第39話「長い夜」

ここは布政坊。皇城の西隣に位置し、西南角を西市の東北角と接する。この東北隅に右街の治安維持に当たる武装警察、右金吾衛が置かれていた。皇城に隣接していることもあり、右街にありながら高級官僚の家が多い。ついでに仏寺も多い。


 さて、その右金吾衛前。


 誰も用がないのか近寄りたくないのか、通りに人気はない。それでも開かれた門前、両脇には警護兵が立っていた。

「あのーちょっと道をお尋ねしたいんですが、よろしいですか?」

 そう、笑顔で二人に声をかけたのは杏香きょうかである。途端に二人は杏香に近づいて来て、

「何だ、どこに行きたいのだ」

「俺が教えてやろう」

 平和ボケか、人気がないからか、それとも任務の最たるものは夜間の取り締まり(坊越えする者を捕まえる)であるせいなのか、締まりのない顔をしている。

「――おお、その宿ならここをまっすぐ行って三つ目の角を……」

「いやそれより次の角を曲がった方が、分かりやすいだろう」

「え、あっちですか」

 杏香はわざと通りの反対側に少しずつ移動して、二人の注意を門から逸らす。どころか眼前の十字路を目指して歩き、三人は少しずつ右金吾衛から遠ざかって行った。

 そこへ。

 背後の角から現れた姿――琅惺ろうせいである。

「じゃ正しいかどうか聞いていて下さいね。まずこの道を……」

 杏香の声が、人気のない通りに響く。琅惺はそれを聞きつつ、辺りに目を配りながら、手にしていた白い塊を門の中に投げ込んだ。

 そして素早く元来た道を戻り、角を曲がって姿を消す。

「よく分かりました、ありがとうございます。お仕事頑張って下さいね」

 見計らったように杏香はそう言い、笑顔で手を振りながら十字路を南に折れ、その場を後にした。そして、

「どう?」

 二人が取って返すのを見ると、急ぎ足で反対側の角で門の様子を窺っている琅惺の元へと回り込む。

 その時。

「おっ、何だこれは」

 上がった頓狂な声に、二人は顔を見合わせ、頷いた。



 ――あとは。

 寺に戻った琅惺は、上座に薬を飲ませ、身の回りのあれこれを世話し、その他雑務を済ませて蔵経楼に籠もった。

 ――なんとか早く見つけないと……。

 西に取られた窓から射し込む赤い光に、開いた経を照らしながら中身を確認していく。 やがて日は落ち、いつまでもここにいる訳にはいかなくなっていき、巻書を紐解く手が自然早まる。だがどうしても、目当ての言葉を見いだすことができない。あらかた見尽くしたにもかかわらず、やはり今日も、目当てのものを手にすることができなかった。

 ――明日は上を探してみよう。

 そんなことを思いながら、琅惺はため息混じりに蔵経楼を後にした。


翌日。

 朝の勤めとして、箒を動かしている沙弥しゃみたちが、手を疎かにしたまま、額を集めている。

「うわ、雨降るぞ」

「全く、ただでさえ外に出れなくてクサクサしてるのに、たまらねえな」

「何で? 晴れてるじゃないか」

 一人が解せない、とばかりに問う。その言葉通り、空は雨の気配など微塵も見せない。

 同じ沙弥らの遣り取りを耳に挟んだ琅惺は、遠く南に、目を凝らした。南の稜線、そこから湧き上がるような雲が見える。

「ああ、お前ここ来たばっかりだから無理もないか。あの終南山に雲が湧いたら、雨になるんだよ。逆にあそこに雲がなかったら、雨雲広がってもたいして降らない」

「へえ、そうなんだ」

 そして彼らが他の話を始めても、琅惺は南に目を向けたままだった。

 中門を埋め尽くすように植えられた石榴の薄緑の葉が、中門の朱に映え鮮やかである。

 その上には初夏を感じさせる透き通った青空。薄い雲が流れていく。その遥か向こうに緑深い終南山。漂う白雲は、秀麗な山並みを一層神秘的にする。

 ――珂惟かいは、どうしてるだろう。

 緑生い茂る山を目に映しながら、琅惺はそんなことを考えていた。



 その日の午後。

 蔵経楼の階上にあって、琅惺は窓に身を寄せながら、経を紐解いていた。外は灰の空に白い糸のような雨。蔵経楼の中は、窓辺でなければ、経文が読めないほどの暗さになっていた。

 琅惺は相変わらず、経典を開いては戻す、という行為を繰り返している。その表情は、どこか晴れない。思うように密呪が見つからないからなのは勿論だが、それ以上に心を捕らえるものがあった。

 ――いよいよ今晩。

 そう思うと、経巻を握る手に汗が滲む。気づくと読んだはずの経文が頭に残っておらず、巻いた紐を慌てて解き直すいうことを何度も繰り返していた。

 ――大丈夫だろうか。

 五通観で聞いた化度寺の襲撃は今晩。これで道士の狙いが分かると意気込んだのは束の間。期待よりも不安が次第に増していった。

 いくら計画を知ったからといって、それを阻止する力は自分にはない。だから金吾衛に文を投げた。だが、衛士の力をかいくぐるほどの男だったら、いや金吾衛が文を悪戯だと取り合わなかったら――。


 なにより化度寺の上座に、もしものことがあったら――。


そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。珂惟ならきっと、軽々寺牆を坊牆を越えて密かに化度寺に忍び込み、仕留めることはできずとも、あの道士から上座を守り切るだろうに……。

 堪らなくなって連枝窓から目を投げる。南に穿たれた窓から、白く煙った空の向こうに、ぼうと浮かぶ緑の稜線が見えた。南から雲が流れて来ている、ならば終南山は京城みやこより激しい雨が降っているはず。

 ――そんな中でも、今なお苦行に耐えているだろうか

 自分の力が足りないから――さらりと言い、珂惟は行ってしまった。やはりあの時と同じく、迷う事なく心身を痛めつけているに違いない。無意味とか、効率が悪いとか一切考えず、それが今の自分にできることなのだと。

 

――今の私にできることは……。


 振り返る。そこには何段もの棚に、山と積まれた経典があった。

 迷う時も、悩む暇もない。決めた以上、その間に一巻でも多く開き、一刻も早く見つけださなければ――。

 手にした経本を巻き直すと、力強く棚に近づく。持っていたものをあった場所に戻し、新たなものに手を伸ばした。

 その時突然。

 ドサッ。

 静寂を破る音。琅惺は驚いて背後を振り返った。

「うわ……」

 思わず声を上げる。声とともに身を引いてしまうほど、大量の塵埃が舞い上がっていた。それを撒き散らした、蓋の外れた細長い木箱と、中身と思われる一巻の書が足元に転がっている。

「これは掃除しないと……。でもこんなに埃を被ってるなんて、一体どこから――」

 経の入った棚を見回す。だが、薄暗い中にあって、この箱と経が落ちたと思われる所は見つけられない。

 琅惺はその経を拾い上げ、袖で埃を拭った。それを窓の光にかざして、目を凝らす。

「『摩訶般若波羅蜜大明呪経』?」

 聞き覚えがない名である。経を巻く紐を、琅惺はゆっくりと解いた。

 現れた文字は驚くほど少ない。紙面に目を上下させるが、初めて見る経文だ。

 琅惺は徐にそれを縛り直すと、木箱を拾い、埃を払って、その中に経を収めた。

 それを手に蔵経楼を出ると、濡れないようにその身に抱えながら小走りに僧坊へ帰る。そして何度も何度も見慣れない経文を読み、口にした。

 そうすることで、まんじりともできない夜を明かしたのであった。



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