第54話 狂獣、眠るべし(5)
「モニカ、あと何本です?」
「残り三本で店じまいだ。あたしは、あんな奴と踊る気はないぞ」
接近戦でも己の敏捷さを活かして立ち回れる彼女ではあるが、さすがにあの化け物相手に得意分野以外で挑む自信はないようだ。
こういう時に決して粋がろうとしない彼女を、リサは高く評価していた。
できないものはできない、ときっぱり言い切る。
ハッタリがしばしばまかり通る裏社会で、なかなか貫徹できることではない。
「頭を……脳を潰す以外に勝ち目はありません。最後の一本を打ち込みましょう」
自分の耳を指先で軽く叩いた。
これだけでモニカは意図を察したはずだ。
「あたしに『奇跡の一矢』を放てというのか? 神の愛もそろそろ品切れだぞ」
「その前に残り二本で目隠しをしましょう。奇跡の確率が上がります」
「それは奇跡の三枚重ねだ。あたしの名前が伝説に残るな」
「私が踊りますよ。貴女の奇跡を演出する踊り子としてね」
唸り続ける男の様子を窺いつつ、作戦を伝える。
薬を目の前で失った動揺がまだ大きく、リサたちへの殺意はだいぶ薄まっているようだ。
「この泥濘の上で踊る? 正気とは思えんが」
懐から例の小瓶を取り出し、左右に振ってモニカの問いに応えた。
先程無駄にしてしまった『麻睡散』だが、まだ半分近く残っている。
「二段構えか。さすがリサだな。それはいい餌になりそうだ」
これが最後の戦いになる。
なおも豪雨が降り注ぐ中、短い言葉で作戦を伝えた。
モニカは一言も差し挟まずに聞いた後、
「やろう」
ただそれだけ答えた。
彼女の言葉には一切の気負いがなかった。
このような死地にあっても、己を必要以上に鼓舞したりしない。
激情はしばしば恐怖を忘れさせるが、その一方で判断を鈍らせる。
『射撃』を行う上では、致命的なミスに繋がりかねない。
リサは、戦友の変わらぬ姿勢に安堵した。
(貴女は本当に強いですね……)
羨望すら抱いてしまうほどの心の強さ。
モニカは冷たく、静かで、そして美しい刃物のような戦士だった。
「ぐう、ううう、うううう……おクスリ、おクスリ、なくなっちゃったぁ……」
叩きつけるような豪雨の中、男は大切な宝物を失くしてしまった子どものような顔で嘆き続けている。
うっかりすると憐れみを覚えてしまいそうだが、
「リサ。人食いの化け物だぞ、忘れるなよ」
「大丈夫ですよ、モニカ」
心を見透かしたような相棒の言葉に、リサは静かに答えた。
すでに死体となった悪党どもとは違い、この男に明確な悪意は感じられない。
もしかしたら、魔薬さえ無ければ尋常な人生を全うできたのかもしれない――そう考えずにはいられなかった。
だが、
(……『もしも』の話をしても仕方ありません)
あるいは現在抱えている案件が全て解決した後で、じっくり一人で考えてみるのは無駄ではないかもしれない。
アンに相談するのもいいだろう。
何か迷いや悩みが生じた時、彼女には幾度も適切な言葉をもらっている。
しかし、今のリサが行うべきは、過去を反省することでも未来への展望を思い描くことでもなかった。
ただ粛々と、目の前の有事を片付ける。
それだけだ。
「決着をつけましょう」
モニカが静かに頷く。
互いの拳と拳を軽く合わせた。
夕暮れの死闘に幕を下ろす――強い決意と共に二人は前に進み出た。
左手に杖、右手に小瓶を持ち、ゆっくりと右に迂回した。
モニカは左からだ。
男の突撃に警戒しつつ、左右から挟み撃ちの状況を作る。
目と目で合図を交わすと、
「ほら、坊や! まだまだお薬は残っているわよ!」
「いや、そっちじゃない、こっちだ! 薬はあたしが持っているぞ!」
ほぼ同時に声をかけた。
土砂降りの雨の中であったが、やはり魔薬の効用で鋭敏になった男の耳にははっきりと届いているようだ。
「あ、うう……えっ……ええっ!?」
リサの狙い通り、男はキョロキョロと落ち着きなく首を巡らせている。
鋭い五感の働きと瞬発力、異常な程の反射神経を持つ男だが、相手の罠を見破る能力は乏しい。
「さ、こっちへ来なさい。ほら……見て、これを」
小瓶をふらふらと振り、緑の粉を見せつける。
男が目を凝らし、中身を見極めようとしてくる。
指先で軟木の封を飛ばし、
「ほらっ!」
男の頭上に向かって、大きく弧を描くようにして放り投げた。
間髪入れず、懐から戦闘前に拾っておいた石ころを取り出す。
小瓶に全力で注意を向ける男の顔に、一歩前に踏みこんで力いっぱい投げつけた。
「ひあっ! あ、あああああっ!」
意表を突いた攻撃であったが、男の超反応はそれでも健在だった。
咄嗟に手で顔を覆い、石を弾き返す。
さらにそのまま、目の前の地面に落ちる寸前の小瓶に手を伸ばした。
「……あっ、あっ、おお……」
叩きつける豪雨の仲、小瓶を掴もうとした男の手から蛮刀が落ちた。
いくら驚異的な膂力を持とうと、濡れた瓶を掴むには役に立たない。
リサは杖を中段に構え、一直線に間合いを詰めていった。
最後のチャンスだ。
この作戦が失敗してしまったら、後はもう逃げるしかない。
「え? あ、お、おおおお……」
無言のまま突っ込むリサに対し、男は慌てて蛮刀を拾おうとしたが、
「はっ!」
裂帛の気合と共に、リサの杖の先端が男の腋の下を深々と突いた。
男が凄まじい悲鳴をあげて仰け反る。
一般に急所というと金的や目玉、あるいは鳩尾などが挙げられるが、腋の下も軽い打撃で強烈な痛みを与えることのできる急所の一つだ。
そこを容赦なく突き、抉る――紫電流杖術表芸の十二、手羽解き(てばほどき)が完璧に決まっていた。
さらに、次の瞬間――。
「ひぎゃあっ!」
男の右目をモニカの矢が正確に射抜いた。
夕暮れ時の、しかも大雨の中という最悪に近い状況であるにも関わらず、モニカの卓越した技量と経験は注文通りの戦果を挙げたのだった。
「いたいいいいいっ! いたいよおおおおおおっ!」
男が悲痛な叫びをあげ、泥の上をのたうち回る。
だが、これで戦意を失う相手ではない。
二人は油断なく様子を窺った。
リサの後ろを、モニカが静かに横に移動する。
「よくもおおおおっ! よくもやったなああ! ゆ、ゆるさないぞおおおっ!」
男が自らの手で眼球ごと矢を引き抜いた。
血しぶきが舞う。
憎悪に満ちた左目が、リサを睨んでいた。
雄叫びをあげて突き進んでくる。
蛮刀はすでに手元にないが、素手でも十分に脅威だ。
「来なさい!」
防御の構え『静舟』を取り、ギリギリまで引きつける。
男が、跳躍した。
驚異的な高さまで跳び、両腕を振り上げて襲いかかってくる。
まさに肉食の獣だ。
左に素早く動き、豪腕の一撃を回避する。
下手に杖で捌こうとすれば、掴まれて危地に追い込まれてしまう。
何より、今のリサの役割は『モニカを支援すること』だ。
着地した男が唸り声をあげてリサを見据える。
その左目を、真横からモニカが撃ち抜いた。
「ひぎぃやああああああっ!」
男が地面に両膝を突いた。
そのまま突っ伏しそうになるが、
「くるなっ! くるなっ! くるなあああああっ!」
視界を失い、闇の恐怖に怯えて狂ったように両腕を振り回した。
「あああっ! いたいよおおっ! こわいよおおっ! たすけてえええっ!」
目に見えぬ恐怖と死の激痛に苦しむ男の哀れな叫びが、耳にこだまする。
胸がずきりと痛んだ。
もう、これで十分ではないのか――そんな迷いが浮かんでくる。
だが、それでも油断はしていなかった。
間合いはまだ詰めない。あくまでも作戦通りだ。
「あああああああああああああっ!」
男が左の眼球に指を突っ込むと、そのまま抉り出した。
もはや言葉を成していない叫びをあげ、リサたちの姿を探ろうと首を激しく巡らせている。
これではトドメの一矢が放てない。
最後の一撃で確実に仕留めねば、この男を苦しみから解放することもできない。
(……やるしかありません!)
泥を跳ね上げながら、リサは男との間合いを開けた。
全身ずぶ濡れで、体が異常に重い。
しかし、気迫で疲労をねじ伏せると、
「かかって来なさいっ!」
腰を落として杖を構え、防御態勢を取った。
視力を奪われた男にとって、唯一の頼りとなるのは聴覚だ。
リサの声に感応し、血まみれの歯を剥き出しにして襲いかかろうとする。
だが、すでに勝敗は決していた。
あえて声を発したのは、万難を排し、モニカに確実にトドメを撃たせるための罠だったのだ。
「げおっ!? あ、ああっ……」
音もなく距離を詰めていたモニカの最後の矢が、横顔を向けていた男の耳の穴に吸い込まれていった。
しばしの間が空いた後、ごぼっと、男の口から大量の血泡が噴き出す。
眼球の無い目と鼻からも、赤黒い血が滝のように流れ出た。
男の首がゆらゆらと揺らめき、震える手が空を虚しく掴もうとする。
常人なら即死であろう一撃を浴びたにも関わらず、魔薬に犯された肉体はなおも生きようと足掻いていた。
「あ、あ、あっ……」
男は泣いていた。
がくりと両膝を突き、前方の水たまりに倒れ伏す。
だが、その後も依然として身体はひくひくと痙攣を続けていた。
あまりにも恐ろしく、残酷で、何よりも哀れな光景だった。
(人の心と肉体を蝕み、狂気に至らしめる悪魔の薬……絶対に許しません……)
リサはこの時、生ある限り魔薬と戦い続けることを心に誓った。
「……さようなら」
無防備にさらけ出された延髄を上から杖で打ち砕くと、びくんと大きく仰け反った男の肉体はやがて活動を停止させた。
モニカが小声で祈りの言葉を呟く。
戦いを終えた後は、生きながらえたことを神に感謝する――それが彼女の流儀だ。
リサはしばしその場に立ち尽くした。
心の中を怒りと悲しみが嵐のように逆巻く。
やがて大きく溜め息をつくと、胸に拳を当てて感情を整えた。
まだ、終わりではない――やるべきことは残っている。
いつの間にか、雨はすっかり止んでいた。
(続く)
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