第29話「視線」
「それにしても」
月が、見事なまでの輝きで院子の砂礫を青白く照らしている。向こうの闇には、普段よりずっと多い炎が行き来していた。流れる火を目に映しながら、呟く。
「明らかに
「少なくとも仏教関係者じゃない。今日はどこも灌仏祭で忙しい、そんな中を抜け出してこんなことをすれば、自分が犯人だと言うようなものだ。何より大衆の面前で危険を冒さずとも、もっと他の機会を狙える」
声は部屋の奥から。
そこでは
「それを言ったら誰だってそうじゃないか? 基本的に寺へは誰でも入れるんだから」
珂惟は背後の琅惺を振り返って、聞いた。
「気安く入れない者もいるだろう」
琅惺はおもむろに立ち上がり、開け放たれた扉に歩み寄った。そして珂惟の隣で足を止め、
「まあ、ただの目立ちたがりかもしれないな。――とりあえず坊内の小路は衛士が回っているし、寺内は見回りがいる。君は戻って休め」
珂惟を向くと、そんなことを言う。
「それを言うならお前が、だろ。今日は大活躍だったしな。お疲れじゃない?」
「ご心配どうも。でも医師から緊急の処置を聞いているし、私が残った方がいい。――下卑た噂も立たないしな」
琅惺は薄笑いを浮かべながらそんなことを言う。珂惟は口を尖らせ、
「俺は医術の心得があるんだぜ」
やり返すが、
「はは、笑える冗談だ」
軽く返されてしまった。
「――分かった。じゃ、そうする」
そう言うと、琅惺は眉を上げ、
「珍しく聞き分けがいい」
「何それ」
二人は揃って院子に目を遣った。並んだ二つの影が、青白い室内に長く伸びる。
「――多謝」
「別に。当然のことをしたまでだし」
珂惟の謝辞に、琅惺はさらりと応える。そして、
「よかったな」
そう向けられた眼差しは、月明かりの中、随分と柔らかだった。
「うん」
珂惟は目を細め、素直に頷く。そして、
「俺行くわ。でもそうしたらお前、この部屋から当分出れないだろ? 今のうち用あるなら行っといたら?」
その申し出に、琅惺は暫し思案顔だったが、
「じゃ、そうさせて貰おう」
そう言うと珂惟の脇を抜けて部屋を出て、廊下を進んでいった。
――「
上座を和上と呼べるのは、選ばれたごく少数だけ。対処は流石だったが、やはりわだかまりは残っているのか。その琅惺が渡っていく回廊の向こう、相も変わらず揺れ動く赤が、行き交うのが見える。
ほどなく。
「じゃ、あとは頼むな」
戻った琅惺と入れ替わって、珂惟は部屋を出た。そして振り返り、
「中から鍵下ろしとけよ。念の為」
「分かってる」
かけられた言葉に、頷く琅惺。そして、
「奥も、な」
口早に告げられた言葉に琅惺は無言で、また一つ頷いた。
それを見、珂惟は軽く右手を上げて部屋を出た。数歩進むうち、背後で軋んだ音が鳴り始め、やがて扉が閉まったのがその重々しい音と、足に伝わる振動で分かった。
やがて――。
琅惺の居る部屋に真っすぐ射し込んでいた月光が、いつしか部屋前の回廊に斜めに射すだけになっていた。
内院には樹木がいくつもの影を落としている。忙しく巡っていた松明の数も減り、いつも通りの静かな夜が、ようやく大覚寺に訪れた。
ふいに風が吹く。
廊下に落ちる一つの影。
柱の陰を潜り、音も無く歩みを進めるそれは、やがてある一室で止まった。
キィ……。
僅かな音と共に扉が開く。
室内、月明かりに少し緩んだ闇に、人影はない。
影は真っすぐ、部屋の奥、隣室への扉を目指す。
再び僅かな音。
開いた扉の向こう、片隅に一つ置かれた燭台が、闇に仄かな朱を色付けている。そしてその中に、ぼうと浮かぶ白色。それは人型に盛り上がっていた。
朱に照らされた口元が、微かに上がる。
その時。
「やっぱ見てたんだ」
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