相対概念と二つの期待

 記念すべき第3話目、ぐらいになってくると、さすがに緊張もしなくなってくる。そうして、油断してダラダラ書き始めると、もう面白く無さが底抜けに追求できそうだ。

 しかし、だ。要約された「生きる意味とはこういうもんですよ」、なんて読んでも、そんなの全然面白くないのではないだろうか。



◇生きる意味を考えるということ


 生きる意味は、あるのか、ないのか。この点をはっきりさせないまま書き続けることは無意味なのか。こう、二分法的な思考になっている時点で、もう失敗に片足を踏み入れている。

 少し落ち着いて考えてみよう。まず、「生きる意味はある」とする。そうしたら、

この作品は、その「答え」を見つけるための作品になる。しかし、だ。その作品から零れ落ちるのは、その作品で見つけられるであろう「答え」が、その人にとって解には到底なりえなかった場合である。

 例えば、「結婚して子供を生んで、暖かい家庭を築くことが人間としての最高の幸せなのです」というのが、その作品の「答え」だったとしよう。そのプロセスにおいて、いかに著者に共感し、自分の生活に取り入れるべき知識も吸収していたとしても、その「答え」が納得できないものだったとしたら、その時の失望は、計り知れないのではないか。長編小説など読んでいて、序盤中盤は面白かったけれども、結末が納得できなかったとき、その作品を「面白かった」とは言えなくなってしまうようなものだ。


 もう一つ、蛇足的に書いておけば、先の記事で書いたように、現代僕たちが生きる社会は、とっても自由で、とっても価値が多様である。ということはまさに、「主体的な真理」、いわゆる自分にとって正しいと信じられることこそが、答えになる、ということだ。

 であれば、「答え」は、数多くの答えの中の一つの事例的意味しかなさなくなる。

 であれば、いわゆるカリスマ経営者の本とか、政治家とか医者とか、様々な成功した人たちの言葉というのはたくさんあるのだから、一凡夫のこの作品を読む必要はなさそうである。


 よーしみんな、自分の本当の気持ちに素直になって、精一杯、積極的に生きていこう! みんな、誰しも生まれてきた意味、果たすべき使命があるんだ! ファイト!


 ――以上、この作品は、完結となる。



◇生きる意味はないとしたとき


 いやいや、待って欲しい、なんとか最低限、この作品は30話までは続けることになっているのだ、こんなところで終わってはダメだ。

 ではこうしよう。「生きる意味はない」のだと。


 宇宙が誕生したのは137億年前で、地球が誕生したのは46億年前だとされる。そして、今から17億年から32億年ぐらいの間に人類が生き残れる環境ではなくなるのだという。ということは、地球さんも、もう結構いい中年ってわけだ。

 いきなり最大限広げた視野で書いたけれども、人の命も限りがある。平均寿命は大体80歳ぐらいだ。人はいずれ死ぬ。自明なことだ。書くのも憚られるぐらいだ。


 しかし、意外とこの実感が難しい。

 どうにも僕たちは、無批判に、無自覚に、明日も暖かいベッドで目を覚ますものだと、信じ、疑わない。逆にすぐさま書いておくべきは、明日通勤通学する際に交通事故に遭って死ぬのでは、とか、そんなこと考えるのは不安神経症的であり、杞憂である。


 だから、例えば健康診断で二次検査になったとか、病気になったときとか、大切な人を失ったときとか、例外的な、非日常的な状態になったとき、ようやく、自分とは何か、これまでの人生とは何だったのか、と、考えるようになるのである。


 でも、それぐらいの程度でいいのではないだろうか。人は生まれ、そして死ぬ。ただそれだけだ。生きる意味はない……けれども、いざ避けられない死に直面したとき、本当に何も生きる意味などないのだとしたら、自分は無価値だ、これまでの人生何ら実りがなかった、何も成せなかった……と、苦悩するだけになってしまわないだろうか。

 だから、生きる意味はない、と切り捨ててしまうのも、少しばかり危険な気がする。



◇生きる意味を考えることに意味はない


 よく見かける意見や方針は、「生きる意味を考えること自体をやめるべきだ」というものである。

 生きる意味自体があるか、ないか、とするのではなく、そもそも、その問い自体に意味がないのだと。

 これはある意味、多くの人が採用しているやり方だ。というよりも、そもそも、あまり、真剣に考えるような人は少ないのではないか。「生きる意味? あーそもそも、人生限りがあるでしょ。そんなこと考えてたってしょうがないじゃん。生まれてきたんなら、楽しまなきゃ!」というのが、普通な気がする。

 それはそれでいい。というよりも、僕も、それができたら、一番いい気さえする。


 やっぱり、生きる意味なんて、考えるだけ無駄なのか? 無意味なのか?


 道端の花が美しい。

 太陽のうららかな日差しが心地よい。

 涼しげな風に運ばれてくる萌ゆる新緑の匂いに癒される。

 美しい恋人と抱き合える。

 天使のような我が子が愛おしい。

 友人たちと朝まで語り合い過ごす。

 仕事で皆から感謝される。


 この世はもっともっと良くなっていく。自分の人生はますます素晴らしいものになっていき、多くに充足していく。

 だってこの世界は、こんなにも美しいのだから。



 これら多くのポジティブ思考と呼ばれる言葉、方法、実践は、探せばいくらでも溢れている。さてこれらを、救いととるか、それとも、欺瞞ととるか。

 この書き方、話しの展開からすると、「いや違う、こんなポジティブなんてのは嘘っぱちだ」と続くようだが、そこが問題ではない。ポジティブ大いに結構、というよりも、論理的に、人生は、ポジティブ、即ち幸せでしかあってはならないのだ。


 これは単純な二分法で示される。貴方は、幸せな人生がいいですか? 不幸な人生がいいですか? 幸せな方がいいです、以上。


 つまり、幸せか不幸せか、生きる意味はあるのか、ないのか、そんなことに疑義を呈している暇はないのである。

 答えはあるのか、ないのか。あった方がいいに決まっている。自分には見つけられるのか、見つけられないのか。見つけろよ。


 これが、相対概念の無意味性という。



◇相対概念


 くだらない例えをしよう。ある女性は、高身長の男性が好きだとしよう。ではその身長が高い、とは、どういうことか。日本人男性の平均身長は171cmくらいという。それより高ければ、高いのか、それとも、自分より高ければそれでいいのか。


 高い低い、長い短い、多い少ない、増えた減った、きれい汚い……。


 これらは全て、ある基準との比較によって示される表現である。それらは、あってないようなものだ。そんなこと、当たり前のことだろう。


 ところが、自分の感覚に対しての表現となると、少し違和感になる。

 例えば今の、面白い、面白くない、とか、先ほどの、幸と不幸とか。楽しい、苦しい、嬉しい、哀しいといった感情も、相対概念に過ぎない。それらは、自分の心の中にある、とある基準があって、それを満たしているか、不足しているかによって発生するものなのだ。


 ――とはいえ、僕たちは、確かにその感情が、ある、としか言いようがない。


 

 基本的に世界は「パターン」で構築されている。赤ん坊や幼い子どものカオス的不安は、たいてい、大人になるにつれてパターンとして処理できるようになり、解消されていく。例えば、湯気が出ているものに触ると熱くて痛い思いをするから、触らないようにしようとか。

 パターン処理は、物理現象のみならず、感情など精神部分にも及ぶ。いわゆる快不快といったものも、ある程度コントロールされるようになっていく。

 そのパターン処理は、経験的に構築運用されるものだから、多くの経験をすることで、それだけ奥行きが深く、様々な場面において対応できる人間になっていく。

 僕もまた、それなりに多くの経験をし、現実世界に対しての身体と心の適応力を得てきた(この「多く」というのも、もちろん相対概念であり、主観的感覚的なものに過ぎない。きっと、これをここまで読んでくださっている方の方が、よほど多くの経験をされているだろう)。それは、実感を伴い、手ごたえを感じるものである。


 ところが、どれほど多くのパターン処理を積み重ねても、例外事象は必ず発生する。一切の例外を排除することは、不可能だろう。もちろん、「想定どおり」という言葉が流行ったこともあったが、人生には限りがあって死は自明なのだから、そういう意味では、僕は何があっても「想定通り」と言えるかもしれない。今日、突如友人に誘われて夕食を共にしたが、夕食を外で食べるつもりが元々あったから、「想定通り」である。つまり、思考次元を変えることで、いくらでも想定内に事象を収めることはできるわけだが……、お気づきの通り詭弁である。



 ある選択において、その選択以外の事象というのが例外ということになる。何かを選ぶことは、何かを選ばないことだ、という言葉もよく耳にするものである。何かを決めることができる人は、何かを捨てることができる人だ、というのも。

 ここにおいて、「期待」を排除することも、また不可能だということが分かる。期待には、「こうなって欲しい」という水準と、「こうなって当然だ」という水準のものがある。

 これは、表層的には違いはないが、例外発生時に全く異なる振る舞いをする。「こうなって欲しい」という水準の期待は、例外処理に強い期待である。反して、「こうなって当然だ」という期待は、例外処理に非常に弱いものである。

 便宜上、前者を「希望期待」、後者を「必然期待」とすれば、圧倒的に後者の「必然期待」が、生活上多いことが分かる。

 例えば、明日戦争が起こって物価が高騰して食うにも困ることが「起こらない」という期待は、当然「必然期待」であり、この、「○○しない」という期待は、もはや無限に存在する。

 自分という精神的な総体は、この無限に連なる「必然期待」によって成り立っているといえる。だから、「必然期待」そのものは、善でも悪でもない。



 幸せや、不幸ということが、そもそも相対概念だとしても、現に生じる感情は如何ともしがたい。しかしそれは、自分の中にある、必然的な期待が満たされていないことによって生じている可能性があるのだ。


 ここに、「幸せの水準は可変式ですよ」という方法、それは、「希望期待」であったときには、有効かもしれないが、「必然期待」であったときには、簡単にはいかないだろう。「こうあるべきだ」というのは、思考の次元でコントロールするのはかなり困難である。この部分のすり合わせが、人間関係を円滑にする一つのポイントである。


 今回は、思っていた以上に抽象的な話が多くなってしまった。ただ、相対概念についてと、期待には二つのレベルがあるということは、書いておこうと思った。

 そのせいで、生きる意味を考えることに対して、何だかよく分からなくなったが、まぁ、ゆるく言えば、「考えなくてもやっていけるのであればそれがよいと思われるが、一度はまってしまったのなら、徹底して考えてやろう」ということになるだろう。


 人生短く限りがあると言っておきながら、どうにもまだ先は長そうである。


<了>





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