シーン13

「ほんまじゃ、英語しか聞こえん」


 紗央梨は、美紀の肩をがしっとつかみ、驚きのまなこをみせた。


「でしょ!」


 美紀は同志を見つけたかのように紗央梨の腕をつかみ返した。


 正確に言えば、彼女たちが驚きの原因であり、紗央梨が感じた違和感は、『英語しか聞こえない』ではなく、『英語以外の言語がしゃべられていない』事である。彼女たちが四ヶ月も住んでいる街が、都市部であり、さらにそこがバンクーバーであったための反応といえよう。


「うん、中国語も韓国語もタガログ語もなんも聞こえん! すごい! しかも、全部ネィテイブ英語じゃ!」


「うんうん! ラテン系みたいなインド語ようなのも聞こないよ! 別の国に来たみたい!」


 ――ここもカナダである。その前にどこよ、そのラテン系みたいなインド語って。そんなつっこみがあることも、彼女たちはわすれるほどこの状況に驚いた。


 彼女らが住んでいるバンクーバーでは、それだけ移民や留学生、外国人労働者の割合が多く、いろんな民族、人種の人々が住んでいる。彼らのほとんどは英語を第一言語としていない。もちろん、第一言語が同じ家族、友人、知り合い同士では、まず間違いなくそれぞれの言葉で会話する。スーパーマーケット、モールへ行っても、ショッピングを楽しむ人はカナダ人だけってのはまずありえない。ほかの言語圏の人々も結構見かけられ、英語以外の会話を聞く機会がほぼ毎回訪れるのである。ここ、紗央梨と美紀が日本語で会話しているように。そのため、はじめてカナダでしかもバンクーバーを訪れたとき、「英語以外の言語が氾濫しまくっている」、「欧米じゃなく、まるでアジアみたい」と、日本人のほとんどがカルチャーショックを受ける。これが、カナダが移民の国であり、多民族多文化主義をとっているがゆえの特徴なのだろう。


 この町のスーパーマーケットの中は、ほぼ九九.九パーセント英語で会話されているのである。彼女たちが渡加する直前までいただいてカナダのイメージが、今ここにあるといってもいい。彼女たちからすれば、これが本来受けるだろうと予測されたカルチャーショックのはずだったのだが、あまりにも人種・言語のモザイクのようにまざっている世界のため、


「うちらが今習っている英語ばっかりなんて……」


「それでも、何をしゃべっているのかわからない」


 と美紀がぼやく。紗央梨は否定しなかった。彼女も、中の客がそれぞれしゃべっているのが聞こえ、それが英語であることは理解できるのだが、何のトピックで話しているのか全く聞き取れないのであった。


「うんうん、そうじゃね。うちら、もっと勉強せんとね……」


——まったく普通の英語にまったくついていけてない——。二人は同時に大きく溜息をついた。だが、美紀がすぐにお得意の楽天的な思考へ切り替えを行う。


「でも、きったさかん。これってチャンスなんじゃね? 英語勉強にすごい良い環境なんだよ。積極的にいこうよ!」


 と美紀は落ち込んでいる空気を持りあげようとする。


「わたしたちのカナダへ来た本来の目的って、英語を学ぶ、じゃなかった? このたびでいろんな所行って、いろんな経験をして、生の英語を学習していく。すごいことじゃん!」


 美紀が素晴らしくポジティブなことを述べ、学習意欲を高めていた、珍しく。


「ほうじゃねー。じゃ、次の宿の予約は、美紀やってね」


 紗央梨が微笑みながら頼むと、美紀は、急に顔をこわばらせ、


「無理無理無理無理」


 目まぐるしく首を振った。


――さっきまでの意欲はどこに行ったんー?


「いつまでも、うちにやらせんといてよ。うちの英語力もたいしたことないんじゃからー」


「えー。きったかさん、私の英語力知っているでしょ!」


「だから、勉強するんじゃろ」


 と紗央梨は諭す。「結構簡単やって。さっきの予約日変更もすごくうまくいったんよー」レジャイナでの宿泊予定先とのやりとりを、美紀に説明した。


「へー。じゃ、キャンセル料金を払わなくて良いんだね! さすが、きったかさん!」


 説明を聞いた美紀が、えらく感心している。


「いや、別にうちが何もせんでも、向こうがすんなりと変更を受けてくれただけじゃって。美紀も……」


「ううん、きったかさんのその一生懸命、必死な説明があったからよ。きっとそのおねーさんも、きったかさんの『チャリ吉』くんへの深い愛情を感じて、同情してくれたんだよ」


——あの軽い感じは、そがなふうにおもえんが……。紗央梨は、その超軽いかんじのおねーさんの口調を思いだした。


「三ヶ月の語学学校の勉強は無駄じゃないんだね!きったかさん、頭良いし、優しいし 頼りになるおねーさんって、いいねぇ」


 美紀は調子上げつつ、つづける。紗央梨は、同性にしろやっぱり色々と褒められると照れるものがあると感じて来はじめる。


「やっぱり、きったかさん、この調子で次も!」


——あれ? 紗央梨は、気のいい言葉でもちあげすべてを任せていく美紀の戦術にはまっていく自分を感じていった。美紀は小悪魔的な笑顔を浮かべていた。


「まったく、もう……」


 紗央梨は、小さく溜息をついた。この憎たらしい笑顔で何人の男が引っかかったのやら。次の予約手配は、その時に考えよう。彼女は気を取り直す。


「ところで、ジェーンさん、まだ買い物?」


 紗央梨は、修理工場であったカウボーイハットの女性『ジェーン』とその子ども『キーラ』を思いだし、美紀に訊く。


「うん、たしか野菜のコーナーにいたよ」


 美紀につられていっしょに店内を見回ったときに、紗央梨はその二人を見かけていた。


「まだ、買い物が続きそうなんかな?」


「どうだろ……。わたしたちの分も買っているんだよね」


「そうじゃね、お礼をせんとね」


「そうだね」


 美紀はその紗央梨の言葉に静かに小さく頷いた。


 話をすこし戻るが、紗央梨と美紀がこのスーパーマーケットにいるのは、そのジェーンにつれられてきたからだ。今、その親子はスーパーマーケットで今晩の食事の食材をそろえているところ。紗央梨と美紀の分も含めて。


 ここへ来る前、紗央梨たちとジェーンたちは、『ミアータ』が修理されている苦お嬢にいた。ジェーンは、その時にその工場のオーナー(メカニック兼)『トニー』から紗央梨の『ミアータ』が直るのが明日の午後以降になることを聞き、この町に足止めになってしまった紗央梨たちを自分の家に泊めてあげることを申し出た。紗央梨は、最初初めての面識の人からの突然の申し出にいったん躊躇するが、相手が同性の女性であり、美人であり、小さい娘さんがいることで、また、宿泊費も浮くというメリットもあり、このありがたい旅先の温情に彼女らは甘えることになった。


 二人は、その時の光景を思いだしていたが、美紀にふと気になることを思いだした。


「きったかさん、でもさぁ、『マイ・ランチ』がどうのこうのって、ジェーンさん言っていなかった?」


 と美紀がきいてきた。紗央梨も完全にジェーンの言っていたことを聞き取っていないので正確なところまでは把握していないが、『マイ・ランチ』って言っていたのは覚えていた。


「うん、言っとったね」


「わたしたち、昼はすませているのに、また『昼食(ランチ)』を用意してくれるのかな?」


「今から、夕食(サパー)じゃろ。ジェーンさん、ここでうちら用に食材を買い足すっていっていた」


「そうなんだよね。『ランチ』ってどういう意味なんだろ?」


 美紀のちいさな疑問は、紗央梨には答えられなかった。その前後のジェーンの言葉も、その時のジェーンの表現とうで補いながら、理解していただけだったから。


「英語の勉強じゃね」


 紗央梨のこのつぶやきに、美紀は曖昧な相づちをうった。


「ところで、きったかさん。キャンセル代も今日の宿泊代も夕飯代も浮くんだよね?」


 また、話題を変える美紀。


「うん」


 紗央梨は静かに頷く。


「『チャリ吉』くんも、午後まで動かせないんだよね?」


「……うん」


 紗央梨の一瞬思考を巡らして、表層的なうなずきをみせた。このとき、彼女は美紀の何か企みを感じ取っていた。


「じゃ、ちょっと三区画(ブロック)程先の通り(ストリート)へ行ってくるね」


 と美紀は静かにスーパーマーケットから出ようとした。


「どこいくんね?」


 と紗央梨は美紀の首根っこをつかむ。


「......ちょっと買い物」


 美紀は苦笑いを浮かべる。誤魔かしは気かないかって、顔をみせた。


「もうすぐ、ジェーンさんも買い物を終わらせて戻ってくるよ。知らない町で迷子になっても知らんよ。おとなしくしときんさい」


 紗央梨は美紀を戒める。


「だって、この州もお酒は酒専門店(リカーストア)でしか売られていないんだよ」


——さっき、店内をうろうろしていたのはそれ(お酒)を探してたんか……。


 彼女らが住んでいるバンクーバーがあるブリティッシュコロンビア州、通称BC州では、お酒は酒専門店でしか購入できない。スーパーマーケット、コンビニエンスストアではまず売られていない。州によっては違うと聞いていたが、昨日まで滞在していた隣のアルバータ州も同じように酒専門店(リカーストア)のみでの販売であった。ここサスカチュワン州も同じような規制で酒の販売が限られており、このスーパーマーケットでは売られていなかったようだ。


「なんで、三ブロック先って知っとんのよ?」


「みて、ここから西に酒屋(リカーストア)があるんだよ。歩いて行ける距離だよ」


 美紀はスマートフォンをポシェットから取り出し、探し出した情報を紗央梨に見せた。この町(メープルクリーク)の酒店(リカーストア)情報である。確かに地図ではここから三ブロックを曲がったところに、州営の店があるそうだ。確かに歩いて五・六分くらい。ちなみに、美紀が閲覧していたサイトは『英語』である。


「ひとりで行くつもりなん?」


「うん。きったかさんは、ここに残って、ジェーンさんをつかまえといてほしいの。できれば、このリカーストアで私をピックアップしてって頼んでくれる?」


 美紀が意欲たっぷり自信ありげに言った。


「で、ひとりで行くん?」


 紗央梨は再び訊いた。何か無性に怒りがわき出てくるのをこらえていた。


「みて!」


 美紀は、そのサイトに表示されている営業時間を指さして見せた。「このリカーストアも六時で閉まるんだよ。全く、お酒に関してはこの国、数十年おくれているって感じ! スーパーでもコンビニでも売りなさいよって!」


 美紀はスマフォでリカーストア情報をもう一度確認しているところを、紗央梨は静かに両手の握り拳で彼女のこめかみあたりを挟み込み、押しつけるようにこすりつけた。


「痛い痛い痛い痛い、きったかさん!」


 美紀がその痛みに耐えきれずに、紗央梨の両手をつかみ返し、涙目をみせ何やら訴える。紗央梨の目にも、恐い目をみせ何やら怒りを訴えていた。


「なんで、あんたはお酒に関するとそんなに行動力かあんのよ!」


 紗央梨が腹を立てているのは、電話でホテル予約等は、すごい消極的になのに、こういう所は手助けも必要とせずに、一人ですませる自信があるという所だ。しかも、英語力がないからと言う理由で避けていたのに、英語サイトを探しだし、正確にチェックして、リカーストアの場所を探し出していることまで行っている。


「えー、せっかくお金が浮いたんだし」


「『ミアータ』くんの修理代がそれより多いんじゃが」


「でも、明日の昼過ぎまで足止めだし、きったかさんも少々二日酔いしてもなんとかなるよ!」


 初対面の他人様(ひとさま)の家で、酔いつぶれようというのがすでに美紀の計画の中に入っていたのである。まだ、ジェーンの家がどんなところか全くわからないのに。


「美ぃ紀ぃー……」


 紗央梨は、美紀に凄味の口調で威嚇する。


「は、はい」


 美紀は観念したように、無言で紗央梨の右隣でしゃがみ、溜息をついた。さすがに美紀も自省をし始め、おとなしくすることに決めたようだ。

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