いつかは押さえきれなくなるときが来る
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「ただいま……」
タヌキが一匹、まんまるぽんぽこなお腹を苦しげにさすりさすりしながらよろよろと寝室に入ってくる。いや違う、タヌキではない。ラウである。何をどう喰えばこうなるのか、戸口につっかえて入りかねるほどの横幅にまで腹がふくれあがっている。
「ごちそうさまでした……」
幸せなのか苦しいのか、ラウは何とも見分けのつかない笑み混じりの脂汗を浮かべながらアリストラムを探して部屋を見渡し、その勢いで足元をふらつかせた。
「アリス……どこ……? 前が見えない」
「食べ過ぎです」
アリストラムは揺り椅子から身を起こしてラウを労りに近づいた。手を取り肩をそっと押してベッドへと座らせる。マットレスがまんまるの形に沈む。もはや座っていても寝ていても同じ姿勢を取っているようにしか見えない。
「ううう、お腹苦しい……」
ラウはお腹を押さえてうんうんと唸った。額に冷や汗が滲んで、碧の髪がまとわりついている。顔色までが妙に青白く、紫がかっているように見えた。
「そんなに食べるからですよ」
アリストラムはためいきをつき、ラウの傍らに腰を下ろして、苦しげに唸るラウのお腹をそっと撫でてやった。
「大丈夫ですか」
だがよほどむちゃくちゃな食べ方をしたのか、ぱんぱんもぱんぱん、今にも皮が弾けそうなほどお腹が張りつめている。
「急にお腹痛くなってきた……」
「それは大変です」
アリストラムはにっこり笑った。全然大変そうに思っているふうではない。
「胃薬を差し上げますから、ちょっとだけ待っててください。甘湯に溶かして飲めば大丈夫ですから」
「う、うん」
ラウは情けない鼻声をあげて身悶え、動けずにアリスを眼で追いかけた。
「苦い……?」
「もちろ――」
アリストラムはすっとぼけた仮面の笑顔を振り向け、にっこりとたおやかにすら見える仕草で小首を傾げ微笑んだ。
「いいえ、ぜんぜん苦くありませんから大丈夫ですよ」
「や、やっぱりいらない」
「駄目ですよ」
「いらないったらいらない。苦いおくすりキライ……」
ラウはお腹の痛みと薬への拒否反応が相俟って余計にいやいやとワガママにぐずった。だが身体をよじった拍子に破裂しそうなお腹まで一緒にねじってしまい、瞬く間に顔をひきつらせ、哀れ極まりない呻きを上げて、くしゃくしゃの泣き顔に戻る。
「うぐぅ……」
「ほら、飲んで」
アリストラムは小さなグラスに甘い薬水をいれ、銀の盆にのせて戻ってきた。倒れ込んだまま動けないラウを起こし、抱き支えてやりながら口元に傾けたグラスを当てる。
ラウはグラスを両手で受け取り、飲もうとしてためらった。上目遣いでおろおろと抗う。
「苦くないよね」
アリストラムは澄まして答える。
「分かりました。そこまで言うなら口移しで」
「……」
ラウはぽかんと眼を泳がせた。涙目でアリストラムの顔を見、みるみる真っ赤になったかと思うと叩き伏せるようにうつむいてグラスをひったくる。
「飲めば良いんでしょ!」
一気に薬を飲み干す。
「うぇえええ……にがあああ……!」
舌を出して泣きっつらをさらにくしゃくしゃのつぶれ顔にする。
「もう大丈夫ですよ。すぐに良くなります」
アリストラムはひょいとラウの手からグラスを取り上げるや傍らに置いて、ゆっくりとラウを横たえさせた。狼の耳を押し込めて隠す狩人の帽子を取ってやり、そろそろと身体に沿ってやさしく撫でてやる。
「う……うん」
ラウはうっとりと翡翠色の眼を閉じた。ベッドの上に広がった碧の髪がやわらかい光を放っている。アリストラムはラウのちいさな肩を撫で、髪に触れ、和毛に覆われた耳に触れた。過敏な耳が、ぴくんと逃げるように反り立つ。
「ん……」
「ラウ、歯磨きを忘れていますよ」
アリストラムはうとうとと眠りに落ちてゆこうとするラウの耳元にささやきの吐息を吹き込んだ。ラウはまどろみながらも、もじもじと頬を赤らめ逃げようとする。
「あん……くしゅぐったい……」
「歯磨きをしないと虫歯になりますよ」
「わかった……後でする」
「では、お風呂にしましょう」
「今日はいい……」
「駄目ですよ。きちんと髪を洗わないと」
「じゃ五分待って……」
「だめです。言われたらすぐそのとおりにしなさい。さもないと」
「がるるるるる」
「唸っても駄目です」
アリストラムはうすく笑った。手にタオルを持って立ち上がる。
「では、私はお風呂の準備をしてきますから、それまでに歯磨きを終わらせておいてくださいね。一緒に入りましょう、ラウ」
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何だかんだ言ってもオフロは楽しい。髪やらしっぽやら、身体のすみずみまで綺麗に洗ってもらうと、はだかのまま飛び出して再度ベッドに倒れ込む。
ラウは身体を拭きもしないで枕へと顔を突っ込んだ。くしゃくしゃのバスタオルを頭にかぶり、お尻だけを突き出してうんうん唸っている。
「やっぱりおなかいっぱいで苦しい」
「風邪引きますよ。ほら、早く身体を拭いて」
「すぐ乾くから」
「駄目です。パジャマぐらいちゃんと着なさい」
「うううん……」
ぶうぶう唸りながらも尻尾を振って、枕にしがみつく。ごろんと寝返りを打つ。かと思うと、もういきなり寝入っている。
「だってぇ……むにゃむにゃ……」
まんまるなお腹を無防備にぺろんと放り出し、足で枕をはさんで、ラウはぐうすかと眠り始めた。アリストラムは苦笑し、気を緩めたおだやかな表情をむける。
「何と、はしたない」
ラウは寝返りを打とうとして、出っ張ったお腹がつっかえるのか意味もなくじたばたした。
「……うう……くるしいよう……」
アリストラムは傍らのランプの蓋を開け、芯を落として火を消した。闇が満ち、しんとして、暗くなる。
月明かりに似た優しい手が、眠るラウの髪をゆったりと撫でる。
「アリスぅ……うううん……うううう苦しい……」
「困った人ですね」
「アリスぅ……」
無意識に手を舐めようとする。
「はいはい、よしよし」
アリストラムは青白い暗闇のなか、ラウに指を舐めさせながら、ひそやかに眼を底光らせた。魔妖とも人ともつかぬ幼い身体から立ちのぼる翡翠の気配が、まぎれもないあやかしの気を揺らめかせている。
「まだまだ子どもですね、やはり」
「こ、こ、こどもじゃないもん……」
苦しいのは決してがつがつ食べ過ぎたせいではない。ラウが知らず知らず放っている妖気のせいだ。
首輪に刻み込まれた聖銀の紋章が目に見えぬ螺旋の鎖となってラウ自身を縛り上げ、押し潰している。アリストラムは用心深く眼をほそめた。首筋へと手をやり、銀の錠前に触れる。かすかな金属の音がした。
紋章が白く光を増す。きらめきの星くずが銀色に散る。
ラウが苦しげに呻く。
「くるしい……」
尻尾がおびえたふうに足と足の間に挟み込まれ小刻みにふるえながら丸まっている。
「すぐに良くなりますよ、ラウ」
アリストラムはそろそろと手でラウを扇いでやりながら、ほのかに光る指先で流麗な印を紡いだ。銀の光がこぼれ落ち、蛹化したラウを縛める聖なる枷を、さらにきつく残酷に締め上げてゆく。
「ううん……アリス……くるしいよう……」
「もう少し」
「ん……う……」
悲しげな声が鼻にかかっている。異様な光がラウの首を握りつぶすかのように青白く絡みついた。銀の聖紋に呑み込まれた妖気の影が、光に散らされ、悶えながら消えてゆく。
成長するに従って日に日に妖気は強まってゆく。本当ならラウはもう成熟した雌の魔妖になっていてもおかしくはない年齢だ。いくら人間に身をやつさせ人間らしい暮らしを教えても身体に流れる魔妖の血は争えない。いつかはラウ自身にも奔放な狼の本性を押さえきれなくなるときが来る――
アリストラムは手をラウの傍らについた。感情を消した眼で擬似的な幼さを保った寝顔をじっと見下ろす。
すこし落ち着いたのか、ラウはいつも通り両手両足を盛大に投げ出し、何も着ないまま、さも気持ちよさそうにすうすうと寝息を立てている。
「ラウ、そんな格好では風邪を引きますよ」
声が届いている様子はない。
仕方なく、せめてパジャマぐらいは着せてやろうと四苦八苦するも、どうしてもまるくふくらんだおなかが邪魔でボタンを留められない。如何ともしがたい悲しい状況を前に、せめて丸出しのおなかを冷やすようなことだけはせぬよう、アリストラムは毛布をラウの肩までひきあげてしっかりとくるみ込んでやった。
「やれやれ、おやすみ。良い夢を」
身を乗り出して、脂汗のにじむおでこに優しいキスを落とす。
「……ふにゅ……ありしゅ……」
丸めた身体の向こうで、さっそく毛布から飛び出した尻尾がぱたぱたとシーツを掃いている。アリストラムはラウの傍らで身体を伸ばした。眠るつもりはなかった。ただ、ほんの少し添い寝をしてやるつもりで――
しかし効果はてきめんだった。一瞬の気のゆるみが恐ろしく深く速やかな眠りの帳となって、アリストラムの意識を闇に塗り込めた。
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