喪失感
今年は八割が無事に育った。
黄金に輝く大粒の種をつけた穂を指で弾く。セリムは顔を綻ばせた。大豊作で今年の収穫祭は賑やかになるだろう。
だが曇り空が胸を覆う。
この黄金原を見せたかった相手の顔が頭を過る。崖に造り上げた段々畑だけではない。断崖に築かれた石畳みの街並み。強大な風車。谷間を舞う観測凧の大軍。崖から見下ろす広大な青い海。
この自慢の国を、あの輝く緑の瞳に映したかった。花が咲いたように笑う姿を見てみたかった。
友人を一人失った。それだけの事だ。だがそれにしては胸が痛い。どんなに空を飛んでも晴れないどす黒い雲はセリムの胸中に雨を降らした。
憶測でしかないが蟲はラステルを好いている。短い付き合いのセリムがそう感じるのだからラステルの村の住人がそう思わない筈がない。村一つ簡単に滅ぼす獰猛な蟲に好かれる少女。どんな風に扱われるかは想像に容易い。隠匿するのが当然だ。村の為にもラステル自身の為にも。
だからラファエに生身のラステルと共にいる姿は見られてはならなかった。セリムとラステルの友人関係は誰にも知られてはならないものだった。だがあの状況でそれは不可能だっただろう。蟲は殺気立っていた。
ラファエはは身を竦め動けなかった。セリムが行動しないということは見殺しにするのと同じだった。
あの場を利用してラステルの村を訪れて見たかった。てっきり招かれて、口封じに合うだろうと計算したが、ラファエの様子は変だった。
村の長と交渉したかった。
今後、彼女が会いに来てくれなければ会う術は無い。覚悟していたし当然だと思う一方、どこかでラステルはセリムに会いに来てくれるという自惚れていた。
一向にその気配はない。
幽閉されていないか。傷つけられていないか。
凶暴な風がセリムの頬を撫でた。冷たく鋭いそれはやがて雲を運び雨をもたらす。
1秒でも早く、あの蟲森の深淵は辿り着く方法を見つけ出す。必ず。セリムは拳を強く握りしめた。
「通常避難が必要か……。」
まずはここまで実った作物を守らなければならない。収穫祭が無事に済んだら、アスベル先生と共に大工房ペジテを訪ねよう。古代遺跡を有する大都市、何か知恵や技術を得られる可能性は高い。
「おーい。セリム様。」
遠くに手を振るコボリの姿が見えた。セリムは手を振りかえした。手招きされてセリムは畑を登っていった。
「ケチャ姫様から伝言ですぐに城に戻るようにと。」
「姉上が。何だろう。分かった。」
セリムは倉庫脇に止めてあるオルゴーに向かった。気圧が下がっている。やはり天候が怪しいと思いながらゴーグルを身に着けた。
「コボリ、畑の保護準備をするように皆に伝えてくれ。」
「まさか逆突風ですか。こんなに穏やかなのに。」
「いや、とれはないだろう。だけど嵐まではいかない豪雨が近い。観測部と相談して通常避難令を出すかもしれない。」
オルゴーのハンドルを掴み、機体をひっくり返した。コボリが力強く頷いく。セリムは怪訝に思って首を傾げた。
「直ぐに保護をします。」
「無駄骨にならないように準備だけに。」
「セリム様の予報はこの畑を占める稲穂の割合より高いですから。どうかしました?」
今度首を傾けたのはコボリの方だった。髭に覆われた口がぽかんと開かれている。セリムは今にも泣きそうだった。
この国で生きると決めているのに、決意がぐらぐらと揺れている。おまけに信頼を裏切ろうとしている後ろめたさ。それでもラステルに会いたい。それが胸を占拠して締め付ける。
「何でもない、じゃあ僕は行くよ。」
セリムはオルゴーを担いで走り出した。踏み切って足を浮かせると風に機体を乗せて上昇する。それとは正反対に気分は沈んでいった。
友人を一人失っただけだ。
それなのに焼け焦げそうなほどの喪失感。一月半が過ぎるというのにセリムの心は晴れるどころか曇っていく一方だった。何かにつけてラステルの事を思い出す。その姿が瞼の裏に浮かぶ。
高々と会いに行くと宣言したのに、なんの進展もしない焦燥感。
「ラステル……」
国を捨ててしまえばもう一度会えるのだろうか。そんな事を一瞬でも考えている自分が愚かしくて情けなかった。
思わず名前を呟いて更に胸の奥の焦げが増えた。
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