天下分け目の西、大坂城の明君

顕巨鏡

天下分け目の西 1600-1641

【1641年までの経過を、のちの世紀の歴史家が記述したもの。】


西暦1600年。関が原は、天下分け目となった。つまり、10年前にやっと統一された日本が、東西のふたつに分かれてしまったのだ。小早川勢が予定どおり西軍につけば西軍、東軍に寝返れば東軍が有利だと見積もられていたのだが、彼らは戦いに参加せず、両軍に停戦するようにはたらきかけた。そこで戦いは引き分けとなり、関が原はそのままふたつの「天下」の境となったのだった。むしろ、古代の不破ふわの関が復活したというべきだろう。愛発あらちの関、鈴鹿すずかの関と合わせた三関線によって、日本は「関西」と「関東」に分かれたのだ。(ここで、「関西」は四国・九州も、「関東」は北陸・奥羽も含む意味で使われている。) 皇室は中立地帯となった伊賀盆地に本拠を置くことになった。


関東では、徳川家康が江戸に本拠を置き、天皇から「征夷大将軍」に任命されて、「幕府」という名の平時軍事政権をうちたてた。幕府は、外国貿易を認可制とし、認可する対象をしだいにきびしくしぼりこんだ。また幕府はキリスト教を禁止した。幕府は三関線で、武器、外国人、キリスト教徒が関東にはいることをきびしくとりしまったが、出ることに関してはきびしくなかった。関東のキリスト教徒は関西に移住することができ、流血は少なかった。伊達政宗がローマに派遣した支倉はせくら六右衛門ろくえもんも、仙台に帰らず大坂に住んだ。


関西では、豊臣秀頼の政権が続いたがその実効支配は畿内にかぎられ、諸大名、堺をはじめとする都市の商人、キリスト教勢力、仏教・神道勢力などが、群雄割拠する状態となった。関東との間には関所があったが、海外との人や物の行き来は制限されていなかった。関東からの移住者と外国人を含めてキリスト教徒は人口の3分の1をしめた。キリスト教会は、キリシタン大名からの寄進などにより、領地を持った。ただし、イスパニアとポルトガルが同君連合であったにもかかわらず不和であり、ポルトガル政権に近いイエズス会とイスパニア政権に近いドミニコ会・フランシスコ会などとは協調しなかったので、30年ほどの間は、キリスト教勢力の権力はそれぞれの教会領地だけにおよぶものだった。


1630年代になって、イスパニアは「日本副王」を送りこんできた。彼はイスパニアの貴族だったが、ポルトガル語に近いことばを話すガリシアの出身であり、たくみにイスパニア勢力とポルトガル勢力をまとめた。副王の政権は、関西で最強の勢力となり、その他の勢力をつぎつぎに保護下に置いた。関西は、完全な植民地ではないものの、半植民地化された、と言える。


しかし1640年、ポルトガルがブラガンサ家の王をたてて独立し、同君連合が解消した。イスパニアから事実上独立していたオランダからの船団もますます大がかりになってきた。イスパニア勢力とポルトガル勢力、カトリックとプロテスタント、西洋人と日本人との争いを、副王の政権は調停できなくなった。副王は、イスパニア・ポルトガルのどちらに従っても他方を敵とすることをおそれ、日本の天皇に忠誠を誓った。


1641年、関西は、天皇のもとで、新しい国の体制をととのえはじめた。その理念は、日本人と西洋人が共存する国、同時代の西ヨーロッパ諸国と対等につながった国だった。

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