第19話「傷心」

 珂惟かいは側に立った上座を見上げる。

 上座かみざは滅多に見せることのない厳しい面持ちで、

「何やら分からぬがお前らが言い争っていると向こうで大騒ぎだ。――とにかく、二人とも奥に入りなさい」

 叱責口調で促され、珂惟はおとなしく言葉に従う。振り返ると琅惺ろうせいも俯いたまま、後について来ていた。

 二人を中に入れると、上座は本堂の扉に手をかける。重々しく閉じていく扉の向こうを見たが、境内に参拝客等はいないようだった。

 本尊の前で三人は対峙した。

 琅惺は表情がうかがい知れないほどにうなだれていた。それを見て、珂惟は唇を噛んだまま目を伏せるしかない。先ほど彼に投げた言葉は、むしろ自分にこそ向けるべきだったのだと思いながら。

 上座が、琅惺の正面に立った。

「琅惺」

「……。はい」

 長い長い沈黙の後、どうにか絞り出したという声が、伏せた面から漏れた。

「聞いた通りだ。十でここに引き取るまで訳あって離れて暮らしていたが、珂惟は私の実の息子。我が保身のため、お前に永く隠していたことを本当に申し訳なく思う。――すまなかった」

 教団内の最高僧が、そう言って見習い僧である沙弥に深々と頭を下げた。それを行者はただ、見ている。

「こうなった以上この地位に固執することはすまい。近く執り行われる灌仏祭かんぶつさい(釈迦生誕祭。旧暦の四月八日に行われる)を滞りなく済ませた後、私は身を引こう」

「そんな上座――」

「黙りなさい。私は今、琅惺と話をしている」

 言いかけた言葉は、有無を言わせない声と眼差しに遮られた。珂惟は、開いた口を引き締め、再び面を伏せるしかない。

 上座は、再度琅惺に向き直ると、

「灌仏祭まであと一月余り、その間にお前の新しい和上を見つけねばならぬな。付きたいと思う比丘がいるなら、できるだけその者に付けるよう配慮しよう。いないのであれば、でき得る限り良い者を探そう」

 琅惺はずっと俯いたままだ。

「どうする」

 重ねて上座が聞く。だが答えはない。

 中に入ってから、琅惺は少しも動いていないように見えた。沈黙だけが落ちる堂内にあって、胸苦しいのは呼吸のせいか思いのせいか――。

 ようやく、琅惺の口が開いた。

「……かりません」

 消え入りそうな声。琅惺は何度も首を振った。

「今は、分かりません」

 琅惺の足元を濡らす滴が零れるのを、珂惟は見た。

「――そうか。ならば心が決まったら言いなさい」

「はい」

「なればよい、二人とも、もう行きなさい」

 上座は、そう言うと身を翻し、本堂の扉を開けた。とたんに吹き込む春風。上座の姿は、そのまま石段を下っていく。

 珂惟は、琅惺の後に続いて歩き出した。本堂を出ても、彼は一度も振り返らない。平素は真っすぐに正された背筋が、心なしか力抜けているように見えた。その様が却って、強い拒絶を表しているようで、隣に並ぶことも、まして言葉をかけることもできない。

 やがて石段を下りた時、琅惺はどこへ向かうのか左に進んで行った。

 珂惟は立ち止まり、琅惺の後ろ姿を見送る。肩を落とした姿が小さくなっていくのを、それがやがて消えるのを、そこに佇んだままずっと見ていた。


  

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