二章
『「助けて」
その一言で、正義の味方はやってきます。
でも、正義の味方は、見えないのです。
正義の味方は確かにいます。でも、正義の味方は、黄昏の一瞬の光の中でしか見えないので、いるのかどうかが分からないのです。
正義の味方は、世界中を飛び回り、多くの人を助けてきました。
でも。
たった1人だけ助けられない人が、いたのでした。』
****
「もしもし、あー、高等部普通科の1年Aクラスの小野、小野正義です。今日学校は休みますので……はい。はい。よろしくお願いします」
俺は学校の事務所の留守番電話にメッセージを吹き込むと、携帯をそのままズボンに突っ込んだ。
「終わった? 早くしなさい」
「分かったようっせえな。つうか、お前は電話しなくていいのかよ?」
「必要ないわ。強制力が働く」
「……お前だけにかよ。ずるくねえかそれ?」
「私は世界の管理者だから」
「……あそ」
この会話も既に何回目かは忘れた。
既に朝焼けが出ている時刻にも関わらず、辺りは仄暗い。
「畜生、量増えてねえか!?」
俺が拳を振るうと、影がパァーンッッと破裂して飛び散った。
「そうね、そうじゃなかったら世界は正義の味方を求めなかったもの」
「何じゃそりゃ」
俺はちらり、と目の端に映る川辺を見た。
川辺は草が柔らかく生えていて、ジョギングしても疲れにくいとジョギングスポットとして人気らしい。まあこんな時間に外に出た事なんてなかったから、テレビの押し売りだけど。
そこで朝っぱらからジョギングしていたらしいじいさんとばあさんが、腰を抜かして震えていた。
そりゃそうだろうな。不条理な物は誰だって怖い。
影は、烏のように、ぽこりぽこりと浮き上がり、やがて一斉にこちら目掛けて飛んできた。
俺は身体を大きく捻り、脚と手を同時に振り上げた。
影はこちらに飛んでくると同時に、投げ網のように散らばって、鉤爪とくちばしのような鋭い形の影が、俺の頬や腕、脚を抉る。口の中が鉄の味がするのは、頬が切れたせいか。
「いってえんだよ、畜生!!」
俺は振り上げた脚と手を、影に打ち落とす。
影は膨れ上がって破裂し、最後の恨みとばかりに、俺にべちゃり。と張り付いた後、跡形もなく消えた。
辺りは、影が洗い流されたおかげで、柔らかい色の空が顔を出した。
「あなた、大丈夫?」
ばあさんは一緒に腰を抜かしたじいさんによろよろと駆け寄る。
じいさんはばあさんに支えられて、何とかよろよろと立ち上がった。
「今日の影掃除はこれで終わりのようね」
姫川が、じいさんがばあさんに支えられて立ち去っていくのを見ながら呟く。
「ああ、そうみたいだな。ったく。朝っぱらから働かされる俺の身になってみろってんだよ。影の奴も」
「そう? でもその割には」
姫川はいつもの涼しげな顔で俺を見た。
朝の柔らかい日差しに照らされたその顔は、日頃の横柄で上から目線な態度を知っていても、ドキリとするような表情だった。
俺は思わず背中を仰け反らせる。
「あなた、最近楽しそうよ。気付いてた?」
「……え?」
俺は思わず自分の手を見た。
そう言えば、最初は影を痛い思いして退治しても誰にも感謝されない事に不満を持っていたが、最近はそうでもないな。
単純に慣れただけかもしれねえし、さっさと終わらせたいからなのかもしれねえけど、最近はこういうものだと割り切っていたような気がする。
……楽しいのか?
俺は首を捻る事しかできなかった。
と、姫川がいつもと何か違うような気がした。
まあ、姫川は性根はむかつくが、見た目はそこそこ見てて飽きない奴だけど……。何かが違う。
「所で小野正義」
「なっ……何だよ?」
「あなた、暑くない?」
「はあ? 暑いって……」
そう言えば、暑い。
俺はそこでようやく、俺はずっと冬服だった事を思い出した。
……しまった。
姫川の何が違うのかを、俺はようやく思い出した。
「おい姫川、お前その制服……」
「人って不便ね。衣替えしないといけないんでしょう?」
「ちょっと待て! おまっ! 何でそれを……」
「世界が教えてくれたから」
「意味がわっかんねえよ!!」
ああっ、もう!
俺は頭をガシガシガシと掻き毟った。
……あっそうだ。
俺はちらりと空の色を見た。まだ朝焼けのはっきりとしない空の色をしていた。
俺は携帯電話を取り出してボタンを押した。
「すみません、先ほど電話した小野正義ですけど。大丈夫そうですので、通常に学校に行きます」
****
何かこうして日本離れしたような街を歩くのも久々な気がする。
俺は久々に響く石畳の足音を楽しみながらそう思う。
今日は珍しく早く影退治が終わったから、こうしてまっすぐ学校へ向かう事ができたのだ。
まあ、俺の監視だと称する姫川も一緒だが、こいつも一応はうちの学校の生徒だからいいって事にしておく。
同じ制服の奴らも、姫川以外だと久々に見るなと思う。
薄くなった女子の制服の白いブラウスが眩しい。
俺は冬服のジャケットをひとまず鞄に突っ込み、シャツは腕まくりして誤魔化した。本当ならズボンも夏服に履き替えたかったが、家まで戻って履き替える訳にもいかずにそのまま放っておく事にした。
まあ、正義の味方をするのは大変なのだ。
学校に「体調悪いんで休みます」って電話しないと駄目だし、それでいて親を学校にちゃんと行ってると誤魔化さないといけない。
昼間に影が出てくれるならまだいいが、ひどい時は今日みたいな早朝とか、真夜中とかに、家を抜け出さないといけない。
何で自分がこれを好きでやってるのか、正直自分でもさっぱり分からない。
「あれえ? 正義君? 何よ、男前になっちゃって。おまけに冬服……ねえ?」
あともうちょっとで学校が見える所で、声をかけられて振り返る。
声をかけてきたのは園田だった。
「はよー」
「はよー。なあに、どうしたの? 最近全然見ないと思ったら、かーわいい姫川さんと仲良くご登校?」
園田は、俺の隣を歩いている姫川を興味深そうに見ながら言う。
姫川は少し首を傾げた。
「誰?」
「あー、初めまして。正義君の親友を務めさせていただいております、園田守と申します。Bクラスでも麗しいと評判の姫川さんですよね、お噂はかねがね拝聴しております」
園田は仰々しく手と頭を同時に下げて挨拶する様を、姫川はきょとんとした顔で見た。俺は半眼でつっこみを入れちゃる。
「誰が親友だよ、誰が」
「何言ってるの、親友が奥方のご機嫌損ねないよう影に日向に努力してるのが分からないのかね」
「奥方?」「奥方?」
俺と姫川はほぼ同時に園田に聞き返した。
「って、何でお前が訊くんだよ?」
「……小野正義、あなたまさか結婚してたの?」
「はあ?」
姫川が真顔で言うものだから、俺は園田の奥方発言よりももっと顔を歪めて聞き返す。
「いやいやいや、違うよ姫川さん。でもまあ、事実婚ではあるなあ」
「園田、こいつにお前節で説明するな。話がややこしくなる」
「言っておかないとまずいでしょうよ。世の男は世の女性全てを幸せにする義務がある。隠し事をするのは、幸せを守るためにする権利であって、義務を果たしてない場合は適応されない」
「……」
何で園田が姫川みたいな事言ってるんだ。しかも姫川も真剣に聞いてるし。
俺はこめかみを押さえながら頭痛に耐えた。
「まあ、正義君には事実婚してる子がいる訳なんだよ。君が正義君を構うなら、正義君が二股かけてるとか覚悟しないといけないよ?」
「……」
姫川は少し考えるような顔で頭を下げ、顎に手を当て始める。おーい、もしもし? 姫川さーん?? やがて俺を見た。
「小野正義」
「あんだよ……」
俺は頭の痛くなる会話を聞きながら、髪をガシガシ掻き毟っていた。
「あなたは結婚してはいけない。結婚しているなら今すぐ別れなさい」
「……はあ?」
姫川が真顔でそんな事を言っている間に、校門が見えてきた。
****
「なあ、正義君」
「あんだよ?」
「マジであの不思議ちゃんと付き合ってるとかではないんだよな?」
教室に入り、鞄を机に引っかけた所で、園田が寄ってきて声をかけてきた。
いつもにやにや笑っている園田にしてみれば珍しく、真顔だ。
付き合ってるも何も、勝手に人ん家に住み込んで、俺をこきつかってる奴だよ。そんな奴に愛も恋もあるか。
なんて。
「言える訳ねえしなあ……」
「はあ? 何、正義君?」
「何でもねえよ。でも、マジで姫川とはお前の考えているような甘酸っぱい関係じゃねえから」
「何それ。でも正義君っぽくないなあって思ってさ。だって正義君の世話、いっつも浩美ちゃんがしてるじゃない? 衣替えなら浩美ちゃんが世話してくれるでしょ」
「……あのなあ、園田。お前マジ勘違いしてんだろ。俺と浩美も、お前が考えてるような関係じゃねえよ」
「えー。俺は正義君と浩美ちゃんは高校生にして熟年夫婦の域に達してたって思ってたんだけどねえ」
「んな訳ねえよ」
「じゃあ大人なビタースウィートな……」
「何言ってるのよ、朝っぱらから、この馬鹿っっ!!」
「へぶうぅぅぅ!!」
園田は予鈴の鐘と同時に教室に入ってきた大瀬に、鞄で思いっきりどつかれた。
ありゃ痛いな。
椅子ごとひっくり返った園田を見て俺はそう思う。
「……おはよう」
「あ……はよー」
大瀬の後ろには、浩美が隠れていた。
ああ、そっか。今日は朝の保健室当番だったっけか。
浩美は俺の顔を見た途端、顔をしかめた。
「……マサ君、その頬。どうしたの?」
「あん? 何?」
俺はその言葉に、思わず顔を撫でる。
何かごわごわする。何でだっけと考えてみると、そう言えば朝戦った影のカラスに頬を抉られたような気がする。夢中で殴ってたからいちいち頬の傷なんか気にしてられねえけど。
「怪我……ひどいじゃない。保健室行こう?」
「いや、これくらいどうって事ないって……」
「いいから!!」
俺は浩美の顔をじっと見た。
浩美は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
大げさだなあ。本当に大した怪我じゃねえのに。でも。泣かれたらやだなあ。浩美の事だから、絶対根に持つし。
浩美は俺の腕をきつく掴んで、そのまま保健室へと連行された。
もうすぐホームルームが始まるから、皆教室に入って人がいない中、俺はずるずると人気のない廊下を浩美に引きずられて歩く。
人がいないせいか、腕を掴まれているせいか、俺の前を歩く浩美が震えているのが分かった。ああ、こいつ。また声を殺して泣いてる。
「あのさ、マジで泣くほどのもんじゃねえから」
「泣いてなんか……ないよ」
「いや、そりゃ嘘だろ」
「じゃあ何で私が泣くような事するの!?」
保健室の前について、ようやく浩美がこっちを振り返った。
浩美は鼻を赤くして、目に涙を溜めていた。やっぱりか。
それでもなお、浩美は俺の腕を掴んだまま、保健室の戸を引いた。机に向かっていた九鬼先生が、少し驚いた顔で振り返った。
「あら、音無さんと……小野君? どうしたの、その顔……」
「失礼します。すみません、脱脂綿とテープ使ってもいいですか?」
「大げさだって、そこまでしなくっても……」
「いいから、させて。……先生、いいですか?」
「……」
九鬼先生は困ったような顔で、俺と浩美を見比べた後、カーテンをしゃっと開けた。
カーテンの向こうからは、健康診断の時に使っている椅子とテーブルが見えた。
「棚のものは適当に使っていいから。お話があるならそこでなさい」
「……ありがとうございます」
「あー……すみません。こいつ何と言うか大げさなんですよ」
「あらあら、そんな事言っちゃ駄目よ? 心配してくれる人って言うのは大事なんだから」
九鬼先生はにこっと笑うと、そのまま机に戻っていった。
俺は仕方なく、椅子に座ると、浩美は慣れた手つきでアルコールを染み込ませた脱脂綿をピンセットで挟み、俺の顔を拭き始めた。
大げさだなあ。
既にかさぶたができているから、アルコールもあまり染みない。浩美は血で赤黒くなった脱脂綿を捨て、また新しい脱脂綿で俺の顔を拭く。
「大げさなんだって、本当」
「……どうしたの?」
「えっ?」
「だって、マサ君は昔っから喧嘩とかしないじゃない。運動は誘われたらするけど、基本は全然しないし……。だから、怪我なんてありえない。
最近学校来ないのも変だよ。マサ君要領いいじゃない。だから、出席日数も数えて休むのに、最近は全然来ないから、日数の計算だっておかしいはずだよ?」
「あー……」
そっか。忘れてた。
進級するにも出席日数があるんだったわ。
そうだよなあ。俺は本来き好んで面倒ごとに首突っ込むキャラじゃねえもんなあ。
そう考えていたのが大分昔のように思えたのが不思議だった。
姫川に会ったのだって、影を退治し始めたのだって、まだ1月ちょい前だから、そこまで日は経ってないと思うけど。
いや訂正。経ってるわ。
もうそろそろ期末に向けて山当てしないといけないのに、その事もすっかり忘れてた。
でもなあ。
その事がどうでもいいようにも思えたから。
姫川の事を変人だ電波だと思っているが、どうも俺もその変人や電波の部類に片足つっこんでしまってるらしい。
浩美は、俺が姫川に近付いているから、こうして話がしたかったんだ。
「私にも、言えない事?」
「あー……」
言えるのか? まさか正義の味方活動してます、なんて。
普通は「病院行け」だろ、そんな事言い出したら。まあ浩美だったら「誤魔化すな」かもしれないけど。
俺は浩美の目を見た。
浩美は、細く線が伝う位に泣いて、目は潤んでいた。
このまま泣き続けられるのは嫌かな。浩美はしつこい。
「ごめん」
俺はその一言を出した。
「そうやって誤魔化す気?」
浩美は、予想通りの言葉を出した。
でも、俺は他に言葉が思いつかなかった。
「ごめん」
もう1度、同じ言葉を口にする。今度は返事がなかった。
1限目を告げる鐘がなったが、浩美の嗚咽が止まる事は、なかった。
****
仕方なく、浩美が泣き止むまで保健室にいさせてもらった。
「すみません、先生」
俺は保健室を出る際、先生に謝る。九鬼先生は少し困ったように首を傾げながら、俺と浩美の顔を見比べた。
「まあ私は授業受けないからいいんだけどね。何があったのかは知らないけど……音無さん大丈夫?」
「……はい」
浩美は俺にすがる訳でも責める訳でもなく、ただ泣いていた。今は泣き続けたせいで、目が赤くなり、少しだけ目が腫れぼったくなっている。
俺はどう答えりゃよかったんだろ……。少しだけ考え込む。
正義の味方をしている以外に誤魔化す方法はあったのか? でもあいつ、俺が厄介ごとに巻き込まれているって察してたから、下手な嘘をつくと余計に泣き出すような気がするし。
俺と浩美は、ただ黙って渡り廊下を歩いていた。気まずいって事は不思議とない。俺と浩美の付き合いも腐れ縁なだけあって、割と長かったから。
あともう少しで普通科棟に着く。
その時だった。
「小野正義」
渡り廊下に立ち塞がるようにして立っていたのは、姫川だった。
「姫川……」
「出たから行きましょう」
「おい、今から授業。もう遅刻確定だけど」
「あら何? 今まで学校に行かなかったのに今日だけ都合よく学校を盾にして休むつもり?」
「あっ……あの」
俺と姫川のいつもの言い合いに、浩美は震える声で、口を挟んだ。
「あの……何の話ですか? 最近マサ君……小野君が学校に来なかった事と、関係があるんですか?」
「おい、浩美……」
俺はひやり……とした。
姫川は浩美をじっと見て、少し目を伏せる。
姫川はまさか「小野正義は正義の味方活動をしているから学校を休まないといけない」とか言い出すんじゃないだろうな……。
誤魔化す事は無理でも、オブラートに包んで話を逸らす位は……。
俺は何とか話を換えようとしたが、姫川が口を開く方が早かった。
「……もしかして、園田君の言っていた嫁って言うのは、音無さんの事? 正義」
「えっ?」「おいっ!」
俺と浩美はほぼ同時に声を上げる。
姫川は、目を細めて俺と浩美を見た。
気のせいか、目の端が少しだけ吊り上がっているように見えた。
「行きましょう」
「……」
姫川に促され、ようやく影の事を思い出した。
俺は、隣にいる浩美を見た。
行かなきゃ……いけねえんだよな。
俺はそのまま黙って姫川の背中についていこうとした。が。
腕を、弱い弱い力で掴まれた。
「おい……」
「行かないで」
浩美は、さっきまであんなに泣いていたのに、もう涙を溜めて俺を見つめていた。
俺は、できるだけ浩美が安心するようにと、くしゃりと笑った。俺のキャラじゃねえけど、泣いてほしくはないし。
「すぐ戻るって」
そのまま浩美の手を取って離そうとするが、浩美は首を振る。浩美の肩までの髪が、ぷるぷると揺れた。
「嫌だ……」
「……ガキじゃあるまいし」
「待ってるのは……やだ。事情も分からないで、マサ君がいなくなるのは……」
「……」
そのまま俺の腕にすがりつく浩美に、俺は途方に暮れた。
どうすりゃいいよ。ここで園田だったら口八丁で切り抜けられるだろうが、そりゃ俺のキャラじゃねえよ。
と、俺の腕がいきなり軽くなり、少し反動で俺はこけかけるがふんばった。
少し離れた場所で浩美が、驚いた顔で立ち尽くしている。
……姫川が、浩美を突き飛ばしたのだ。
「音無さん。悪い事は言わない。正義と結婚するのは今すぐやめて、別れなさい」
「えっ……」
「おいっ、姫川、また訳の分かんねえ事言って! それはそもそも園田が……」
俺が姫川に対して文句の1つや2つ言おうとするが、姫川は我関せずと言う顔で、いきなりぐい、と俺の胸倉を掴んできた。
そして、姫川の顔が徐々に近付く。
って、おい!
俺が反抗する前に、俺の口は柔らかいものに触れられていた。
姫川が、無理矢理俺に唇を押し付けてきたのだ。
「ちょっ……!」
俺は思わず姫川を引き剥がそうとするが、姫川が避けて離れる方が早かった。
「行きましょう」
「……」
俺は、立ち尽くしている浩美を見た。
「……ごめん」
それだけを言うと、颯爽と立ち去る姫川の背を追った。
もう、腕を掴んでくる手は追ってはこなかった。
****
もう時刻も10時を回っているはずなのに、辺りは暗い。
俺は、怒りをぶつけるように、影を殴った。今日は影を殴る時の気色悪い感触も、殴ったら晴れると思うと、殴りたくて仕方がなかった。
「よしっ! 終わりっ!」
影がパァーンと音を立てて散り去った後、今まで遮断されていた潮の匂いがむわりと漂った。遠くから船の汽笛の音のする港公園は、本来この時間なら母子連れが一緒に遊んでいる頃だろうが、今日は天気があまり優れないので、俺達を除いて人はいなかった。
「今日はいつもよりやる気があったわね。いつもより早かったわ」
姫川は涼しい顔をして言う。
俺は姫川を睨む。
っつうかなあ、つうかなあ、俺、初めてのキスが、こいつ、しかも浩美を追い返すためって言うのに激しくむかついていた。ああ、俺こんなに女々しかったか? そう考えると、少し悲しいけど。
「朝のあれ、何であんな事したんだ?」
「あれって……どれ?」
こいつは。
俺は少しイライラしながら、仕方なく俺の口を指差した。
「キスだよ! キス! つうか何であんな事を、浩美の前で……」
「ああ、口付けね」
姫川はやっと納得したような顔をした。
そして、いつものふてぶてしい態度で答える。
「音無さんの前だからしたんだけど?」
「はあっっ!?」
ますます訳が分からない。いや、そもそも姫川の行動も言動も訳が分からないのばっかりだとは思っているけど、それはさておき。
「何でだよ!」
「園田君が言っていたわ。音無さんはあなたと結婚していると」
「はあ!? だから何度も言ってるだろ、あれは園田がいい加減な事を言っているだけで……」
「私も眉に唾を塗るような気がしたわ。でも保健室の件で確信が持てた」
「おまっ……まさか、保健室での話……聞いてたのか!?」
「私はあなたの監視よ?」
「~~~~!!」
こいつが女だろうが何だろうが、殴ってもいいって言う倫理観が今の俺にはすごく欲しかった。
俺が怒りを抑えて震えているのを分かってか分からずか、姫川は尚も続ける。
「だから、今すぐあなたとあの子は縁を切った方がいいわ」
「何でだよ!? それが正義の味方だからか!?」
「そうよ」
姫川はぴしゃりと言う。
それが尚も俺を苛立たせた。
意味が分からねえよ。何で、正義の味方が人付き合いまで制限されなきゃならねえんだよ。
俺は震えて口を開こうとしたが。
「傷つくのはあなたよ? 私は正義の味方を守りたい」
「……えっ?」
「……不毛な会話をしたわね。この辺りの影はこれで終わり。次に行きましょう」
「おいっ、今の、どう言う意味だよ!?」
「次の場所は……」
姫川は、これ以上話を続ける気は全くないらしく、何度続きを聞いても答えてはくれなかった。ただ……。
『傷つくのはあなたよ? 私は正義の味方を守りたい』
姫川は横柄で、人の話を全く聞かなくて、強制ばっかりしてくるが。
今の言葉だけには、姫川らしくない、感情が込められていたのが気になった。
少なくとも俺は、姫川と出会ってから、1度しか感情らしい感情をぶつけられた事はない気がする。
そういや。
正義の味方を姫川は選ぶって言ってたけど。姫川の言い方だったら、俺以外にも正義の味方はいたんだろうけど、そいつらはどこに行ったんだ?
漠然とした疑問だけが、脳裏を掠めた。
****
2限目が終わった後、私はようやく教室に入った。顔がひどすぎて、そのまま教室に入る気になれず、ずっと洗面所で顔を洗って、ハンカチを水に浸して目の下に当てて、何とか目のむくみを取っていたけど、たった1時間で、氷も当てずに冷やしたんじゃ、あんまり効果はなかったみたい。
陽菜ちゃんは驚いた顔で私を迎えてくれた。
「おかえり、浩美……どうしたの! アンタその目……」
「ううん、何でもないから、何でも……」
「って、小野は!?」
「……」
姫川さんに着いてどこかに行っちゃったなんて、言っていいのかな……。
私はそれを口にできずにいた。
陽菜ちゃんは目を吊り上げて怒った。
「もうっ! 小野最低!! 浩美がこんな泣いてるのに放っぽってどっかに行くなんて! あいつ最近調子乗ってさぼってたから、アンタが泣いた途端放置プレイとかそんなんでしょう!?」
「ちっ、違うよ、陽菜ちゃん。違う……」
私は何とか否定の言葉を出すけど、陽菜ちゃんは怒って聞いてない。どっ、どうしよう……。
私が途方に暮れていたら、園田君がひょっこりと出てきた。
「何なに? 正義君、姫川さんとエスケープ?」
「馬鹿ぁぁぁ!」
「ヘブゥゥゥゥ!!」
園田君がしゃべった途端、陽菜ちゃんのパンチが園田君に決まった。ええっと……。
私はしゃがみ込んで、園田君を立ち上がらせた。
「ごめん、私がちゃんと説明できなかったから……」
「もう、小野最低じゃん! 浩美放置して姫川とよろしくなんてさ! 地獄に落ちればいいのに」
「わはははは、陽菜ちゃんは想像力逞しいねえ」
「全然褒められた気がしないわよっ」
「そりゃ褒めてないし」
園田君は立ち上がってにこにこと笑った後、私に対しても笑いかけた。
「まああれだよ。正義君の嫁は浩美ちゃんだけだからさ。今は多分、正義君も美人に構ってもらえて、逆上せ上がってるだけだから。いい嫁は、待つのが資本だから。まあ俺らも話聞いてあげる位しかできないけどね、愚痴があるならいつでも言っていいから。
ほら、陽菜ちゃんもあんまりかっかしない、かっかしない。人の家庭の事情はその家じゃないと分からないんだから」
「……園田にしては、珍しくまともな事言うじゃん」
「うん。まあ俺は全女性の味方だしね」
「馬鹿みたい」
「わはは」
園田君と陽菜ちゃんは、なおも言い合いを続ける中、私はさっきの事を思い出した。
姫川さんがマサ君に、どんな意味でキスしたんだろう……。マサ君は特に女の子が好きな訳じゃないし、姫川さんも情がなくそんな事できるのかな……。
結局……。
踏み込むなって警告されたような気がする。
マサ君を何で迎えに来たのかも、マサ君がどこに行ったのかも、結局は教えてもらえなかったし……。胸がつっかえたように苦しい。苦しいけど、どうやって吐き出したらいいのかが、分からない。
そう考えていたら、3限目の鐘が鳴った。
私はちらりと窓の外を見た。私の気のせいなのか、私の今の心境と同じ、曇り空だった。
****
私がぼんやりと窓を見ている間に、気付けば昼休みの鐘が鳴っていた。
マサ君は、やっぱり戻ってこなかった。休み時間のたびにそっとBクラスの様子も見に行ったけれど、姫川さんも戻ってきてはいないみたい……。
正直、全然お腹はすいていない。それに、最近はお弁当を食べても、あんまり味がしない。甘いとか辛いとかは何となく分かるけど、酸っぱいとか苦いとかの感覚がものすごく鈍くなっている気がする。舌がオブラートで包まれているような気がすると言うか……。でも、食べないと午後の授業持たないし……。
私は仕方がなく、のろのろと鞄を漁ってお弁当を出そうとして。
「あっ」
「何?」
菓子パンとペットボトルのお茶を持って陽菜ちゃんは私の机に来たけど、私は手でごめんのポーズを取った。
「ごめん。保健室にお弁当置いて来ちゃった……」
「はあ? 何で保健室にお弁当置いてくるのー」
「うんごめん。朝、保険委員の当番が入ってたから、その時かも……ちょっと取ってくるね」
「私も行こうか?」
「いいよ、すぐ戻るから」
私はそう陽菜ちゃんに謝ってから、保健室へと走っていった。
渡り廊下からは、中庭のあちこちにお弁当を広げて食べる人達や、食堂へと走る人達、購買部でパンやお総菜を買う人達が見られた。
皆和やかに、楽しそうに笑ってる。
……。
――憎ラシイ 皆滅ビタライイノニ――
「えっ?」
突然酷く冷えた声が耳に入り、私は肩をビクリと跳ねさせる。
思わずきょろきょろと辺りを見回したけど、今渡り廊下を歩いている子達は昼休みだから、和やかに笑う子達ばかりで、あんなに冷えた声を出しそうな人は見つからなかった。
何? 今の……幻聴?
日差しは温かいのに、何故か急に、震えが襲ってきた。
どうしよう……止まらない……。
歯が、ガチガチと鳴った。肌が粟立って、寒イボがぽつぽつと浮き出る。私は自分自身を抱き締めて、座り込む事しかできなかった。
そう言えば、この間陽菜ちゃんが、私が透けて見えたって言ってたけど・……。
何で? 何でこんな事ばっかり起こるの?
マサ君だってそうだ。マサ君が、マサ君がいなくなったのは……。
姫川さんだ。
何なの? 彼女さえいなければ、皆平和だったのに。何でかき回すの? ねえ、何で?
――オ前サエ イナケレバ――
また、怖い声が聴こえる。
もうやめて。怖い。怖い。怖い―― !
私がしゃがんだまま、耳を塞いだ時だった。
「あら? 音無さん……? どうしたの、こんな所で」
「え……?」
顔を上げると、九鬼先生が立っていた。
先生は心配そうに私を見下ろしていた。
先生の顔を見た瞬間、不思議とさっきまで寒くて寒くてしょうがなかったのに、寒イボは消え、歯を鳴らすほどの震えもピタリと治まった。
「どうかしたの? 随分と具合が悪そうだけど……立てる? 保健室で薬を出しましょうか?」
「えっと……保健室にお弁当置いて来ちゃったから、取りに行こうとしてただけで……別に具合は悪くないです。はい」
「そう?」
先生は手を差し出してくれたので、私はそれに捕まって立ち上がった。
「私、カウンセラーではないけど、話位なら聞くわよ?」
「先生……ありがとうございます」
私は、先生に連れられるがままに、保健室への道を歩いていった。
****
保健室に入った途端、アルコールや薬の匂いの替わりに、プンとコーヒーの匂いが立ち込め、焼き立てのトーストとバターの匂いもそれに倣って薫った。正確には、おいしい食べ物の芳香で保健室独特の匂いが飛んでいたのかもしれない。
「ごめんね、散らかってて。今日はさぼりに来る子達もいなかったから、お昼奮発しようと思って……」
「はあ……」
先生は自分の机にコーヒーメーカーとトースターを持ち込んで、昼ご飯を作っていたのだ。机の上は、砂糖壷と香辛料の小瓶が散乱していた。
先生は椅子を持ってきて私に進めると、淹れ立てのコーヒーをカップに注いで出してくれた。
「ありがとうございます……」
「それ、おいしい豆が手に入ったから、仕事の合間に飲もうって思っていたの。本当においしいのよ?」
「はあ、いただきます……」
私は先生に言われるがままにコーヒーを一口、口にした。
……おいしい。あんまりコーヒーには詳しくないけれど、素直にそう思った。コーヒーって苦いからミルクを入れないと全然飲めないものだって思っていたけど、考え方が少し変わる位に、いい匂いがして、ミルクなしでもおいしく飲めた。
「……おいしいです」
「そう、よかった。コーヒー屋さんでもあんまり置いてないから、予約して入荷待ちしてたのよ」
先生はそう言いながら、にこにこと笑った。
先生としゃべったせいなのかな、コーヒーをもらったせいなのかな。さっきまで手を掴んでもらわないと立てない位に力が抜けていたのに、今はいつもの感覚に戻っている。
「先生、ありがとうございました……」
「あら、私は何もしてないわよ? ただコーヒーを出しただけ」
「それでも……嬉しかったんです。ありがとうございます」
「……音無さん」
「はい?」
先生の口元からは、笑みが消えた。
メガネは逆光で光り、先生の表情が分からなくなる。
えっ?
私は怖くなって、思わずコーヒーカップをそのまま机に置こうとして……気が付いた。
カップが。まるでCGのシュミレーションで浮いているみたいなのだ。そして、カップを持つ手から、机や砂糖壷や、香辛料が、透けてみえる……。
私は思わずカップから手を離した。カップはカチャン。と言う音を立てて床を転がった。私はそのまま、恐々と、手を広げた……。
手が……透けてる?
陽菜ちゃんが言ってたのって……もしかして、これの事……?
「嘘っ……何で? 何で?」
「……音無さん、あなた。もしかして世界の管理者に関与されたんじゃないの?」
「えっ?」
先生が何を言っているのかが分からなかった。
『セカイノカンリシャ』って、何?
「……私も、あなたと全く同じ状態になった事があったから」
「? 先生も、私みたいに、透けたり、幻聴が聴こえたりした事があるんですか……?」
「幻聴……音無さんはどんな声を聴いたの?」
「……とても怖い声で、『世界なんて滅んでしまえ』とか『お前さえいなければ』とか……。とても怖かったです」
「そう……」
先生は少し顔を伏せた後、そっと自分の手を撫でた。先生の撫でたのは、左薬指に光る、指輪だった。
「このままだと、あなたは世界の強制力で消されてしまうわ」
「えっ……?」
消される……? 何で? 嘘……。
嘘と信じたかったけど、現に手は透けている。両手を広げると、両手が透けて、向こう側に見える白いベッドやカーテンが見えるのだ。
嘘なんかじゃ……ないんだ。
「消えたくなんか……ないです」
「ないでしょう?」
先生は心底心配そうな声で、私の頭を撫でた。
先生に撫でてもらった場所だけは、透けないで確かに、「ここにいる」気がした。
「少し、昔話をしましょうか」
先生が言葉を語るたびに、私の頭を撫でるたびに、匂いが1つ、また1つと消える気がする。さっきまで飲んでいたコーヒーの匂いも、パンの匂いも、何もかも……。
先生は、1冊の本を持ってきた。装丁が綺麗で、ピカピカ輝いている本だ。
先生が、ゆっくりと、中身を朗読し始めた――。
****
「ふわぁぁぁぁぁぁ――」
俺はあくびを噛み殺しきれず、長く大きなあくびを1つした。
結局、昨日久々に学校に行ったのに、そのままフケて、姫川にこき使われるまま、影を延々と退治して回った。
ほとんど寝てない内に夜が明けたけれど、身体はあんまり疲れていなかった。ただ、眠い事には眠い。
「……変だわ」
「ああん?」
姫川は、学校の門を潜った途端、ぼそりと呟くので俺は姫川を見る。
姫川は真っ直ぐに空を見上げるので、俺も思わずそれに倣うが、特に何の変化もないように思えた。
「何だ? 特に変な所なんて……」
「おかしいわ。校内に影が見当たらない?」
「えっ? だってそれはお前と初めて会った時に退治して……」
「前に言ったはずよ。影は世界の防衛本能で、あなたに退治してもらっているのは増え過ぎた分の影だって。適正量の影は放置しているはずなのに……影がどこにも見当たらないなんて変よ」
「あん?」
俺はきょろきょろと辺りを見回した。
「今日当てられるんだ、ごめんっ、宿題見せてっっ」
「アンタ前もそう言ってたでしょ? 駄目だよ自分でやりなさい」
「そんな事言わないでぇぇぇ!」
「昨日のドラマ見た?」
「見たぁ、もうあそこで続くかって……」
登校時間らしく、同じ制服の奴等や、大学部で高等部の敷地で授業を取っている奴等が、今日の授業の事や、昨日のテレビ番組の話をして校門を潜り抜けていく姿が見える。まるで、影の影響なんて全くないように。
……そう言えば、最近ずっと感じていた、肌がざわざわとする影を見つける感覚が、ここにはない。……そんなもん分かるって事は、俺も相当慣れてきたって事かと、自分で自分に笑えて来るけど。
「私は調べてくるわ。何かあったらあなたに知らせるから」
そう言って、姫川は文字通り忽然と消えた。
……何でもいいが、姫川が消えても、大して誰も驚かない。
俺はもう慣れたせいか全く疑問に思わなくなってきたけど、姫川が消えても誰も驚かないのは何でなんだろうと思う。
いや、あいつが俺の質問に親切に答えてくれる事なんて滅多にねえけど。
「まあっ、いっか」
仕方なく教室へと向かおうとした時だった。
いきなり背中を思いっきり殴られた。思わず振り返る。
「っいったぁぁぁぁ。テメッ、何すんだっっ……」
「何すんだじゃないわよっっ! 小野、アンタ私の可愛い浩美に何したの!?」
振り返ると、学校制定の本皮のかったい鞄をブンブンと振り回す大瀬が仁王立ちで立っていた。
「っ? 浩美? そういやあいつは?」
「そんなのこっちが聞きたいわよ! 昨日昼休みにいなくなったっきり戻ってきてないんだから! 保健室に行ってないかって保健の先生に訊きに行ったけど知らないって言うし。携帯にいくら電話しても電波が届かないとか言うし! アンタ浩美がどっか行くような事したんじゃないの!?」
「えっ……マジで?」
俺は思わず自分の携帯をポケットから取り出して、浩美の番号を鳴らす。
『お客様のおかけになった電話番号は、現在電波の届かない所にいるか――』
浩美の替わりに、女の人の合成音が出る。
……そう言えば、最近携帯なんて学校に休みの電話する時以外は電源を落としていたし、浩美に電話なんてかけた事なかった。
大瀬は目を吊り上げたまま、一気にまくし立てる。
通り過ぎる奴らは「何、修羅場?」とこちらに注目してヒソヒソ話をするが、それを全く気にもしないで。
「アンタがどこの女とイチャコラしてたって構わないけど、でも1つだけ言っておくわよ! 浩美を泣かしたら、私がアンタを殺すから!」
大瀬は最後に思いっきり俺の背中を鞄で殴った後、走って棟へ行ってしまった。
俺は仕方なく、殴られてヒリヒリする背中を撫でながら、携帯をポケットに突っ込み直す。
あいつは、いつもいつも変に杓子定規で、勝手に学校を抜け出したりも、さぼったりも休んだりもしない。……俺が、あいつにちゃんと言わなかったせいか? 俺が最近行方不明になってた理由を……。でもどう言やよかったんだよ。ああっ、もうっ。
俺がガシガシと頭を掻き毟っている時だった。
「あーらら、陽菜ちゃんすっげえ怒ってたねえ」
俺が髪を掻き毟っている隣を、園田が歩いてきた。
「……大瀬から聞いたけど、浩美、行方不明だって?」
「あれぇ? 君と浩美ちゃんご近所さんでしょう? 親御さんから何も聞いてなかった? 浩美ちゃん、昨日ぱったりいなくなったせいで、陽菜ちゃん取り乱してさ。昨日あっちこっちに電話かけまくってたんだよ? まあ、ただの失恋での家出で捜索願い出されたら、浩美ちゃんそれこそいたたまれなくって家に帰ってこれないでしょ。陽菜ちゃんが親御さん達に直談判しそうだから、それは止めといた」
「あー……悪い」
「まあ、そう思うなら、浩美ちゃんにもうちょっと優しくしてあげたらいいよ? 女の秘密主義はモテるけど、男の秘密主義って嫌われるからさあ」
「んな事言われても……」
大瀬と言い、園田と言い、人の気も知らないで……。
「正義の味方活動しています」なんて、どうやってオブラートに包んで説明すればいいんだよ……。
俺は腹の中でそう毒づいていると、園田はいつものにやにや顔を引っ込めた。
ああ、こいつがマジな話する時の顔だ。
「まあ、正義君が優しいのは分かるけどね、正義君が行方くらましている理由は言えないなら言えないって、せめてはっきり言ってあげた方がよくないかって、俺は思うよ。
あと、姫川さんの事も」
「姫川って……あいつとは別に何の関係もねえよ」
「それだよ、問題は」
園田はぴっと指を指した。
「浩美ちゃんは、うぶだから現状維持のまま君といられたら幸せって、そう思ってる子なんだよ。で、正義君はその浩美ちゃんの行為に甘えて、なあんにも言わない。
行方不明の理由も分からない、対人関係も分からない、おまけに自分が利用されてるのかも分からない。これじゃあ浩美ちゃん、我慢し過ぎて壊れちゃうよ」
「んな一昔前のドラマみたいな話……」
「あるんだなあ、これが。二次元の恋愛では追いつめられたら「お前を殺して私も死ぬ」って言って凶器でグサリと1発って言うのは流行りなんだからさあ。それも浩美ちゃんみたいな家庭的で、しっかり者で、男を立てて、それゆえに自分の中に溜め込んじゃう子が1番なりやすいんだよ」
「まさか……んな訳」
「まっ、俺はこの件はこれ以上首突っ込む気はないし、言う事は言ったし。
まあご両人グッドラック。Nice boatになったら花は手向けるよ」
「意味が分からねえよ」
園田は訳の分からない事を散々しゃべくった後、いつものにやにや顔に戻って手を振っていってしまった。
訳が分からん。
でも……。
浩美が行方不明になったのは、俺のせいなのか?
昨日の……。
姫川に奪われた唇に触れる。ただ押し付けられただけで、あれをキスと言っていいのかは分からないけど、あれを見て、浩美が誤解をしたとか……
俺が、浩美を追い込んだのか……?
俺が考え込んでいた時。
「小野正義」
ピリッとした声で思わず振り返ると、姫川が立っていた。
姫川の視線は鋭い。いつも吊り目勝ちな目をしているが、それにも増して鋭いのは、姫川なりに戦闘態勢に入っているせいか? まあこいつは戦わねえけど。
「どうしたんだよ、影がないって言ってたけど……」
「世界の敵が現れたのよ」
「はあ……? 何だよそれ」
おいおい。今まででの姫川語録の中でも1、2を争う位突飛な言葉が飛び出てきたよ。
姫川は俺が目を見開いているのを知ってか知らずが、1人でぶつぶつと納得している。
「影がないからおかしいとは思っていたけど、やられたわ。既に影は全て、世界の敵の支配下にある。早く倒さないと大変な事に……」
「ストップ。ちょっと待て姫川、ストップ」
俺は姫川の独り言にひとまず待ったをかけると、姫川は半眼で嫌そうな顔で俺を見返した。
「何? 私は緊急の案件を話しているのよ?」
「待てよ。せめて説明だけしてくれ。その世界の敵って何だ?」
「…………。手短に話すわ。影は世界の防衛本能だけど、世界の敵は違う。影の防衛本能を操り世界を異空間に閉じこめようとする存在よ」
「はあ……? 今までで1番訳が分からねえよ」
「世界の敵はランダムに現れるのよ。私もそれがいつ現れるのかまでは予測はできない。とにかく世界の敵を探さないと」
「ちょっと待て。それは、うちの学校にいるのか?」
「この辺りだけ影がいない以上、この辺りに異空間を拡張している可能性が高い。早い所……」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
姫川が尚も続けようとする言葉は、突然の耳をつんざくような悲鳴で遮られた。
「この声……まさか」
「……少し気付くのが遅かったみたいね」
姫川は通常通りの上から目線で横柄な態度に、俺はいらいらとする。
「お前なあ! お前いつもこんなのばっかりだろうが!!」
「反応が遅れたのは仕方がないわ。行きましょう」
「おいっ!」
俺の言う事を無視して、姫川はスカートを翻して走っていった。
「っくしょう」
俺は毒付くと、そのまま姫川の後を追った。
****
影。
影カゲかげ。
影影影影影影影影影。
「……んだよ、これは」
それを見た瞬間、そんな当たり前すぎる言葉しか出てこなかった。
今まで影退治と称して、姫川に連れられて退治していった影とは、比べものにならない位の量が、中庭を覆っていた。
既に中庭は真っ黒なカーテンで覆ったジオラマのような状態で、明らかに影の作った意空間に飲み込まれていた。
「ひぃぃぃぃぃ、嫌だぁぁぁぁぁ!!」
泣き叫び逃げる男子生徒が、影の触手に絡め取られる。
「畜生!!」
俺が反射的にその触手を拳で叩き壊そうとするが、それより先に、触手が男子生徒を高く掲げる方が早かった。
生徒はバタバタと足で触手を蹴飛ばして暴れるが、触手が男子生徒を覆い尽くし、暴れていた足も見えなくなってしまった。
「嫌だぁぁぁぁ! 何だよこれぇぇぇぇぇ!?」
もう顔しか表に出ていない生徒の肌色が、徐々に変色していくのが分かる。
普通の肌色から、真っ黒な影と同じ色に。明らかに生物の色じゃない黒に変色していくのだ。
俺は、身体中からだらだらと汗が出るのを感じた。
「ちょっと待てよ、何だよこれは」
俺は、努めて冷静な声を上げる。
対する姫川は、いつも通りの感情の全くこもっていない声で返事をした。
「影を倒さないといけない理由よ」
「そうじゃなくって! 俺は聞いてねえぞ、それじゃ影は……」
「……ああ。言ってなかったわね」
姫川は今更思い出したような顔をした。
その顔を見た瞬間、俺の背中を伝う汗は、冷たくなって体温を奪っていった。
「影は、生き物のマイナス感情よ。世界はそれを浄化作用として生物が増え過ぎないようにするのに使ってる」
淡々と話す姫川の言葉に、俺の喉はからからと渇く。もう、飲み込む唾などとっくの昔になくなったかのように、口の中に水分がない。
嫌な「予感」は「確信」へと変わっていった。
「……今、影に取り込まれている奴は?」
「ああやって、生物を減らすのよ。影と同化して」
「影になった奴は……元に戻せるのか?」
「……さあ。少なくとも私が世界の管理者を任されてから、世界の敵が現れたのは今回で2度目だわ。世界の敵を何とかすれば、影は人に戻るのかもしれないわね。でも」
姫川は、尚も続ける。
「前回の正義の味方は、失敗したのよ。だから、可能性でしかない」
「……!!??」
俺は、黙り込む事しかできなかった。
そう言えば、前に少しだけ言ってたな、前の正義の味方の話を……。あの時は深くは突っ込まなかったけど……。
「でも」
姫川は俺の現在の感情を分かっているのか分かっていないのか、続けた。
「世界の敵を倒して、異空間を壊せば、この影も元に戻るかもしれないわ」
「……お前、またいい加減な事を」
「仕方がないでしょう。前例が本当にないのだから。でも、可能性にかけるしか、影になった人を元に戻る事はできないんじゃないかしら。選ぶか選ばないかは、あなたの勝手だけれど」
「……」
俺は、髪をガシガシガシガシと掻き毟った。
畜生、この女は。いつもいつも人の都合も気持ちも考えないで勝手に物事決めて、進めて。秘密主義の女がもてるなんて園田は言うが、この女の秘密主義は身勝手にも程があるだろうが。本当に女じゃなかったら殴っている所だ。
でも。
俺は掻き毟っていた手を、最後に手串で髪を直して下ろした。
可能性にかけるしかねえのなら、やってやろうじゃねえか。何、いつも影退治をやってたんだ。その応用だ。
「仕方ねえ。やるよ。やればいいんだろ」
「そうね」
「てめえ……」
「とりあえず、影の濃い場所。人の影が多い場所に、世界の敵はいるはず」
「何でだよ」
「世界の敵は人の心の心理を理解している。私には理解できないけれど。少なくともあなたは、人だった影を壊す事はできないんでしょう?」
「あー、はいはい、分かりましたよ!」
頬をバチンと叩いて、覚悟を決めた。
辺りを見回すと、中庭はすっかり「黒」に埋もれて、さっきまで朝の登校時間でしゃべっていた生徒達の喧騒も、どこかへ消えてしまっていた。
中庭だけだった、真っ暗な空間は、気付けば、徐々に、学校内を侵食していた。
どんどん、影の触手が獲物を目指して狩り、取り込み、仲間を増やしていたのだ。
「畜生!」
「……目指している方角があるみたいね。影の後を追いましょう」
「ああ、分かったよ!」
そのまま、俺と姫川は走り出した。
****
触手が、地面を這って来る。
俺達を取り込もうと、うねうねと押し寄せてくるのだ。
影が迫ってくるが、この影を攻撃する気にはなれなかった。もし壊して、それがうちのクラスメイトとかだったらどうするんだよ。だから、必死で追いつかれないよう逃げる事しかできなかった。
俺は辺りを見回した。
暗い。黒い。音がない。
本当ならもうそろそろホームルームが始まるし、校舎から先生や日直の声が聞こえて来てもおかしくないのに、校舎からは声どころが、何の音も聞こえて来ない。
この無音の状態で、俺達の走る足音と、自分の心臓音、そして時計塔が秒針を刻む音しかしないのが、気持ちを圧迫させる。一方、姫川は全く動じてない顔で、走っても走っても汗ひとつかかず、辺りを見回していた。
「学校の敷地内は全滅……まあ、棟の中にはまだ入っていないみたいだけど。……ん、変ね」
「変って……何が」
「もう校舎外はほとんど影の意空間に取り込まれているのに、どうして時計塔から音がするのかしら?」
「……あ」
時計塔は、止まる事もなく、本来の予鈴の時間に針が止まった。
鐘の重い重い音が、この空間を震わせた。
震わせたのと同時に、影が、うねうねと時計塔目掛けて這って来る。
「……決まりね。行きましょう」
「……畜生」
「何が畜生なの?」
「何もかも全部だよ。ちっくしょう」
そのまま、足を動かし、手を千切れんばかりに振り続けた。
既に影の量は、触手とか言っているレベルではなかった。
真っ黒で巨大な大木が、地鳴りを上げながら俺達に迫ってきているようなものだった。
そのまま、音楽科の棟を通り抜ける。
走って走って、やがて時計塔が見えてきた。
時計塔の周りには、文字通りの黒だかりだ。影が集まりつつあった。
「散らせば、確か時計塔の下に、中に入れる扉があったはずね」
「できるか、んなもん!」
「でも、世界の敵はこの中にいるのよ?」
「ああ、もう! 姫川、お前は黙れよ!
頼むから! そこをどけ!」
影は俺達の存在に気付き、うねうねとまとわりついた。
俺達を追ってきた大木の影もあいまって、俺達は挟み撃ちにされてしまった。
しかし、前に見た女子生徒みたいに縛り付けようとも、さっき見た男子生徒みたいに取り込もうともしない。ただ、俺達が時計塔に入らないように邪魔をするだけだ。
「どけっ!」
「無理よ、既に人としての意思もないもの」
「お前は黙れよ!」
影はまとわりつき、うねうねうねうねと肌を這う。絡みつく。例えるなら、舌にべろべろと舐められているような感じだ。もっとも、影は舌みたいにざらりとなんてしていなく、ベチャリとした粘着質な……ナメクジみたいな触感だけれども。
……気持ち悪い。いつもだったら、殴って終わりなのに……。
でも、殴るなんて事できる訳ねえじゃねえか……!
絡まってくる影を無視して、伸びてくる影を掻き分け、真っ黒な塊になっている場所を手でまさぐる。そこに時計塔への入り口のドアノブが埋まっていた。
殴れば、確かにすぐどけられるだろうけど……。畜生。
俺は、大きく息を吸うと、そのまま大声で怒鳴った。
「畜っ生! お前らっ、離れろっっ! 死にたくねえなら今すぐここから離れろぉぉぉぉぉぉ!!」
その声を聴いた瞬間、影はささっと俺達の周りから離れた。時計塔の周りからは、影が完全にいなくなってしまった。姫川は理解できないと言うように、少しだけ目を大きく見開いた。
「そんな簡単な事で影が離れるなんて……理解できないわ」
「うっせえよ。影になっていても生きてるんだから生存本能はあるんだろうよ」
「そう……」
「じゃあ、とっとと行くぞ。こんな悪趣味なことする奴を殴る! それだけだ」
「……」
ようやく掴んだドアノブを回す。
ギギィーと軋んだ音と共に中に入った途端に、辺りが薄暗い事に気が付く。
そのまま俺達は、吸い込まれるようにして、時計塔の中へと落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます