開かれた扉

何て温かいのだろう。恐怖が萎んでいき安堵に変わっていく。肩をすっぽり包む大きな腕。重ね着の服からは体温など伝わる訳がないのに。


「皆が憎んでいる。とても恨んでいるわ。怖くて……怖くて堪らないの。」


口にしてはならないと閉じ込めていた感情が零れ落ちた。

体が少し離れた。

悪い予感がしてラステルは顔を上げた。だがレンズの向こう、青い瞳に浮かぶ光は柔らかだった。セリムが頬を撫でる。ザラリとした手袋の感触が予想外に優しい。

何もかもを打ち明けたらセリムの態度はどう変わってしまうのだろう。


「この辺り、つい最近まで集落があったんだね。」

「どうして。」


分かるのかと言う前にセリムは言葉を続けた。


「新芽ばかりだ。蟲の亡骸があちこちに埋もれている。自然に出来ないような細工された石や木材。それに……。」


視線がラステルから逸れた。


「古い言い伝えで蟲波というのがある。怒り狂った蟲が村や町や国を襲いツナミに飲まれるがごとく蟲に破壊される。蟲を埋葬するように植物が茂り蟲森が出来る。だから蟲に手を出してはいけない。蟲森に踏み込んではならない。蟲森に住まう民でさえ共存は難しいんだな。いやだからこそか……。」


最後は独り言の様だった。酷く悲しそうな呟き。失われた命を悼んでいるのだろう。セリムは暫く瞬きもせずに、見知らぬ村を想像するように遠くを見つめていた。


「なぜ怖いと?」


真摯な目がラステルを覗き込む。ラステルは直ぐには答えられなかった。

今迄誰もラステルの中へ踏み込んでは来なかった。勝手に決めつけ思い込み、それで終わりだった。

それで良かった。自分でさえ曖昧な認識しかできていないのにそれを上手く伝える自信はない。理解してもらえるとも思えない。

本当にそうなのだろうか。


「とても酷いことをされたの。」


背筋に悪寒が走った。腹の底からこみ上げる恐怖。それに憎悪が伴いラステルの思考を浸食する。

違う、違う、違うと抵抗するほど自分を見失っていく。   

肩に置かれたセリムの手が急に悍ましいものに感じられラステルは体を捩った。ラステルは慌てて首を横に振ってセリムの胸に縋りつこうとした。

誤解されたくない。この人には。

だが体がそれを拒絶しラステルは後ずさりした。


「君は……。その目……。」


その言葉の続きは悲鳴に掻き消された。静寂を切り裂く女の声。セリムの体が離れた。声の方向に目を向けると人が座り込んでいる。八つの羽を唸らせて威嚇する真っ赤な目のガンがその前に立っていた。


「嫌……来ないで。」


 聞き覚えのある声にラステルは駆けだした。セリムが後を追いかけてくる。


「姉様!どうして⁈」


ガンが顔をラステルに向けた。巨大な目が怒りに燃えている。ラファエまであと数歩と言うところでラステルは足を止めた。

ラファエは何をしたのだろうか。

ガンの腹の下に乳白色の卵が並んでいるのが見えた。更に無残に砕け散ったものが苔の上に散乱していた。体中に走った感情にラステルは身を竦めた。 目の前の人は大切な家族、体よ動いてと命令しても石になったように固まってしまう。


「伏せて!」


鎌のようなガンの前肢がラファエの首めがけて動くのと、セリムが鞭を放ったのは同時だった。セリムの鞭がガンの前肢を捕え絡め抑えた。


「今のうちに。」


そう声をかけられてラステルは恐る恐るセリムを見上げた。


「お願い、酷いことしないで!悪いのは姉様だわ!」


ラファエは不注意だっただけで悪気はない。滅多に村から出ない、蟲を毛嫌いしているラファエが十分注意して歩いただろうことは想像に難くない。分かりきっているのにラステルの口から飛び出た台詞は正反対だった。


「僕を信じろ。」


ラステルはラファエにゆっくりと近寄った。震えている腕でラファエがラステルにしがみついた。端正な顔が青ざめ引きつっている。


「突然現れて恐ろしくて……。誤って卵を割ってしまったの。」


歯を鳴らしながらラファエはますます身を縮めた。ガンがますます激高し上体を捻った。鞭で繋がったセリムが飛ばされる。だがセリムは鞭から手を離して身を翻しクタの蔦を掴んだ。


「目を閉じろ!」


ラステルは素直に目を閉じた。

鼓膜が痛いくらい激しく響く甲高い音がして次の瞬間瞼に赤黒い光を感じた。


「さあ、今のうちに行こう。」


片腕に銃を抱えたセリムがすぐ目の前に立っていた。正確には銃だと思われるものだ。

握りこぶし大の長い棒で握り先がコの字に曲がっている。見た事も無い形だが銃は銃だ。持ち歩いていても使うのは初めて目の当たりにした。威嚇用の光、やはりセリムは人とは違う。

腰を抜かして動けないラファエを抱き上げるセリムの後ろに続く。振り返るとガンが呆然と立っていた。羽は力なく下がり、短い四つの触角の一つも微動だにしない。だがゆらゆらと揺れて倒れたりはしない。どこからどう見ても怪我などない。


「閃光弾だ。目が眩んでいる。あの卵は気の毒だけど、過ぎた事だ。可哀想だけど仕方ない。今のうちに行こう。」


差し出された手をラステルは迷いなく握った。

もう怯えはなかった。


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