第52話 狂獣、眠るべし(3)
人間が人間を食う――極限状態においてはそのような行為が起こり得る。
リサもこれまでに話では聞いたことがあった。
戦乱の時代における長期の籠城戦や、大飢饉による食糧不足などが原因だ。
どんな生き物も、食べなければ生きていけない。
それは人間とて同様だ。
仮に自分が、理性や倫理が通用しない次元の飢餓に追い詰められたとしよう。
その時、果たして『人食い』というおぞましい行為を実行せず、潔く飢え死にを選べるかと問われたら、リサも軽々に否とは答えられなかった。
もちろん、ギリギリまで耐えられる自信はある。
だが、その限界を超えてしまったら――己が人としての誇りをどこまで保てるかは分からない。
人間とは弱い生き物なのだ。
しかし、いずれにしても目の前で行われている惨状を見逃すことはできなかった。
この金髪の大男は、極度の飢餓にあるわけではなく――積極的に人肉を貪り食らっているのだ。
放置して逃げ出せば、近隣の住民が文字通り餌食にされてしまうだろう。
男の食事はなおも続いていた。
一生忘れられないであろう光景だ。
しかもこの狂獣、時折リサとモニカの様子を窺うことも忘れていない。
迂闊には動けなかった。
「で、どうする?」
「すぐに私たちを襲う気配はなさそうね。その隙に策を練るとしましょう」
明らかに狂気に憑かれた相手だけに、油断は一瞬たりとてできない。
しかし、とりあえず目の前にある『肉』を食べ尽くすまでは時間が稼げそうだ。
尋常の手段では斃せないのならば、策略を用いるしかない。
「その、前に貴女が見た魔薬中毒者についてもっと教えてくれる?」
今までに立ち合ったことのないタイプの敵だ。
あくまでも参考にしかならないが、情報は少しでも多く知っておきたい。
飛んでくる矢を『見て』かわす、致命傷を負ってもすぐには死なない、それだけでも十分すぎるほど脅威ではあるが。
「今のあいつと同じだな。力も速さも普通じゃない。さすがに人間を食べたりはしなかったが」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ。火を吐いたり魔法を使ったりはしなかったぞ。まあ、相当頭は悪かったが、勘だけはやけに冴えていたな。目だけじゃなくて、鼻も耳も敏感になるのかもしれない」
敵を知った上で、改めて彼我の戦力差を考察してみる。
敵の得物は蛮刀だ。
手入れは全くしていないようだが、驚異的な膂力で振り回してくる。
軌道は単純だが、まともに食らえば命はない。
さらに大男のリーチの長さも厄介だ。
しかも、痛みを恐れずに踏み込んでくる。
間合いは、常よりも離して戦わねばならない。
もう一方の手にある棘付きの盾も忘れてはいけない。
ただの防具ではなく、超接近戦における攻撃手段でもあるのだ。
間合いを詰めての戦いもできない。
完全に動きを止めた上で『トドメ』を刺すまで、近づくのは避けたいところだ。
対するこちらの得物は、杖と短剣と石、クロスボウに小剣――。
あの怪物を一撃で屠る威力はない。
(やはり自滅を待つしかない? いえ、ちょっと待って……おかしいわ……)
思考をあれこれと巡らす内に、リサはある大きな疑問を抱くに至った。
それはよくよく考えてみれば当然の疑問だったが、奴のあまりに異様な行動に呑まれて思いが及ばなかったのだ。
その疑問とは、
「モニカ、あの連中は一体どうやってこの男を操るつもりだったのかしらね?」
「あっ……」
この一点だった。
これほどまでに危険極まりない男であるにも関わらず、連中はまるで恐れる気配すら見せなかった。
連中の宴の最中、この男はずっと眠りこけていたが、目覚めてすぐに今のような状態になったわけではない。
ということはつまり、
(この男を今のように覚醒させる手段があった、ということですよね……)
としか考えられないだろう。
だが、ただ暴走させるだけでは意味がない。
力を覚醒させた上で思い通りに操り、なおかつ役目が済んだらまた元の状態に戻さなければ、自分たちが犠牲になるだけだ――今まさにその悲惨な状況に陥っているわけだが。
「今、喰われている男は、目覚めさせる方法しか知らなかったということか?」
「あるいは、何か勘違いをしていたのかもしれないわね。例えば、正しい『やり方』はあのリーダーの男だけが知っていて、他の連中には教えていなかった、とか……」
悪党の中で権力を保つのに必要なのは、金と暴力だ。
あの髭面の男が、金はともかく己の力だけで周囲の者どもをねじ伏せていたようには思えない。
いざという時のために、自分だけが行使できる圧倒的な暴力――人食いの怪物を用意していた、と考えると辻褄が合う話だ。
(グウェン先生の診療所を襲った時には、そこまで必要だとは思っていなかった、ということでしょうかね……)
リサに撃退されたために、仕方なく奥の手を出してきた――ということかもしれない。
そしてリーダーがモニカの矢によって絶命した今、その方法を知る者はいないというわけだ。
リサは、先刻盗み見た宴の記憶を懸命に辿った。
悪漢どもの下劣な会話は思い出すのも不愉快だったが、
「だけど兄貴、この野郎は……」
「分かってる、安心しろって。『こいつ』がありゃあ自由自在ってやつよ」
このような会話の後、リーダーは懐を軽く叩いていた。
自由自在という言葉が印象に残っている。
懐に入るほどの小物だ。
(恐らくは魔薬……覚醒用の物と……操作用と鎮圧用の物? きっと何かしら手段があったはずです!)
その制御方法を突き止められれば、この難敵を無力化させることも可能だろう。
すべての手掛かりは、大男の背後の小屋の中にある。
だが、もはやそれ以上考えるだけの猶予はなかった。
「リサ!」
「ええ。分かっているわ、モニカ」
狂獣の目が、真直ぐこちらに向けられていた。
鮮血の混じった涎を垂れ流しながら、渇望に満ちた眼差しを浴びせかけてくる。
「おんな……にく、や、やわらかくて、う、うま、うまそう……」
肌が総毛だつような恐ろしいことを呟いている。
思わず生唾を飲み込んでしまう。
「柔らかい? 最近少しなまっているんじゃないの、モニカ?」
「リサの方こそ食べ過ぎじゃないか? 前よりちょっと太っただろ」
戦闘態勢のまま、顔も合わせずに軽口を叩き合う。
当然ながらリサの知る限りモニカは日々の鍛錬を怠っていないし、リサも食べ過ぎはともかく太ってはいない――たぶん。
他愛のないやり取りは、お互いの緊張を和らげるためだ。
本当にヤバい時は無理にでも笑え、というのが傭兵の師匠の教えだ。
不思議なことに、そうするだけで肩の力が少し抜けるものなのだ。
「私が中に入るわ。時間を稼いで」
「分かった。あいつはここに釘付けにする」
どちらにしても、危険極まりない役割分担だ。
だが、狭い小屋の中であの男と立ち合えば確実に死ぬ。
あの男を入り口前から引き離し、その隙に忍び込むしかない。
リサたちが大男よりも勝っている点は人数だ。
そこに勝機がある。
オトリ役は、より敏捷で飛び道具も使えるモニカが適任だ。
狂獣が体勢を低く、前のめりにした。
四足で歩く獣のような異様な構えだ。
普通ならばバランスを保つことすら難しいだろう。
(これも魔薬の為せる業、ですか……)
蛮刀が不吉な光を放った。
狂獣が低く唸る。
「来るぞ!」
モニカの鋭い声に合わせ、右真横に跳んだ。
敵の蛮刀から少しでも遠ざかるためだ。
同時にクロスボウが放たれたが、至近距離にも関わらずやはり盾で撥ね退けてしまった。
あの距離、モニカの腕前で当たらないのであれば、やはりもう尋常な手段では仕留めるのは不可能だろう。
「こっちよ!」
「こっちだ!」
それぞれ左右に分かれ、ほぼ同時に声をあげる。
狂獣が一瞬戸惑った。
モニカの話通り、聴覚も普通ではないのだろう。
だが、鋭すぎる感覚がかえって枷となることもある。
この狂獣には理性というものがない。
恐るべき戦闘力ではあるが、策略には弱いはずだ。
モニカが足を止め、クロスボウを連射する。
狂獣は鬱陶しそうに盾を掲げると、矢をことごとく防禦していく。
モニカの狙いは目だ。
防ぐために盾を構えれば、視界が狭くなる。
その間隙を縫って、リサが小屋の中に忍び込むという作戦だった。
この程度は、細かい打ち合わせをしなくても通じ合えるぐらいには戦いを共にしている。
(……よし!)
狂獣の意識が完全にモニカに向けられているのを見て、リサは素早く小屋の入り口に滑り込んでいった。
(続く)
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