結晶
放課後の教室で、雪の結晶を拾った。そら豆くらいの大きさで、窓から差しこむ夕陽を跳ね返してきらきら光っている。ペンダントやキーホルダーについていたチャームか何かだろうか。それは水晶のように透明で、六角形の頂点から、ぎざぎざの美しい枝葉が伸びていて。天然石かガラスかわからないけど、こんなに複雑で繊細なかたちに加工するのは大変だろうな、と思った。
ポケットの携帯がふるえた。るりから「終わったよ」のメッセージ。深呼吸して教室をあとにする。心臓がとくとく震えている。
大丈夫。きっと、渡せる。今日はいいことが起きそうな気がする。だって、こんなに綺麗なものを手に入れたんだから。
雪の結晶を握りしめる。火照ったてのひらが、氷を落としたように、きん、と冷えた。
校舎を出ると、運動場のはじっこにあるクラブハウスから、制服の群れがぞろぞろ出てくるのが見えた。偶然を装って、近づく。るりがあたしを見つけて手をふった。あたしは、さりげなく、さりげなく、と心の中で念じて、手をふり返した。るりの隣には、西田くんがいる。心臓の音が耳のすぐ後ろでひびいて、息が苦しくなる。あたしきっと、緊張しているんだ。
西田くんにチョコレートを渡したいって言ったら、みんな、くちぐちに、応援してる、がんばって、って励ましてくれた。るりも。「あいつのどこがいいの?」なんて、苦笑いしてた。るりと西田くんは陸上部で、いつもふざけあってる。仲良くていいなって言ったら、るりは「あたしは男みたいなもんだからねー」と豪快にわらったんだ。
「明日はうちの部、ミーティングで早く終わるからチャンスだよ」
昨日の昼休み。るりがあたしに、こっそり教えてくれたんだ。
「あたしがあいつをうまいこと連れ出すから」
「それって」
「チョコ。渡すんでしょ?」
るりの短い髪が、さらりと揺れた。ふんわりとほほえんだその顔は、なんでだろう、少し大人に見えた。
そして今、るりは本当に、西田くんを連れて運動場を横切って、あたしに近づいてくる。
「真美。どしたの?」
「うん。ちょっと先生に用事頼まれて、遅くなっちゃった」
事前に打ち合わせた通りに会話がすすむ。西田くんの顔がうまく見れない。空が橙に染まって、吐く息が白くて、ぐるぐる巻きにしたマフラーをぎゅっとつかむ。当たり障りのない雑談をしながら校門をくぐり、ゆるやかな坂道を下る。
ごめん、と言ってるりが携帯をとり出した。誰かと話してるけど、これは多分でたらめの会話。
「あたし、今日、おかーさんに用事頼まれてたの、すっかり忘れてた。じゃあね」
ひと息に言って、すごいスピードで坂道を走っていく。ぐんぐん遠ざかるるりの背中を見ていたら、ふいに、何かがからだの奥でうずいた。振り払うようにポケットの中の雪を指でなぞる。しびれるように冷たい。
あたしと西田くんは無言で歩いた。あたしは話のきっかけをつかみあぐねていた。大きく息を吸い込んで、思い切って顔をあげて西田くんを見る。彼はどこかぼんやりと、遠くを見つめるような目をしていた。あの、と口をひらいた瞬間、西田くんの声がかぶさってあたしの声はかき消されてしまった。
「あいつ、最近、おかしくない? ぼうっとしてるし、俺のこと避けるんだ」
思わず、そうなの? と聞き返す。西田くんは続けた。
「るりってさ、俺のこと、どう思ってるんだろう。沢井、知ってる?」
海沿いの国道に出て、西田くんと別れて、これでやっとあたしは泣ける、そう思った。
こめかみのあたりがずきずきした。海風が冷たくて、ひどく寒い。陽は沈んで、うすむらさきの空が広がっている。さっきまで夕陽を浴びていたはずの海の色はすっかりくすんでしまって、白い波頭だけが視界の隅でちらちらする。
ずっと西田くんに片思いしてた。彼は、あたしの隣の席のるりのところに、よく教科書を借りにきていた。「そそっかしすぎ」って、るりが教科書の角で西田くんのあたまをこつんとこづくと、西田くんは「恩に着ます」って言って、小さなえくぼをつくって、すこし恥らうように笑うんだ。あたし、ずっと見てた。だからほんとは、わかってた。
渡せなかったチョコレートは、鞄の中にある。何度も失敗してつくり直して、深夜までかかってようやくできあがったトリュフに、あたしは粉砂糖の雪を降らせた。食べてくれますように。西田くんの口の中で、甘く溶けてくれますように。
耳たぶがじんじんと痛む。雪が見たいな、と思った。うつむいて、あたしの結晶を、透明なそれを、手のひらにのせてじっと見つめた。すると、だんだん視界がにじんでぼやけて、結晶の美しい枝葉が、その輪郭が、溶けていく。
静寂。車の音も波の音も消えた。ゆっくりと顔をあげた。
雪が降っていた。空は晴れているのに。うすい光をはなつ月も、一番星も出ているのに。たしかにそれは雪。はらはら舞い落ちて、海に吸い込まれていく。あたしの手にも、髪にも、マフラーにも、はかない白いかけらが降りて、すぐに消えた。次から次に、降りては消え、触れては、消え。
耳の奥がきんと鳴る。鼻の奥が、つんと痛んで。なにか熱いかたまりがせりあがってくる。あたしはぐっと涙を飲みこんだ。
雪が降る。まじりけのない、美しい雪が。だけど。だけどあたしは。
「るりってさ、好きな奴いるのかな」
西田くんにそう聞かれて、あたし、こう言ったの。
「……いるよ。五組の、香川くん」
まったくのでたらめだった。西田くんは落胆の表情を隠しもしない。
坂道を駆け下りるるりの、小さな背中。あたし、あのとき気づいたんだ。るりの背中、泣いてるって。あたしのために、るりは自分の気持ちを殺した。
なのにあたしは。醜くて、ずるくて、最低。
舞い落ちる清らかな雪は、あたしへの罰だ。やがて白い冷たい雪に覆われて、あたしの醜いすがたは消えてしまうだろう。ううん、むしろ、消してほしい。海風のあまりの冷たさに、全身がしびれて、頭の奥が痛んで、意識の輪郭がぼやけていく。
手のひらのなかの結晶は、相変わらず、きらきら輝いている。輝きながら、溶けていく。
雪の結晶は、それぞれみんなちがう形をしているんだって、聞いたことがある。世界でたったひとつのそれは、だけどすぐに溶けて消えてしまう。あたしの醜い思いも。渡せなかったチョコレートも。溶けてしまえばいい。たった一度きりの、あたしの。はじめての恋。溶けてなくなってしまえ。
降りしきる雪のなか、あたしは鞄のなかから小箱を取り出し、ラッピングを解いた。かじかむ指でひとつぶつまんで、口に放り込む。
「甘い」
ひとり、つぶやく。ひたすら甘いチョコレート・トリュフを食べながら。あたしは、勝手にこみあげる涙を押し込めて、海をにらみつける。そして、雪の結晶を海に向かってほうり投げた。結晶は、きらりとさいごの瞬きをはなった。
その瞬間。雪はやんだ。ゆっくりと、波の音も車の音も、戻ってくる。あんなに降っていたのに、髪も服もまったく濡れていない。頭上には、群青の絵の具をたっぷりの水で溶いて伸ばしたような、透き通った冬の空。夜のはじまり。ちいさなビーズのかけらのような星の輝き。
口の中には、まだ、チョコレートの甘さがあって。しつこくくすぶりつづけている。
スクバから携帯を取り出す。電話帳をスクロールして、るりの番号を呼び出す。
三コール目で、るりは出た。
「もしもし、真美? どうだった? うまくいった?」
「そんなに無理して明るい声を出さなくても、いいんだよ。もう」
「え?」
「るりにお願いがあるんだ」
「なに? ていうか、話がみえない」
「お願い、聞いてくれる?」
「…………いい、けど」
あたしはすうっと、つめたい空気を吸い込んだ。
「るりは今から、西田くんの家に行って、チョコレートを渡してください」
「え? 真美、渡せなかったの? あたしが代理で渡せばいいの?」
「ちがうよ。るりが、自分のチョコを渡すの。西田くんに」
「…………え、」
「勇気出して、告白するんだよ。きっとうまくいくから」
じゃね、と言って、電話を切る。るりの恋は、きっと、きれいな結晶になる。ずっと溶けない結晶に。きれいな心を持っているるりが、あたしは、好きだよ。
だけど今は。
マフラーをきつく巻きなおす。少しだけ、泣いても。いいよね……?
あたしも、これから、雪みたいに、美しい枝葉をつけることができるんだろうか。
からっぽになった手のひらをぎゅっと閉じる。そこには、あたしのからだが放つ、あたし自身のぬくもりだけがあった。
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