第41話「秘伝」

 それは乱れた寺院・道観を正すという名目で、唐王朝が再来年の頒布の目指す法のことである。

 これまで自治が認められていた宗教界を政治の支配下に置くことが目的であったが、当然起こるだろう強い反発を避けるため、あくまで主導は寺院・道観とする形をとって、選ばれた何人かの僧、道士が作成に意見を求められていた。

 確か和上が以前、そんな話をしていた。化度寺の上座も一員であると。上座がお言葉を濁されたことを考えれば――間違いない!

 大覚寺・化度寺の上座の共通点を発見した琅惺は、一層足を早めた。



 大覚寺に着くと、琅惺は上座の元へ行こうと本堂前を横切って回廊に上がり、足を進めたが、向こうから来た比丘びくに止められた。

「今、崇玄署からの使者がいらしている。時を置いて行くがいい」

 崇玄署――寺院を管轄する役所、なれば当然『道僧格』制定にも携わっているはず。

 自分の考えに更なる確信を得た思いがし、琅惺は丁寧に比丘に謝辞を述べると、そのまま自らの僧坊へと足を向けた。

 外出着を着替え、頃合いを見計らって、昨夜一睡もせず読み耽った経文を手に僧坊を出る。足と同じく逸る心を静めながら、上座の元へ向かった。

 入り口に立つ衛士に、客人の有無を確認すると、つい先頃部屋を出たばかりという。琅惺は扉を叩いた。

「琅惺か。ご苦労であったな」

 上座は身を起こしていた。牀台ベッド脇に置かれた卓子に残るは、客人用の椀。それを片付けながら、

「崇玄署の方がお見えになられていたとか」

「ああ、今し方までな」

「お疲れのようですが……込み合ったお話でございましたか?」

「大丈夫だ。まあ、いろいろとな」

 上座は苦笑してみせた。琅惺は思い切って、だが、なるたけさりげなさを装い、訊く。

「『道僧格』のお話ですか?」

 上座は明らかに驚きの表情を見せた。その反応に、焦り過ぎたと心中後悔する琅惺に、

「お前に『道僧格』の話をしたか、私は」

 かけられた上座の言葉は予想外だった。

「はい。化度寺の上座と共に作成に携わると、おっしゃっていました」

 お忘れだったのか、安堵した琅惺は笑顔さえ見せ、答える。途端に上座は頭を抱えた。

「参ったなあ――他言無用と崇玄署より沙汰があったというのに」

 そう言って派手にため息をついたが、

「まあ、そういうことだ。いつ頃から復帰出来るかと聞かれたよ」

 諦めたように、上座は琅惺の言葉を認めた。そして、

「化度寺の上座は如何されていた?」

「はい、少し顔色がお悪うございましたが、しっかりお話しなさってました。やはり『道僧格』のことを気にかけておいででした」

「なるほど」

 琅惺の言葉に、上座はまたも苦笑する。

「ただでさえ進みが悪いのに、とおっしゃっていました。やはり多くの方が集まると、意見を纏めるのが大変なものなのですか?」

「そうだな。しかも道家の者もいるからなかなか……」

 仲が悪い仏教と道教を一つの法で束ねようというのであるから、ことはやすやすとは進まない、というのである。

「ですが道教は仏教と戒や教団の形態は酷似していると聞きます。そんなに揉めるものなのですか?」

「まあ大方纏まってはいるのだが、一条を巡って揉めていてな」

「一条を? どんなものですか」

「天文を観て吉凶を占ったり、国事に意見したりして民衆を惑わすな、といったものだ。あちらはもともと占いとか呪術で流布した宗教だからな。占いや悪鬼祓いで稼ぐ者も多いと聞くから、そんなことが法になっては困るのだろう。外せと譲らないのだ。だがこちらはあっても困る法ではないし、それどころか道教の勢いを削ぐ有効な一文だと、どうしても削れないと頑張っている」

「なるほど……」

 つまりは頑張り過ぎたということか。

 まだまだ仮説の域を出ないが、これで全ては繋がった。しかしそんな法が施行されては、珂惟は困るだろうな、などと思ってみたりする。

「ところで」

 上座の目線が、琅惺の脇に注がれる。

「何だそれは?」

 その目は木箱を映していた。

「あ、これはですね――」

 言いながら琅惺は中の経を取り出し、

「昨日蔵経楼で見つけたものなのですが、初めて見るものでしたので、由来をお伺いしようと持って参ったのですが」

 言いながらそれを上座に手渡す。

「『般若経』の要約のようですが……。羅什らじゅう三蔵さんぞうの訳でありながら、初めて目にするものでしたので、興味引かれまして。そんなに流布していないものなのでしょうか」

 羅什とは西域出身で、四~五世紀に訳経に多大な功績があった鳩摩羅什くまらじゅうのことで、その偉業に最高僧の称号である「三蔵(法師)」の名を与えられている。

「そうだな……。もしやこれは――」

 紙面に目を落としながら、上座は呟く。

玄奘げんじょうお法師のものではなかろうか」

「玄奘法師? もしかして経を求め天竺(インド)に密出国したという――」

 この頃の中国は外国に出ることを禁止していたため密出国することになったのである。もちろん玄奘法師とは後、三蔵法師の代名詞ともされる玄奘三蔵のこと。だが、当時は出国後の行方も知れず、途中で息絶えたと誰もが思っていた。ちなみに玄奘三蔵は出国直前の十年ほど前、ここ大覚寺で生活していた。

「うん、多分そうだ。一緒に過ごした時が少ないので余り言葉を交わすことはなかったが、聞いた事がある。成都に滞在していた際、奇妙な老人に貰った経があると」

「奇妙な老人?」

「行き倒れになった老人を助けた折、お礼にと貰った経があると。老人はそれを渡すと忽然と姿を消したそうだ。その後ここ長安に辿り着くまでに何度か危ない目に遭われたというが、その度その経を唱えると、危機が去ったとおっしゃっていた」

「――これは、最後の部分は密呪ですね」

「そうだ。『般若経』は般若波羅蜜(悟りに至る完成された知慧)を説くことから、経全体にその力が宿ると言われている。それをここまでに要約してあるのだから、恐らくこの経自体が凄い力を持つのだろう。だから玄奘法師は悪用されるのを恐れ、かといってこの素晴らしい経を埋もれさせることもできずに人目に付かぬよう置いていかれたのだろう」

 言葉通り、手渡された一巻の経から力が伝わってくるようである。知らず口元が上がる。「上座」

 琅惺は経を箱に収めると、威儀を正し、上座を真っすぐ見つめた。

「どうした?」

 対する上座は、のんびりと聞き返す。

「珂惟を、迎えに参りたく存じます。お許し頂けますでしょうか」

 上座は少し驚いたようだったが、

「いいよ」

 そう言う笑顔は、まるで子供のようだった。


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