第13話「早朝の呼び出し」

 翌朝。


 珂惟かいは日課の院子にわ掃除に勤しんでいた。

 結局昨日(正しくは今日)はよく眠れず、頭がぼんやりしている。周囲で他の行者ぎょうじゃたちがのんきに話しながら手を動かすのを横目に、珂惟は欠伸をかみ殺しながらも懸命に箒を動かしていた。

「よし終了!」

 自分の担当区域をきっちり終えて、珂惟は小さく声に出した。

 しかし周りは相変わらず緩慢に口と手を動かしている。広い境内のうちでも建物の裏側に当たる寺牆付近のこの場所は、コワい沙弥しゃみ比丘びくの目が届かないものだから、そうなるのも致し方ないとはいえた。

「さて――」

 箒を手にしたまま徐々に、移動。

 ほどなく珂惟の姿は行者たちの一団から消えた。寺院内の建物を繋いでいる回廊の片隅に生えている、ふた抱えほどの槐の幹に身を隠したからだ。

「あー眠い」

 ここからはもう一つの日課である。

 回廊の朱柱に箒を立てかけた珂惟は、足を肩幅に開いて木と回廊の間に立った。ふっと右足を横にあげ、爪先を木にかける。足は肩口まで上がっていたが、体は揺るぐことなく直立したまま。左手を上げると、体をゆっくり傾斜しながら右側頭部を木にかけた足先に向けていく。瞑目して、そのまましばし停止。

「よし、反対」

 ふっと目を開け反転しようとした、その時。

「おい、珂惟」

 背後の気配は、例の噂好きの沙弥たちだった。

 しまった、ぜんっぜん気づかなかった。いくら眠いからって、なんたる醜態! 自分こそが平和ボケだ!!

 だが。

「何でしょうか?」

 心の乱れを押さえ振り向いた珂惟は、いっそ爽やかに笑って見せた。

 思った通り、彼らである。しかし、いつもの意地悪そうな笑みはそこになかった。みな、奇妙なものをみたといわんばかり、珍妙な表情を浮かべていた。

「何やってたんだ?」

 うち一人が眉を寄せ、不審を露にした声で訊いてきた。それはそうか――思いながらも珂惟はいたって普通に、

「はい、少し基本の柔軟を」

「基本? それが?」

 長拳の基本だけど、と心中で付け加えつつ、

「はい。それが何か?」

 何がおかしいのかといわんばかりの珂惟の返答に、沙弥たちは顔を見合わせる。

「ふ、ふーん。まあいいや。それにしてもお前、体柔らかいな」

「よく言われます。それだけが取り柄です」

 満面の笑みで答える。

 仮にも双璧、と称される彼の取り柄が体の柔軟性だけにあるわけがないのは、一つ屋根の下で生活を共にしてきた沙弥たちは重々知っている。

 しかしこの邪気のない笑顔、何より、彼が未だに重そうに引きずる髪を下ろすことを許されている自分たち――この目にも明らかな事実が、彼らに自信を取り戻させた。

 彼が意図的に髪を下ろそうとしてないのでは? という疑問は、この際忘れる。

 いつもの意地の悪い笑みを、彼らは思い出した。そして、

上座かみざがお呼びだ。すぐ部屋に来いって」

 一人の言葉に、周りはいっせいに吹き出す。

 思わず珂惟の眉が寄った。

 おいおい勘弁してくれよ、こんな朝から呼び出すなんて、またいいように言われちまうじゃねえか……と思ったものの、

「分かりました。ありがとうございます」

 にっこり笑って一礼を残すと、階段を上がり回廊を渡る。

 背後のつまらないやりとりはこのさい無視。呼ばれた理由を想像するが、思い浮かばない。最近はきちんと勤めも果たしていたし、杏香きょうかのことだって今更とやかく言ってくることはないだろう。と、すると……。

 ――強いて言えば…でもあれは――。

 行けば分かるとばかり珂惟は幾分足を早め、上座の部屋へと向かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る