三十路危機

「では本日の講義は以上。 

 もうすぐ期末考査の時期に入るが、

 その前に中間のレポートを出していない生徒は来週までに必ず提出するように。

 それ以降の提出は一切受け付けない」


 梅雨が明け、そろそろ期末考査のテストを作成しておかねばならない時期に入ってきた。花壇で賑わう花にもナメクジが少なくなってきた。これから本当に暑い季節が来るのかと思うと、正直講義など放り出して有給を使って北海道にでも行きたいものだ。

 

 セミだった頃、まだ人間になりたての頃は夏の暑さは何ともなかった。どの人間も大抵そうらしいのだが、子供というのは夏になると走るらしい。私は走りはしなかったが、外へ出かけた際にトンボを追いかける子供をよく見た。この大学に入ってからはそのような光景はあまり見なくなってしまったが、今でも数人の学生が素手で捕まえた虫を私に見せてくれることがある。


「お! ほら教授! クマゼミ!

 最近多いですよねぇクマゼミ。

 でも私このセミ好きなんですよ。

 大きいし綺麗だし、何より鳴き声が他のセミに比べて

 そんなにうるさくない所が人にやさしいですよね!」


 一番よく見せに来るのは紛れもなく時雨君だった。もう彼女が正式に私の助手を務めて二年になろうとしていた。アルバイト助手だった時間を加えればもう三年。よくもまぁ三年もこの職場にいたものだと今でも思う。


 毎年夏になると毎授業前必ずと言っていいほど何かしらの虫を素手で捕まえ私に自慢しにくる。大抵はセミで、特にクマゼミは捕まえやすいらしい。「お前も馬鹿だなぁ」とそのセミに思うこともあるが、数年前まで自分もそんなセミの一種だったかと思うと他人事には思えない。よくあそこで悪魔に拾われたものだ。


「クマゼミねぇ……。

 体が大きいだけで意外と臆病だからな、私はどうも好きにはなれん」


「え、そうなんですか?

 いっぱいいるから強欲なのかと思ってましたけど」


「臆病だから集まるのさ。

 体が大きくても不安だから多く子孫を残そうとする。

 私の中で一番強いのは……アブラゼミだな。

 あいつらは容赦がない。

 誰が鳴いていようと自分を主張するからな、すごい勢いで。

 ツクツクボウシも工夫して頑張ってるが、アブラにはかなわないな」


「へぇ……教授セミに詳しいんですね」


「まぁ、民俗学を研究していると

 どうしてもそういうのに詳しくなることがあってな。

 各地域別の昆虫の分布を調べると

 その地域の生活がなんとなくわかったりするのだ」


 もちろん嘘だ。蝉の分布ごときで人間のことが分かったら、私だって未だにこの分野を研究している訳がない。しかし、あながちこれは嘘ではないかもしれない。生物の環境、生息地を決定するのはその生物自身でもあるが、その理由となるものの中に人間はいるのかもしれない。そうなると、甚だ今の自分が恐ろしく思えてしまう。追いやられる側ではなく、追いやる側になっている自分に。


「よう、媛遥! 暇してるか?」


 この男は最近ノックもせずに私の研究室に入るようになった。相変わらず…と言うより、むしろ3年前よりチェーンが増えている。


忌々しいやつめ。


「お、時雨っちもいるじゃないか!

 いいねいいね!

 よし、飲みに行こう」


「冱露木教授こんにちは!

 嬉しいんですけど、今日少し用事があって……」


「おぉ、それは仕方がない。

 というわけで媛遥、今日はコンパだ!」


こいつの選択肢は二つだ。杉下君が行けば飲み会。杉下君が行かなければコンパ。奥さんに許可を取ったかなどは愚問である。なぜなら、奥さんも来るからだ。夫婦そろって私をコンパに誘いおって、冱露木潤、忌々しいやつめ。その忌々しいやつは私が返事もしないのに今夜の予定、時間と店の名前を楽しそうに話して私にみたらし団子を一つ差し出し帰って行った。


「冱露木教授って、元気ですよねぇ」


「あぁ、なんなんだろな、あいつは。

 人間なのかどうかも怪しいな」


「あ、そういえば、お昼ご飯たまに一緒に食べない日ありますよね」


「安心しろ、別のやつとちゃんと食べている」 


「別の人?」


「理事長だ」


「あぁ……」


 つい最近分かったことだが、初めて4人で食べることになったとき、途中で私と杉下君は生徒の質問に答えるため教授室を出た時がある。その時に二人で話した際に意気投合し、たまに二人で学食を食べているらしい。私も雨井に弁当を作らせるのが普段なのだが、ちょうどその頃から作らない日が増えてきていた。


 学食の方がおいしい私にとってはそれでもいいのだが、雨井いわく、外食ばかりでは栄養が偏ってしまう、とのことだ。栄養が偏ってしまうようなメニューしか置かないのかと問い詰めたら奴は黙って私にみたらし団子を贈呈してきた。


こいつらみな、私をみたらし団子で買収できる男とでも思っているのだろうか。


 最終コマの講義も終わり、私は飲み屋へ行く準備をした。杉下君に明日の授業の予定、今月購入した書物の確認をし、見送りをしてから私は冱露木の指定する場所に向かった。これもいつものことだが、あいつの指定した場所に行くと、大抵は奥さんしかいない。理由は簡単で、あいつが遅れてくるのが日常茶飯事だからである。最悪、忘れているときもある。


「あぁ、どうも円花さん。

 あいつ、やっぱり来てませんか」


「あぁ、岩崎さん、こんばんは。

 えぇ、やっぱり来ていないです」


 さて、以前冱露木を紹介した際にこの方を紹介することを忘れてしまっていた。彼女の名前は、現在は冱露木円花(まどか)、出会った頃は草霧(くさぎり)円花さん。出会った頃から清楚さが伝わる女性で、彼女がなぜ合コンに来ていたかという理由は、実は私と全く同じだったのだ。残念ながらよく話す仲ではあるものの、なぜだか彼女の特徴はこれ以上に話しようがない。そう言う意味でもこの人は不思議な大人の女性だ。


「いつになったら時間を守るのやら……。

 講義だって大抵5分くらい平気で遅れるからなぁ……。

 円花さんも大変ですよね」

 

「いいえ、岩崎さん。

 こう考えればいいんですよ。

 私たちは待ち合わせの時間前に来ることを常識としていますが、

 待ち合わせの時間はあくまで予定であり、

 大体その時間に来れれば問題ないのだと。

 現にあの人は遅れても10分以内には来ますから」


「忘れている場合は?」


「ではこう考えましょう。

 あの人が時間通りもしくは誤差数分でくるのは奇跡で、

 私たちはそんな奇跡の連続に恵まれているのだと」


 ああいえばこうあいつを守るいい奥さんである。これでお酒は円花さんの方が強いというのだから、不思議な夫婦である。大抵飲み会やコンパは奥さんの円花さんがついてきて、つぶれた冱露木を介抱しながら帰るその様子は完璧に親子である。


 つぶれるほど飲む、とは言ったが、やつが飲むのはカシスオレンジやスクリュードライバーなどのカクテルで、ビールや日本酒、ワインを飲むのはどちらかと言えば円花さんの方が多いのだ。私もある程度飲めるようにはなったが、円花さんにはまだかなわない。


そんなことを頭の中でぶつくさ考えているうちに冱露木が小走りでこちらに来た。


「いやぁごめんごめん! 

 服がなかなか決まらなくてさ」


 あいかわらず遅刻の言い訳が高校生なやつである。


 その日集まったのは結局私と冱露木夫婦と、過去に何度か飲んだことのある女子生徒であった。酒を交わし、冱露木の数学講義が始まり、奥さんが傍らで烏龍茶と日本酒を頼み、女子生徒は私と最近暑くなったとか、杉下君のことを話していた。そこへ、思わぬ客がやってきた。


「おやおや、ずいぶん盛り上がってますねぇ」


出来れば聞きたくない声が聞こえ、出来れば見たくない姿がそこにいた。


「おぉ! 理事長! 来ていただけましたか!」


「もちろ~ん! 潤ちゃんのお誘いだも~ん! くるよぉ~!」


 いつからそんな仲になったのか、そこには普段の様相と全く違う理事長がいた。普段理事長は世間一般のテンプレートな服装なのだが、雨井は『オフ用の理事長』と言うのも用意しており、学校業務外ではその格好をしていることが多い。しかし、私から見える雨井は実は雨井のままなのだ。


 以前も言ったように、雨井がどんな服を着ていようと、その服は白黒になってしまう。その対策として、雨井は見ている人の目の情報を力を使って変えているのである。人に使って大丈夫なのか気になったが、人を助けるために使っている訳ではないという理由で、大丈夫なのだそうだ。


 さて、そんな理事長が入ると断然冱露木の話が弾む。無論酒に酔った二人はその後どうなるのかもわからず私の目の前で私の愚痴を言うのだ。そんな時、女子学生が私にこう言った。


「そういえば、岩崎教授って今付き合ってる人とかいないんですか?」


「いや、いないな」


「えー、岩崎教授モテそうだから彼女いると思ったのになぁ」


「おっ!なになに?媛遥の事狙ってんの?」


「えぇぇぇぇ岩崎君狙ってるのぉ? やめといた方が良いと思うよぉ?」


「いえいえ、私彼女持ちの男しか狙わない主義なんで。

 でも、岩崎教授って、彼女いたことはありますよね?」

 

「いや、一度も彼女というものは作ったことはないな」


「嘘!? もしかして昔はモテなかったんですか~?」


何気ない女子生徒の言葉だったが、それは私の心の中の何かを抉り取っていた。


そうだ、私は元々……


「いやいや、考えてもみてよ、岩崎君だよ?

 こんなずっと勉強してて本が恋人みたいな人だよ?

 きっと作れなかったんじゃなくて作らなかったんですよ。

 ったく、そんな性格だからねぇ!

 一部の女子から質問のお葉書とか来るんですよ!

 なんかねぇ、

 『岩崎教授がセミと話してました、病気なのでしょうか』とか、

 『私と話すときより本を読んでる方が楽しそうです。傷つきます』とかねぇ!」


 そう雨井は枝豆を食べながら言った。一同は笑ったが、私だけはどうしても笑えなかった。違う、私は、出来なかったのだ。できなくて、諦めて、早く死にたかったのだ。その後の私は、普段からあまり飲み会で話す方ではないが、黙ってフルーツ盛りばかりを食べていた。時折話を振られても、生返事をしてしまうか、ちゃんと参加するよう雨井に叱られるばかりになってしまった。


 恋愛など、人間になってからは考えていなかった私だが、ふと考えると、もう私はそんな歳だったのだ。飲み会が終わり、各自解散するときに、冱露木が私をもう一軒誘った。


「なぁ媛遥、付き合えよ」


「あら、なら私たちも」


「いや、円花さん悪い、先帰っててくれないかな。

 ちょっと媛遥と大学の講義の話したくて」


「……わかりました。明日の講義までには帰ってくださいね」


 冱露木がいつもと違い、私とまじめな話をしたそうに誘ってきたので、付き合うことにした。冱露木が私を連れてきたのは、大学地下のバーだった。


 ここは元々はなかった場所なのだが、雨井が私の愚痴を吐くところが欲しいがために理事長権限で作ったのだ。少し変わっているのは、オープンが夜中の2時で、クローズが夜明けの5時、たった3時間しか営業していないバーだ。メニューも置かず、知っている人しか注文ができない仕組みになっている。しかし、飲み物の値段はすべてタダで、味はどの酒屋に比べても一番にうまい。つまみもこだわっていて、ここで飲むワインベースとチーズの組み合わせは最高だ。


「媛遥、今日どうした」 


「いや、なんでもない、ただ少し酔っただけだ」


「俺より酒飲んでねぇのに酔ったなんて言い訳通用しねぇって。

 あの子の言ったこと気にしてんのか」


「……」


「まぁな、お前、もうそろそろ三十路だもんな。

 30超えたらお付き合い難しいからな、男は。

 40、50で結婚する男もいるが、その年齢で結婚したら、

 将来生まれる子供がかわいそうだしな」


「……そうかもな」


「お前、独身貫くのか?」


「考えていないな」


「恋愛しろとは言わねぇ。ただ、一人は案外さみしいもんだぞ」


 冱露木のその言葉がひどく突き刺さった。知っている。一人であること、一匹だけ他から離れている寂しさはよく知っている。しかし、ただ一人であることは、きっとそれほど寂しいものではないのだ。好き好んで一人になっているのは、きっと寂しくはないのだ。誰かと一緒になりたいのに、誰とも一緒になれない時が、寂しいのだ。


とても、とても恐ろしく、寂しい。


「冱露木よ、お前はなぜ円花さんと一生を添い遂げようと思ったのだ」


「それは以前話しただろ?」


「そうだが、決め手となる何かがあるはずだ。」


「う~ん、まぁ、今のお前にはわかんねぇだろうし、

 俺もいまいちよくわかってねぇけど、

 妙に心があったかくなる女性が、いつの日かお前の目に前に現れるよ。

 その女性が多分お前が大事にすべき女じゃねぇの?」

 

「心が暖かくなる女性……」


「まぁ、今のお前にはわかんねぇって。そう深く考えるな」


 その一言を境に、冱露木は普段の冱露木に戻った。今自分の講義にいる胸の大きい女生徒の話。しかし好みはやっぱり円花さんであるという話。そこから永遠と円周率の話。おそらく落ち込んだ私を励まそうとしていたのだろう。冱露木はいつもよりカシスオレンジを飲んでいた。クローズの時間まで30分になったとき、冱露木は席を立った。


「うし、じゃあ俺そろそろ帰るわ。媛遥どうする?」


「クローズまで飲んでおく」


「おぉ、そっか。まぁお前ここから家近いしな。

 ま、ゆっくり飲んで行けよ。今日は俺のおごりだ」


 そう言うと冱露木はカウンターに1万円を置き、店を出た。良いやつだが、相変わらず馬鹿な男である。そのお金に甘えることにした私は、もうしばらく飲むことにした。


「お客さん、あと30分ですよ」


「あぁ、わかってるさ。

 バーテン、今日話したこと、理事長にはいうなよ」


「はいはい」


 このバーテンの男を私はよく知っている。このバーで長く勤めていること。得意なカクテルが『バーテン』であること。なによりも、この男は秘密や約束は絶対守るということ。私はよく知るそのバーテンに念押しをし、再び酒を口に運んだ。


「婚活なんてどうです?」


ふと思い出したかのごとく男は言った。


「婚活とは……あぁ、婚活か。

 そうか、俺はそんな歳でもあるのだな」 


「あぁ、もうまた暗くなる!

 いいですか、30歳というのはそろそろ結婚した方が良い年齢であって、

 結婚しなきゃいけない年齢ではないんです。

 人生まだまだこれからと、50歳で結婚する人もいますしね」


「だが世間では私のような人間のことを

 『売れ残り』と表現しているようだが?」

 

「あれは売れ残ったと思った人間が自分のことを

 『売れ残り』と表現しているにすぎませんよ。

 まぁまぁほらほら、物は試しってことで、一度行ってみなさいな」


 そう言うとバーテンは私に『イエス・アンド・ノー』を差し出してきた。


 あまりおいしいとは言えないカクテルだが、その男の小洒落てみた思惑に、私は『イエス』と答えた。

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