第10話 ごはんをつくる、ということ

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 バスを降りて夕暮れ時。

 次のバスくらいありそうなもんだけど、おばあさんを疑うのも野暮だ。

 日が暮れて夜空に変わるよりも、雲行きが怪しくなる方が早かった。

 一雨くるんじゃないか、って思った時にはもう遅く。


 おばあさんと千愛(ちあ)が仲良くお互いの荷物から折りたたみ傘を出している中、そんな発想がなかった俺は二人に大層笑われたりもした。

 千愛の傘に入れてもらってだいたい十分ほど歩いた山の中におばあさんの家があった。


『日下部』


 表札には名字の下に大吾郎、ナツと書かれている。


「ふう……年々、街へ買い物に出るのが億劫になるね。ちょっとお待ち、今電気をつけるからね」


 暗く冷たい家に明かりが灯る。

 おばあさんを出迎える声はない。静かだ。おばあさんの立てる足音がやけに大きく響いて聞こえる。


「コウ、荷物置かせてもらったら?」

「あ、ああ」


 うん、と頷きながら見渡してみた。

 蛍光灯は明るい。眩しすぎるくらいに。

 だから見えてくる――掃除は行き届いているけれど男物の靴がない玄関や、古民家の玄関から襖を開けて見える居間にある神棚のおじいさんの写真が胸に刺さるようで。


「お風呂入れるからね。お嬢ちゃん、先に入っちゃいなさい」

「すみません。何かお手伝いすることありますか?」

「お客さまを働かせるかい。まあ……どうしてもというなら、出てきてから料理を手伝っておくれ」

「わかりましたっ」


 妙に聞き分けがいい。初対面の人なのに物怖じせず、むしろどこか嬉しそうに頷いて、千愛はおばあさんの案内を受けてお風呂場に荷物片手に行ってしまった。

 取り残された俺は、視線のやり場に困って――おじいさんに頭を下げつつ、靴を脱いで家にあがる。


「おじゃま、します……」


 木の床がつるつるで落ち着かなくて、開きっぱなしの襖の向こうに誘われるように居間へ。


 壁沿いにある棚には、あのおばあさんと神棚のおじいさんが一緒に写っている写真や、おばあさんの子供やお孫さんらしき大勢との写真が飾ってあった。


 そうか……おじいさん、死んでるんだ。


「なんちゅう顔してるんだい」

「え、あ」


 丸テーブルに寄り添うように座布団を置かれた。


「待ってな、お茶だすから」

「す、すいません」

「み、だ。すみません」


 仏頂面で睨まれると、訂正しろってノリにむかつくよりただただ怖い。


「す、すみません」

「よろしい。髪ふきな」


 背に回した手を差し出された。

 白くて綺麗なバスタオルが握られている。


「……どうも」

「お茶請け出すより、ご飯の用意しないとね。あんた、嫌いなもんは?」

「ないです」

「はあ……お嬢ちゃんの言った通りだね」

「あいつ、なんか言ってましたか?」

「ピーマンとかセロリが苦手だけど、絶対言わないのでよろしくお願いします、だとさ」


 くっ。殺せ!

 何もかも千愛の予想通りか。でもしょうがない、事実だ。

 だからこそ恥ずかしくてたまらないんですけど!


 もだもだしている内に、おばあさんは居間に置かれた電子ポットを使ってお茶を用意してくれた。


「……さて、ほら。これでも飲んで待ってなさい」


 湯飲み受けの上に置かれた湯飲み、そして急須。

 やることもないし思いつかないので、大人しく座布団に腰掛けてお茶を湯飲みに注ぐ。

 湯気と一緒にのぼる日本茶の匂い。

 早速飲もうと思ったんだけど、湯飲みに触れて断念。すげえ熱いんでやんの。


 貸してもらったバスタオルで髪の毛を拭きながら部屋を見渡す。

 ……おばあさん、一人になってどれくらいだろう。


 だとしても、うちとは違う。

 細かいところを見ても、うちにある埃の塊みたいなもんは一つもない。


 それって、どういうことなんだろう。

 悩み、谷底へ落ちていこうとする思考を引き上げたのは、離れた部屋から聞こえる水音と包丁がまな板に当たる心地いい音だった。


 うちなら、母さんと千愛だけが立てる音だ。

 俺はもちろんだけど、料理下手な親父もああはならない。


 とんとんとんとんとん。


 何気ない音なはずなのに、かけがえがなくて……手の届かない音。


 いてもたってもいられなくて立ち上がり、音の鳴る方へと足を進める。


 辿り着いた場所は台所で、いたのはおばあさんだ。

 当然だと思ったし、何考えてんだ俺、とも思った。

 なんだか猛烈に気まずくなって離れようと思ったら、木の床がぎいいと音を立てた。


 ふり返ったおばあさんは、少し驚いたようにメガネ向こうの目を見開くと、


「なんだい。手伝いたいのかい? なら大根を洗っとくれ」

「いや、その」

「邪魔するってんなら、ただじゃおかないよ」


 物凄く鋭い眼光だった。

 ひょっとしたら、包丁を向けられるより迫力あるんじゃないか?


「て、手伝い……ます」

「だったら早くしな! シンク前に立つんだ」


 あわてて水が流しっぱなしになったシンクの前に立つ。

 木のざるの上に、土まみれの大根が置いてあった。

 とりあえず手にとって……で?

 手で撫でればいいのか?


「違う! タワシを使うんだよ!」

「え、でも」


 そんな乱暴な。


「しっかり擦って泥汚れを取るんだ。ほらさっさとしな!」

「は、はあ」


 置いてあるタワシを手にとって、ごしごしと擦る。

 ……案外取れないな。

 もっと強くやっていいのかな? ――……いいみたいだ。


「それが終わったら、次はゴボウだよ」

「うす!」

「臼なんてないよ、返事ははいだ!」

「は、はい!」


 千愛よりよっぽど押しが強いし、妙に逆らえない。

 お風呂を堪能した千愛が出た頃には仕込みが終わり、俺はくたくたになっていた。


「わ、すごい。もう準備できてる! お味噌いいにおいー」

「うちで作ってるんだよ」

「ちょっと味見させてもらってもいいですか?」

「しょうがないねえ、こっちきな」


 準備にひたすら使われつつもやりとりをした俺なんかより、千愛の方がよっぽどおばあさんに馴染んでやがる。

 げせない。なぜに。


「わ。わ。形悪いけど美味しそうな野菜いっぱいあるじゃないですかー!」

「形が悪いっていうのは余計だよ」

「ぬか漬けとか美味しそう!」

「なんだい、食べたいのかい?」

「あるんです? ……なんて、実は期待しつつ聞いちゃいました」

「まったく……しょうがない子だよ」


 笑い合ってる。

 なぜにそこまで仲良し。

 挙げ句の果てには、


「そろそろ煮えたね。坊主、準備しな」

「はい」

「坊主、器をもってきな」

「はい」

「坊主、シンクの下にぬか漬けのツボがあるから、中からキュウリとニンジンを出して、ぬかを洗い落として切ってきな」

「はい」


 アゴで使われる始末なんですけど。

 千愛も妙に微笑ましい顔で見守る体ですし。


「お前も手伝うんじゃなかったのかよ」

「坊主!」

「は、はい!」


 おばあさんに怒鳴られると抗えない。

 ひたすら走り回ったせいか、飯の準備が出来た時にはもうね。疲労困憊。


「よし、じゃあ食べようか。えー……お嬢ちゃん、あんたなんて名前だったっけ?」

「あ、まだ名乗ってないです。千愛って言います。雪野千愛」

「ふうん……最近の子はけったいな名前が多いねえ。うちの孫よりは呼びやすくていいけどね」


 あはは、と苦笑いする千愛から視線を俺に向ける。


「坊主は……坊主でいいね」

「ひでえ」

「嘘だよ。なんていうんだい」

「コウです。鷹野コウ」

「あたしの名前は日下部ナツってんだ。お嬢ちゃんたち二人が駆け落ちしなきゃ出会えなかった縁だ。今日はたんと食べとくれ」


 俺の名前スルー!? と思ったけど、まあいいや。

 正直腹ぺこだ。それに……やばい。


 準備をしている時に教えてもらった、ナツおばあさんのお隣さんが釣ってきたアマゴって魚の塩焼き、大根下ろし添え。

 大根の煮浸し。ふろふき大根。大根ばっかりじゃねえか、と思いきや、俺が切ったせいで具が歪の豚汁とかある。

 ツボから出したぬか漬けは人参とキュウリ。取り出すときの感触はやばかったけど、こうして食卓に並んでしまえばただただ美味そうだ。

 お米は大盛り。ナツおばあさんにもっとよそいな、男の子だろう! って言われて漫画みたいな盛り方になっちまった。

 他にも俺のよく知らない(ただしナツおばあさんはもちろん、千愛も知っているであろう)野菜たちの天ぷらてんこ盛り。


 これだけ食えるのか。いいや食べますとも!


「いただきます!」


 箸を付けて口に運ぶたびにもうね、歓喜。魚の内臓とか無理だと思いきや、そういうグロいものはなし。なので遠慮なくぱくつける。それがよくなかった。


「食べ方が汚いねえ、まったく! いいかい? 魚はねえ、身の半分に箸を――」

「うへえ……や、やります。やりますから睨まないで!」


 即座にだめ出しをするナツおばあさんにあれこれ手ほどきを受けながら食べる羽目に。

 ああでもないこうでもないと世話を焼かれながらの食事は――なぜかな。

 さっきの食事の準備とかと一緒で、実は全然いやじゃなかった。


 こういう、世話を焼かれるみたいな感覚。

 随分久しぶりだったから。


 ……そういや、母さんにも結構怒られてたっけ。


 胸の内で漂う、もやもやとした何かが少しだけ晴れた気がした。


「聞いてんのかい!」

「聞いてます! 美味いですね、どれも!」

「当然だよ。あんたが手伝って作った飯だ。うまくなくてどうする」

「ですね! ……そうですよね」


 言い返すときにはもう、俺は笑っていた。


 随分、いろんなことが見えなくなっていたんだな。

 少し前までなら受け止めきれなかった気がする事実は、胸の底まで心地よく浸透していく。


 たまらず千愛を見た。


「……な、なに? 食べてるところ見つめられると困るんですけど」

「ありがとな」

「な、なによ急に」

「なんでもねえ。ナツさん、ご飯おかわり!」

「てめえでよそってきな!」

「はい!」


 立ち上がって台所に向かう背中に、


「どうしたんだろ。妙に上機嫌なんですけど」


 不審げな千愛の声と、


「さあね」


 楽しそうなナツおばあさんの声が聞こえるのだった。




 つづく。

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