をすり抜ける風が不穏の臭いを運んできた。無意識に喉元の首輪へ手をやる。まさぐる。引っ掻いた爪が銀の錠前に当たって、金属質の音を立てた。

 何かが、いる。こちらを、見ている。首筋の後れ毛が帯電したかのように逆立った。

 風が傲岸な臭いを押し流してくる。ラウの喉から、知らず知らず低い唸り声がもれた。

 風向きに無頓着なのは不用意ゆえではない。故意に匂いをつけながら移動しているのだ。

 身体の奥が、ずきりとうずく。こんな臭いは嗅いだこともない。ひどく残酷な、傲慢な感じのする、嫌な臭い。

 背筋が粟立った。怖い。だが、恐怖を自覚してしまったら動けなくなる。

 野生の呼び声が聞こえた。くつくつと笑うような声が、魂の奥底に閉じこめられていた欲望に火を点ける。

 全身がこわばってゆく。ラウは痛いほど首筋を凝り固まらせた。

 絡まる蔦が四方八方に掛け渡された木々が、迷路のように遠近感を失わせて迫る。

 気付いた鳥が声も上げず一斉に羽ばたいて逃げ去った。

 枝がたわみ、木の葉がざあっと降るように散る。

 緑の視界の奥。闇に吠える者のひそむ、深い、昏い、汀の彼方に。

 異様に痩せ衰え、あざといほどにそら恐ろしく飢餓感を削ぎ落とした黒い魔妖の影が、見えた。

 金色の妖瞳がラウを見つめた。魂の奥底にまで引きずり込まれるような、切れ長の眼。

 黒い濡れ羽色の髪が、死神の引きずるコートのようにたなびいている。野獣のようにも、貴族のようにも思える仕草で、魔妖はかすかに眼をほそめた。ラウの出方を推し量っているのか。

「貴様は、何だ?」

 なめらかな人の声に、かすれた魔妖の唸りが混じる。黒くとがった大きな耳がぐるりと回ってラウへと向けられた。

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