「愚かなのは、私だ。未だに忘れられない」
雪と氷と炎
アリストラムは動かない。
あれからずっと、白く煙る月の粒子を浴びて眠り続けている。
雪と氷と炎でつくられた、透き通る面影。白い肌。今、ラウの手にある刃と同じくあでやかに輝き立つ銀髪。無防備にはだけられた胸元は、男らしくも、中性的のようでもあり。
それらを子供のようにさらけ出したまま、深い眠りの罠に囚われて。
――眠っている。
遠い記憶がよみがえった。
姉のゾーイはいつだって優しかった。
他の誰よりも凶暴狡猾な白き牝狼。
血の鮮麗に酔いしれ、欲望という欲望をすべて謳歌し、凄艶なるその爪で、剣で、牙で、敵を切り裂き、なぎ倒し、残酷に冷酷に踏みにじり貪り尽くすその瞬間さえ、この上もなく綺麗で、寒気がするほどに美しかった。
(ゾーイおねえちゃんっおかえりっ!)
(ただいま、ラウ。良い子にしてた?)
(うんっ! ラウすんごくいいこしてたよ!)
(ようし、じゃ、ごほうびにおやつあげる。ほら、ラウの大好きなお肉よ)
(うわあおにくおにくおにく! ラウおにくだいすき!)
(ゆっくり噛んで食べるのよ)
(えへ、ラウもいつかゾーイおねえちゃんみたいにえろかっこいいおおかみになるんだ!)
(ちょっと、誰!? ラウにエロカッコイイなんて言葉教えたのは! ……まあいいわ、もちろん、なれるわよ。だって)
切れ長の妖艶な碧眼に紅を掃き、この上もなく肉感的な、はちきれんばかりの肢体を月にさらして魔狼の族長であるゾーイは笑っていた。
小さかったラウをやすやすと抱き上げて、ほっぺたにキスをする。そんなときいつもくっきりと頬についていた紅の痕跡がまるで大人のしるしのようで恥ずかしくて、ラウは無性にどきどきしたものだった。
(ラウの眼も、髪も、あたしと同じ碧の色だものね。それに、ラウはこのあたしの、たったひとりの大切な妹……家族だもの)
(うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)
(強いの間違いでしょ……)
誰よりも美しく強かったゾーイが向けてくれる、優しい笑顔。何よりもその笑顔がラウは大好きだった。
憧れと崇敬の眼差しでゾーイをを見上げて、むぎゅうっと首にかじりつく。そんなときのゾーイはいつもどこかぞくりとするような、奇妙に古めかしい不思議な香りをさせていた。
懐かしいような、怖いような、知らない香り。
なのに、そのすべてが。
あの夜、何の予告もなく。
突然、壊れた。
里のあちこちから次々に火の手が上がってゆく。恐ろしさのあまり巣穴に逃げ込んで泣きじゃくっていたラウの襟首を、血相を変えて飛び込んできたゾーイが引っ掴んだ。
(何やってるのラウ、逃げなさい! 早く!)
(おねえちゃん……!)
(先に行きなさい! あたしは)
(やだ、おねえちゃんといっしょにいる!)
(だめ)
その顔だけは今でも忘れることが出来ない。血に濡れ、涙に濡れ、絶望と苦悩に青白くゆがみきったゾーイの、まぎれもない泣き顔。
(あたしは”あいつ”を助けに行かなくちゃいけない)
(やだ! やだ! あいつってだれ! ひとりなんてやだ! おねえちゃんといっしょじゃないとやだあっ!)
ほっぺたを張り飛ばされて無理やり首根っこを掴まれ引きずり出され、切り立った断崖絶壁から護身用のナイフ一本と一緒に遙か遠い谷へと放り投げられて。
ぼろぼろの毛糸玉のようになってどこまでも絶壁を転がり落ちていった。その直後、真っ暗だった夜空が真昼のように白く染まって。
次の瞬間、里は、吹き飛んでいた。
凄まじい銀色の光がゾーイの影を背中から溶かすように呑み込んでゆく。痕跡すら残らなかった。そこに魔狼の里があったかどうかすら、分からないほどに、何もかもが、消え――
「人間を襲えば、あたしも、だって……?」
ゾーイの絶叫だけが、一生癒えぬ火傷の跡のように心に刻みつけられている。
ラウは剣を振り上げた。眼に涙が浮かんでいることさえ、気づいていなかった。
「人間に、何が分かる」
人間が。
魔妖狩り《ハンター》が。
ゾーイを殺した。
残されたのはこの古びた剣の一振りだけだ。
分かっている。人間と魔妖は敵同士だ。魔妖の大半は凶暴なだけの下等な獣だが、中には人間以上の知性と邪心を有し、自らの欲望を満たすためにのみ人に危害を与える種もある。非力ながら群れて生きる人間の眼から見れば、本能のまま奔放に残酷に生きる唯一無比のゾーイはまさしく悪魔のような存在、抹殺すべき敵であったに違いなかった。
剣を振りかざした手が震える。強くなってゾーイを殺した人間に復讐する――それだけが目的だった――はずなのに。
「アリス」
ラウは呻いた。
「アリス」
アリストラムは目覚めない。まるで気付かぬ様子で、死んだように眠り続けている。
気付くわけがなかった。今のアリストラムは、たとえ殺されても目を覚まさない。
魔力が――生きようとする力の根源が、ないから。意識が戻らないのだ。
ラウは剣を振り上げた。
「アリス!」
鋼の切っ先が甲高い唸りをあげてアリストラムの喉元に降り迫ろうとする。
月の光さえもが凍り付いた、ような心地がした――刹那。
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