episode 5 結合《リンク》

 か細い指の間にきらめく、識別票ドッグ・タグの冷たい銀色。


 少女はそこに刻まれた名前を見つめ、ひとりベッドの上で眠れぬ夜を明かしていた。

 手にしたそれを握りしめるたび、胸の奥が締め付けられ張り裂けそうになる。でも、ずっと手放したくない。私を守って、私を遺して、逝ってしまった人。

 どうして――。そんな疑問は、流し続けた透明な雫に溶けて消えた。それでも心は手に入るはずのない何かを求めて、出口のない迷路をさまよい続ける。


 ――こんなとき、「あの人」がいてくれたら――。


 瞳を閉じて、冷たい色の温かい光を心に浮かべた。

 瞳を開けると――。


 ”――呼んだか、空”


 青白い光の霧が、人の形をなして宙に浮かんでいた。


 「……ティア!?」

 素っ頓狂に叫んだ空は、近所迷惑になるのを思い出して口をふさいだ。

 「ど、どうして?あの装置に閉じ込められてるんじゃ……」

 ”君達の技術では、量子的に私の構成体を有限領域内に留めておくことは不可能だ”


 どうやら”彼女”は多少の厚さの物体なら通り抜けることができるらしい。全部がすり抜けるのではなく、一部が外へと”しみ出す”ように。


 「……だからあのとき、私を助けてくれたのね」


 連絡橋の上から死の淵に吸い込まれる命を救った、力を宿す青い光。

 その力は今、かけがえのない守護者の姿となって少女の隣にあった。


 ”都市空間に分散した私の構成体の一部が、君が私を必要としているときの思考パターンを感知した。現在周囲に脅威は検出できないが、何か問題があるか?”

 「……眠れないの」

 うっすらと明いた憂鬱な瞳が手元を向いた。

 「会いたかった人に会えたのに……会えなかった。会えないって分かってしまった。分かってたつもりだったのに」

 握った手の中で銀色のプレートが転がる。

 ”人間が睡眠と呼ばれる休止状態に入るための条件……身体活性の低下、思考状態の安定。後者が満足されない状態であると推定される”

 「……そう。落ち着かないの」

 満たされない心を満たす何かを求めて、手を差し出す。

 「……握って?」


 青い光の手が、少女の白い手に重なる。

 実体感はなかった。それでも温かい感覚が手の平に伝わった。


 空は静かに瞳を閉じた。彼女の心拍数が減少して思考が安定している――”安心”しているのが、セレスティアには認識できた。

 空の意識が心地よいまどろみの中に沈もうとした、そのとき。

 静かな温もりが、彼女の全身を包み込んだ。

 「…………!!?」


 驚いて目を開けると、彼女の視界は光に包まれていた。


 少女を抱擁する守護者の光。


 「っ……ティア……!?」

 あおい流麗な輪郭が、ぴったりと寄り添っている。

 間近で見るまで気付かなかったが、戦闘のときの鎧をまとった姿ではない。より人間そのものに近い姿。


 ”思考状態の安定度が君と私の接触面積に比例すると仮定して、安定度を最大化することを試みたが……逆の作用が認められた。精神状態の混乱と心拍数の――”

 「ティアの、ばかっ」


 頬を伝った最後の雫が、青い宝石の輝きを放った。




 翌朝の学校。


 普通の日常に戻ってきた実感がなくて、教室へ向かう足取りはどこかふわふわしていた。

 でも、昨日までの臆病な自分とは違う。この人が、一緒だから……。

 空は首から下げた識別票ドッグ・タグをぎゅっと握り、セーラー服の内側に仕舞った。


 「みぃーつけた」

 不意に後ろから肩をつかまれた。いつもの棘のある声――飛鳥井あすかいほたるだ。

 獲物を狩る豹のような眼光が、空の背丈ほどの高さから見下ろしていた。

 「生きとったんやな」

 一言を発するたびに茶色のポニーテールが揺れた。

 取り巻きの女子たちがくすくす笑う。

 「シェルター探してもおらへんかったから、宇宙人にやられたんかと思ったわ」

 「ははははははっ」

 悪意のこもった笑いが空に突き刺さる。

 こういうのはもう慣れっこだ。慣れっこだけど、もう、我慢できない。


 「いいかげん、そういう言い方――」

 「やめなさい」


 言い返そうとしたそのとき。

 後ろからの声に振り向くと、田中先生がいた。


 「先生!無事だったんですね!」

 空の一言に蛍が違和感を持った。

 「無事だった……?」

 「昨日は逃げ遅れた瑠璃光と一緒にシェルターへ向かっててね。途中で上層の崩落に巻き込まれたけど、この子がとっさに体を押してくれたおかげで、大した怪我もせずに済んだんだ。本当に命の恩人だよ。ありがとうな、瑠璃光」

 「どういたしまして……」

 ほんとは、ティアのおかげだけどね。

 「さあ、もう授業が始まるから急いで」

 空たちは先生の後ろについて教室へと入っていった。

 ただ一人、怪訝そうな顔をした蛍を除いて。

 「あいつが先生の……命の恩人?」




 放課後。空手部の道場に、床を踏み込む重低音と威勢のいい掛け声が響き合う。

 真っ白な道着に黒帯を結び、蛍は普段どおり稽古に汗を流していた。


 前に立つ先輩の構えた手に最後の蹴りを入れる。

 足の甲と手の平が鋭い音を立ててぶつかった。

 「オッケー、今日は一段と気合入ってるねぇ」

 「……あざっす」

 上がった呼吸を整えて、額に浮かんだ汗を拭った。


 体とともに冷めていく思考。

 その脳裏に、昨晩の記憶が蘇るる。


 少女の表情が不機嫌に曇った。


 『この家をほんまに支えとんのは誰やと思っとるんや!!』

 『アンタこそ、毎日飲んだくれて帰ってきてきて、何もせえへんやないの!!』

 『何様のつもりや、ロクに飯も作らへんくせに!!』

 『アンタに作ったる飯なんかないわ!!』


 家に帰っても、学校で皆と薄っぺらいやりとりをしていても。

 誰も本気で私の心配なんかしてくれない。あの人以外は……。

 やり場のない気持ちに、奥歯を固く噛み締める。


 「……ヤーーッ!!」


 頭の邪念を振り払うように、拳を突いた。



 街の明かりが人工の夕日に変わる頃。

 図書館で自習を終えた空は、家路につこうと廊下を早足で歩いていた。

 ふと、聞き慣れた棘のある声を耳が捉えた。反射的に身構えてあたりを警戒する。

 かすかなその声は、普段は近寄らない指導室のほうから聞こえてくる。聞いているうちに、いつもの威圧的な感じとは声のトーンが違うのに気付いた。


 無垢な好奇心が、空を声のする方へと向かわせた。




 わずかに開いた扉のすき間から中をのぞくと、机を挟んで座っている二人。

 「……別に決めつけてるわけじゃないんだ。ただ、君が瑠璃光にきつく当たってるのは、前から気になってて」

 自分の名前を口にしたのは田中先生。その目の前でうつむいているのは蛍。いつも空に向けているのとは違う、鬱々とした表情だった。

 「……先生はあの子のこと、どう思っとるん?」

 「どう、っていうのは……?」

 「あの子のこと、親がおらんからって特別扱いするな言うけど、特別扱いしてんのは先生のほうやろ?かわいそうやから、他の子より優しくしてあげてるんやろ?」

 「それは……彼女は頼れる大人がいないから、気を配って見てやる必要があって……」

 「結局はそういうことやん……先生はなんも分かってへん!」


 ばんっと両手を机に叩きつけて、蛍は席から立ち上がった。


 「父さんは毎晩酔っぱらってるし、母さんは怒ってばっかやし、ウチのことなんかぜんぜん見てくれへん……!」

 机を押しのけて一歩一歩近づく蛍。その鬼気迫る表情に、先生も思わず立ち上がる。

 「ウチやって、いやウチこそ、先生しかおらへんねん!!雰囲気たよりないくせにお説教くさいけど、そうやって気にかけてくれて、ちゃんと面倒見てくれて、そういう人は……先生しか……!」


 スーツの胸板にうずまった顔から、声にならない声が漏れた。


 「ウチがあいつにちょっかい出しとんのも、べつに本気でいじめたいわけやなくて、そうしたら先生に注意してもらえるから、気にしてもらえるから……。あいつには悪いってわかってんねん、でもどうしても、先生に振り向いてほしくて……!」


 扉の向こうで、空の丸い瞳がさらに大きく見開いた。


 先生も一瞬どうしていいか戸惑っていたが、彼女の震える肩にそっと手を置いた。

 「飛鳥井」

 先生は泣きじゃくる蛍の両目をしっかりと見定めた。

 「そんなことしなくたって、先生は飛鳥井の味方だ。そして、瑠璃光の味方で、生徒全員の味方だ。君のことは僕がしっかり見ているから。だから、瑠璃光にはちゃんと謝ってきなさい」


 涙をたたえた蛍の瞳に、光が差した。


 そのとき。

 ガタン、と響いた小さな音がその場の雰囲気を蹴飛ばした。


 扉にかけた空の手が、無意識のうちに扉を開けてしまっていた。

 濡れた鋭い眼光が音の方向を睨みつける。

 慌てて走り去る空の足音。蛍はそれを追いかけて、肩に置かれた先生の手を振り払った。


 揺れるブラウンのポニーテールと、宙に放り出された涙が、ひとすじの軌跡を作った。




 校舎の裏手、少し距離を置いて壁にもたれかかる蛍と空。

 「……ウチが先生と話してたこと、どんくらい聞いてたん?」

 蛍が少しおずおずしながら切り出した。たぶん最後のほうだけ、と空が返した。

 「ウチの親、昔から仲悪くてな。喧嘩ばっかしとるから……家におるだけでピリピリして、でも出ていくわけにもいかへんし」

 そらしたままの瞳に、いつもの勝気な輝きはなかった。

 「ウチからしたら、アンタが自由に見えるんや。ストレス溜まる家族関係もないし――」

 「それは、違うよ……」

 「わかっとる!!」

 自分に言い聞かせるように叫んで、蛍が空に向き合った。

 「世話してくれる人がおらんのはツラいことやって、自分でもわかっとるんや。でも、でも……自分を見てくれるはずの人に見てもらえへんツラさより、最初から見てくれる人がおらんツラさのほうがまだマシなんちゃうかって、そう思ってしまう自分がおって……」

 「……それは、違うよ」

 うつむいた瞳を、見上げる空の眼光が射抜いた。

 その鋭さに、蛍がはっと息をのむ。

 「私だって、あなたがどんなに辛いかなんて正直分からない。でも私には……私にとって一番大切な人がいないの。どれだけ願っても戻ってこない、世界で一番私を大切にしてくれる人が!」

 見据える黒い瞳が輝いて見えるのは、言葉でもなお伝えきれない想いが溢れ出そうとしているからか。小さな少女の気迫は、見下ろす蛍のそれを上回っていた。

 「あなたも本当は一人なんでしょう。私、わかるの。誰にも言えない気持ち抱えて、苦しくて……!」

 「あんたなんかに、同情される筋合いは……!!」

 蛍が空を壁際に追いやり、壁に手をつく。それでも空の瞳は揺るがなかった。

 「あなたも私も誰かを必要としてる!だから……私だけ一人にしないで!」


 蛍の体を予想外の力が包み込んだ。

 白いセーラー服を抱きしめる、か細い両腕。


 いきなり懐に飛び込まれた蛍は拍子抜けだった。どうしていいか分からないまま、ただ手の置きどころに迷っていた。




 同じ気持ちなのに分かり合えないなんて、悲しすぎるから。

 お願い……伝えて、ティア!


 涙を散らして見開いた瞳。その中に、蒼い光の輪が宿る。




 空と蛍を、淡い光が優しく包みこむ。

 漂う光の粒に乗って、ひとり閉じ込めていた記憶が、二人の記憶になってゆく。


 蛍の感覚に映し出される、記憶の映像ビジョン




 青い閃光の柱をバックに、立ち往生した車列を飲み込み、押し流す灼熱の溶岩。

 割れた車の窓から必死に自分を押し出す、母の腕。

 小さな自分だけが救助隊員の腕に抱えられ、上空の救難ヘリに吊られている。

 「おかあさん!!」

 最後に握った煤だらけの優しい手は、音もなく力尽きた。




 「あの子にも早く引き取り手を見つけてあげたいけど……」

 命からがら避難した先は、仮設の児童擁護施設。

 「この状況じゃ自分達が生きてくだけで精一杯さ、どの家庭も」

 ドアの向こうから聞こえてくるのは、囁かれる無情な現実。

 少女は職員室のドアに付けていた耳を離し、やるせない溜息を吐くしかなかった。




 ”……もう時間だから、お話はこれでおしまいだ”

 「……行かないで」

 ”じゃあな。頑張って、生きろ。空”

 「行かないで!!」

 識別票に遺された、父の最後の言葉。青い画面に映し出された精一杯の笑顔。




 蛍に伝わってゆく空の「記憶」。押しつぶされるような胸の痛みが、張り裂けそうな心の叫びが、まるで自分が体験したかのように、圧倒的な情報量と実体感をもって流れ込んでくる。


 「……何なんや、今の……こんな……こんな……っ……!!」

 受け止めきれないほどの感情が、呆然と開いた蛍の眼から頬に流れた。

 「……私にも分かる……あなたの苦しみが……」

 空もまた、光の中で共有された蛍の記憶を辿っていた。


 「……ごめん……ホンマにごめん……なんも知らんと、知ろうとせんと、ヒドイことばっかり言うて……!」

 「いいの、私も……ずっと一人で育ったから、人との付き合い方が、よく分からなくて……」


 それ以上は何も言わず身を寄せあう二人の少女。光の霧はしばらくそれを見守るように包んでいた。やがて二人の感情が収まるのを見届けて、静かにフェードアウトしていった。




 ありがとう、ティア。




 どういたしまして、という声が、聞こえた気がした。




 次の日の朝、登校した空は蛍に呼び出されて指導室の前にいた。

 蛍は少し恥ずかしそうに話しはじめた。

 「……昨日、勇気出して親に言うてみてん。ケンカばっかしとらんと、もっとウチのこと見てって。そしたらもうせえへんって約束してくれた。ホンマに守るか怪しいけど。おとんもおかんも、ほんまはウチのこと大事なんやなって、分かった気ぃする」

 「ほんと?よかったね!」

 見上げたのは、混じり気のない天使のような微笑み。


 その笑顔に、蛍の頬が赤くなった。

 (この子、こんな顔するんや……。守りたい笑顔っちゅうのはこういう……って、何考えとんねんウチ)

 

 「カツアゲ中しっつれーい。もうすぐホームルーム始まるから、先生が戻ってこいって」

 いつもの取り巻きたちが廊下の向こうから声をかけてきた。

 「カツアゲちゃうわ!それより、アンタらも今日からこの子のこと、とやかく言うのナシやで!!」

 空の肩をつかんで自分の前に立たせる。傍から見るとさながら妹分を守る姉御だ。

 「お?どうしたぁん?なんかあったん?」

 「べつになんもないから!な!」

 「ふぅーん。じゃ、おっさきー」

 駆ける足音が廊下を去っていった。


 「……はよ戻ろか。先生も、ウチらのこと心配しとるから――」


 そのとき、真上のスピーカーから警報音が鳴り響いて二人は肩を縮めた。


 ”ただいま、地下京都市全域に避難警報が発令されました。市民の皆さんは落ち着いて……”


 「警報!?とりあえず教室へ……」

 蛍は空を連れて行こうとしたが、その目に映ったのは玄関のほうへ猛然とダッシュする小さな後ろ姿だった。


 走る少女の瞳には、再び使命の光が宿っていた。

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