ペジテ戦役【産まれたテルムと許さぬ女】
パズー出発直後
***
パズーの意外すぎる行動にセリムの全身から力が抜けた。そのまま座り込む。焦燥で忘れていた腹部の怪我の痛みが押し寄せてきてセリムは小さく呻いた。
「セリム様大丈夫ですか?」
「え、あ、いや。大丈夫だハク。驚いただけだよ」
降りしきる雪に紛れて
が見えなくなっていく。まるでセリムを拒絶するように。パズーの飛行機は恐る恐るといった様子で、
「なんて侮辱だ!」
アシタカが拳を握りしめて空に向かって吠えた。
「僕が行くべきだった!なのに何故僕はこんなところにいる!最低だ!」
吹きさらしの総司令室を行ったり来たりしながらアシタカは頭を掻きむしった。それから大きく深呼吸してセリムの前に座り込んだ。
「済まなかった。よくよく考えもせずに君の意見に従おうなど愚かだった。状況を整理して今成すべきことをきちんと考えよう。ラステルさんはパズーに任せるしかない。もう遠すぎる」
深々と頭を下げたアシタカの顔にはまだ怒りが滲んでいた。パズーの罵倒が余程腹ただしかったのかもしれない。
〈楽しーい。トムトム、トトトトト。へんてこりんがまたきた。楽しーい〉
セリムは思わず吹き出した。幼くて鼻唄みたいな声は
〈セリムの友だち。トトトトトムトム。遊び道具をつけてきたー〉
「どうしました?セリム様」
「パズーなら大丈夫そうだ。変だな。あれだけの怒りも憎悪も感じない。蟲はパズーを歓迎している」
ハクに笑いかけるとアシタカが首を傾げた。
「僕にはペジテを破壊しろという声ばかり聞こえてくるけどな」
アシタカの台詞にセリムは目を丸めた。ハクがセリムとアシタカを交互に見て口をあんぐりと開いた。
「蟲の声?」
アシタカはハクの質問を無視した。
「ラステルさんが蟲と去ってから聞こえるようになった。僕の父と同じ力だ」
「アシタカ。何故ラステルは蟲と去った?僕が居ない間に何があった?」
肝心な事を聞いていなかったとセリムはアシタカを見上げた。
「君が爆風に巻き込まれてラステルさんの様子がおかしくなった。燃えるような憎しみのこもった真っ赤な瞳だった」
--蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす。王は裁きを与え大地を真紅で埋める
セリムの予想は的中だという事か。きっかけを作ったのはセリム。ラステルに懇願されたのだから側に居れば良かった。セリムは込み上げる涙を抑えるように歯を食いしばり両手を握りしめた。
「蟲の声、それにラステルさんの声がしなかったら僕はラステルさんが蟲に命じていると勘違いするところだった。セリムにはラステルさんの声が聞こえるか?」
「もちろんだ。僕が死んでも蟲に頼んでいる。僕の誇り、宝物。だから僕自身の手で迎えに行きたかった」
傷が痛んでセリムは顔を歪ませた。ハクが背中をさすってくれる。こんな状態でしかも蟲に拒絶されているのにラステルの元へ行ける筈が無かった。何故パズーなのだろう。
「すまない。ラステルさんにも合わせる顔がない」
アシタカの謝罪にあまり関心が持てずセリムは軽く首を横を振り、空を眺め続けた。
〈テルムが姫と謁見する〉
〈帰ろう帰ろうお家に帰る。早く遊びたーい〉
「どうしてパズーは受け入れられたのだろうって思ってたんだけどテルムはパズーらしい」
「どういう事だ?」
「さあ?テルムとは何なのだろう。若草の祈りを捧げよ。幼生達に聞けば教えてくれるかな。パズーのやつずるい。僕の妻と神話になろうだなんて」
ハクとアシタカが顔を見合わせて頭上に疑問符を浮かべた。蟲が心を開いている。許そうとしている。憎しみを堪えてパズー、いや人間を許そうとする悲痛が胸に悲痛が押し寄せてくる。
〈心臓に剣を突きつけられても真心を忘れるな。憎しみで殺すよりも許して刺されろ。セリムの信じるものを信じて〉
美しく切ないラステルの祈りがする。
セリムはポロリと涙を流した。
悲しみに沈むラステルを抱きしめたい。なのに遥か遠い。
パズーの行く道を蟲が開いた。
ホルフル蟲森で
「羨ましいな。まるでラステルとパズーの愛の物語だ」
嬉しいのと同時に悔しい。自分とラステルの密やかな共生の道とは違う、壮大な救済の道。
「どういう事だ?」
「見ろアシタカ。ハク。いやみんな見てくれ!」
セリムは痛む傷を押さえながらゆっくりと立ち上がった。ハクが肩を貸してくれた。総司令室の破壊された壁まで近寄って腕を伸ばす。アシタカが隣に立ち、驚愕の瞳をノアグレス平野に向ける。怒りで真っ赤になっていた蟲の瞳が緑に代わり、純白と土でぐしゃぐしゃになった大地を草原のように染め上げていた。
「知らぬ者に伝えてくれ。子々孫々、未来永劫語り継いでくれ。真心は憎しみを越える。蟲が住処へ帰ったらドメキア王国もベルセルグ皇国も許して欲しい。両国共に話が通じる王と姫がいる」
セリムの周りに護衛人が集まった。驚愕が彼らを襲い誰もが息を飲み込む。
アシタカが猿ぐつわされているカールに近寄った。理由を語らぬが、おそらく私利私欲の為に
「離してやれ」
アシタカはカールに背を向けてセリムの隣へ戻ってきた。しかし護衛人がアシタの元へカールを連れてきた。暴れようとするカールをアシタカが護衛人から奪ってから手を離した。
「貴方の主と軍も守られる。あの姫とペジテは友好を結べる筈だ。本国に怯える必要はもうない。戦をやめてペジテ大工房へ来いと伝えよ。何もかも受け入れる。反乱を続けるならペジテ大工房は関与しない」
カールは目を釣り上げてアシタカを睨みつけた。蟲の鎮まりなどまるで眼中にないようだ。
「無知の阿呆が。兵の家族や民をシュナ様が捨てるわけ無いだろう?王位を奪わなければ酒池肉林の祭宴が始まる。進軍あるのみだ」
「ならば民を率いて戻れ」
「驕るなよ!恥知らずが!私はペジテ大工房を許さぬ!生かすなら必ず破壊してやる!同じ手を使ってもな!それが嫌なら殺せ!私が死んだ後の事は知らん!狼男と共に好き勝手にしろ!」
「業を背負って生きよ!選択権はそなたの主にある!許すから許せと言っているのだ!」
睨み合うアシタカとカールの肩をセリムは叩いた。
「アシタカ。落ち着け。一先ず保留にしてシュナ姫やティダと会おう」
セリムの制止をアシタカは張り切ってカールの前に仁王立ちした。
「ドメキアの真の姫よ。何故そのように死に急ぐ」
まるで汚らわしい物を見るような嫌悪の視線がアシタカを突き刺した。
「愚か者が!この世の汚濁を知らぬ無知の罪。そして蔑みの代償を死をもって払え!この屈辱を晴らしに必ず復讐に舞い戻る!シュナ様は許し、手を取り合うだろうが私はこの国の全てを決して許さぬ!貴様の顔に必ず泥を塗ってやる!」
カールの動きは俊敏だった。セリムの腹に拳を突き上げる。ハクがカールに斬りかかった。カールはハクを蹴ったがハクは踏みとどまる。するとカールはさっと総司令室から飛び降りた。セリムは激痛で蹲ってえずくしか出来ない。
「待て女!」
ハクが追いかけるように総司令室から飛び降りた。這いつくばるように移動して確認すると、二人は器用に足場を見つけて降りていっていた。アシタカが今にも護衛兵を追わせようと視線を動かす。
「アシタカ……止めろ……」
アシタカの足首を掴んでセリムは呻いた。
「追うな!」
アシタカの鶴の一声で護衛人は追従をやめた。
「あの女は何なんだ!」
セリムを労わるように抱えながらアシタカが怒声を出した。セリムは痛みと出血て
霞む視界の端に黒い煙が見える。そして真紅。
大地が燃えている。
「パズー!」
セリムは出せる限りの大声で叫んだ。激痛に襲われる。広がる大地に蟲の激しい鳴き声が響き渡った。
ギギギギギギギ
〈裁く時がきた〉
ギギギギギギギ
空気が震えるほどの大音量。
〈飛ばされる!トムが殺される!怖いよ!助けてテルム〉
飛行機から黒煙が登っている。墜落していく飛行機。旋回して渦を作っていた
***
〈やはり断罪の時〉
***
〈テルムが死ぬから怒ってる。怒ってる。怒ってる。みんな怒ってる。怒ってる〉
***
〈愛してる!パズー!〉
***
セリムは耳を疑った。
ラステルは今なんて言った?
「セリム大丈夫か?」
アシタカがセリムの背中をさすった。信じられないラステルの言葉でセリムは今にも気を失いそうだった。
パズーを愛してる?
「蟲が怒っている。もうラステルさんの声は聞こえない。蟲の声も途絶えた。セリムはどうだ?」
「パズーを愛してるって!愛してるって!何でだ⁈僕は?ラステルは僕の妻だぞ⁈」
夢を見ているのか?ついに死んだのか?セリムは混乱する頭で必死に考えた。何故ラステルがパズーに愛の告白をする!どういう事だ⁈目の前が白くて目眩が酷い。
「セリム?どうした?何が聞こえるんだ?」
呆然としているアシタカをセリムは力なく揺すった。傷が痛み吐きそうだがセリムはアシタカに叫んだ。叫んだつもりだが掠れ声しか出なかった。
「何にもだよ……他には何も聞こえない……ラステルとパズーはどうなった……?」
「あのー。抱き合って落下してます。あのままでは二人とも死んでしまう」
おずおずという声がしてセリムは目眩を堪えて見上げた。ブラフマーが望遠鏡を覗いている。
「貸してくれ……」
歯を食いしばって立ち上がるとセリムはよろめいた。ブラフマーがセリムを支え、彼が望遠鏡をセリムの目に当てた。確かに抱きしめあって空中を落ちていくラステルとパズーの姿があった。
「ははっ……」
セリムは憎いと感じた。アシタカを送る役目を許した自分。ラステルをこの地に連れてきた自分。己を過信して何もかもを手に入れようとした傲慢な自分を呪った。戦争に加担した罪深き男に似合いの結末かと自虐が湧いてくる。
「風の神よ。どうか罪なき二人だけは助けて欲しい……
足の力が抜けたセリムはブラフマーに抱えられた。
「見ろセリム!あの戦闘機に……」
セリムは気を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます