第40話 暴れ熊の馴らし方(2)
夜はすっかり更けていた。
喧騒のやまない歓楽街を港方面に抜けると、途端に人通りが少なくなる。
辺りは港湾労働者の住居がひしめき合っていて、この時間は朝の仕事に備えて眠りについている者がほとんどだ。
リサは先導するディノの背を追いつつ、傭兵仲間に担がれる若者の様子を窺った。
ギラギラと目を輝かせ、しきりに悪態をつく姿を見るに、重傷による痛みよりも怒りの方が遥かに上回っているようだ。
一見すると元気なように思えるが、
(むしろ、こういう時こそ危ないですよ……)
気力が一瞬でも萎えると、そのまま昏倒してしまう――そのようなケースを、これまでリサは何度か目にしてきた。
ディノが小路に入った。
石畳で舗装されていない砂利道で、所々に水溜りができている。
黒猫が静寂を破られたことに抗議するように鳴き声をあげた。
木造の粗末な小屋が互いに寄りかかり合うように並んでいる。
月と星灯りだけが、わずかに足元を照らしていた。
ディノに先導を任せたのは、仲間内では最も夜目が利き、荒れた道にも慣れているからだ。
このような条件下でも、つまずくこともなく全力で走っていく。
「おーい、グウェン先生!」
ディノが場違いなほど陽気な声を上げ、手を振った。
狭い小路の突き当りで、数人が焚火を取り囲んでいた。
そこだけは少し開けていて、奥には井戸がある。
この周辺の住民の憩いの場だった。
「うるせえよディノ。ったく、せっかく星の綺麗な夜だってのに風情も何もありゃしねえな。何だリサも一緒か……ってガン首揃えて何の騒ぎだよ。まーた厄介事かい?」
一人が立ち上がり、呆れたように早口で返してきた。
左手には焼き魚の串、右手には盃。
晩酌を邪魔されて不機嫌そのもの、といった女性の顔が焚火に照らされた。
「すいません、グウェン先生」
リサが頭を下げると、ぶつぶつと文句を言いながら盃をぐいと呑み干し、串にかぶりつきながら若者の方に目を向けた。
「バカどもが戦争でもおっ始めたのか? あー、こりゃああたしの仕事だわ。あたしの久し振りの本業って奴だぁね」
焼き魚のかぶりつき、あっという間に咀嚼し終えると、
「ココ、起きな! 仕事だよ!」
奥の小屋に向かって威勢よく声をかけた。
すぐに「はい!」と元気な少女の声が返ってきて、奥の小屋に灯りが点る。
「久し振りなんですか、先生?」
「ああ、そうだねリサ。まったくここらの住民ときたら、あたしを呪い師か何かと勘違いしてやがるんだよ。やれ腹を下したとか、腰が痛いだとか……そのうち女房が産気づいたとか、探し物を見つけてくれとか亭主の浮気相手を呪い殺してくれとか頼まれかねないよ。冗談じゃない、あたしゃ外科医だってえの!」
頭の回転も速ければ口も速い。
どれほど呑んだのかは分からないが、どこかの誰かと違ってまだまだしっかりしているようだ。
これなら手術も安心と、リサは胸を撫で下ろした。
グウェンドリン・アシュフォードは、この界隈では一番の有名人だった。
若いながら評判の良い外科医で、その気になればもっと大きな診療所を構えてもおかしくない程だが、何故かこのような場所で開業している。
免許を持たない闇医者ではないか、などとも噂されているが、
「闇医者だぁ? ふざけないでほしいね、あたしは医師ギルド所属のれっきとした外科医だよ! ……まあ、ギルドの月会費はいつも滞納しているけどさ」
ということらしい。
ともかく、彼女が東南区でも知られた外科医であることは間違いなかった。
加えて「来る患者はいつ、誰であろうと拒まず」という姿勢と、治療費の安さも有名で、港で働く荒くれ男たちやリサたちのような傭兵、裏社会の人間からも全幅の信頼を得ている。
「で、このバカでけえのは見たことねえけど一体どこのボケナスだ? グイードのところか?」
ボサボサの金髪を後ろで無造作に束ねながら、グウェンが訊いてきた。
所々が継ぎはぎだらけで、血染みも点々と残されたいつもの白衣姿だ。
当人曰く、弟子のココがちゃんと洗ってはいるらしい。
「いえ、私も今さっき会ったばかりで名前も知りません」
「おいおい、どこの馬の骨とも分からん奴を、あたしの所に担ぎ込んできたってわけかい」
「ええ。ですが、先生は慣れっこじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ、リサ。素性が分からねえ奴はさ、後で困るんだよ。治療費ばっくれたりしやがるからさあ。いくらあたしが安価で引き受けるし滞納されても気にしないからって、ロハってわけにゃあいかねえんだよ? こっちも商売なんだからね」
文句をずらずらと並べながらも、診療所に入って準備をテキパキと進める。
丸眼鏡の奥の淡い碧眼は真剣な光を放っていた。
二十代後半の中央人だが、他民族に対する差別意識などとは縁のない人物だ。
それどころか、鬼族や亜人、半亜種といった者であっても、
「あたしの診療台に上げたからにゃあ、必ず治療してやるよ」
と豪語していて、言葉通りに実践してしまう。
リサが、この東南区で尊敬する人物の一人だった。
「先生、準備完了でっす!」
東南系の少女・ココの快活な声。
彼女はグウェンのただ一人の弟子で、診療の助手を務めるだけではなく、家事全般が苦手な師匠の身の回りの世話を全て行っている。
仕事柄、凄絶な状況に出くわしても顔色一つ変えることがない。
浅黒い肌に短い黒髪のエネルギッシュな少女だ。
「おし、始めるか! じゃ、そのデカいのを診療台に乗せてくんな」
傭兵たちが若者を診療台にうつ伏せに乗せた。
若者の巨躯を乗せても充分に余裕のある大きなベッドだ。
決して広いとは言えない部屋の、ほぼ全体を占めている。
「こら、暴れるンじゃねえよ!」
ディノが声を荒げ、若者の後頭部を軽く叩いた。
「てめえ、何しや……もがっ!」
若者が噛みつかんばかりの勢いでディノに首を向けた瞬間、ココが素早く彼の口に棒を押し込んだ。
棒には布が何重にも巻かれている。
手術中、患者が痛みのあまり舌を噛まないようにするための道具だ。
ココが手際よく布の先端を若者の後頭部に回し、きつく結ぶ。
これでもう、どんなに暴れても外すことはできないだろう。
「ご苦労……っと、そうだ。せっかくだからアレ、試してみようか?」
「え、もしかしてアレですか、先生?」
「うん。ちょいともったいない気もするけどさ、あんまりケチってても意味がねえし、一回は実際に使ってみないとな。ま、この兄ちゃんは丈夫そうだし平気だろ」
まるでこれから悪戯をする子どものようなグウェンの表情と、嬉しそうに好奇の目を輝かせるココに、リサは急速に不安を覚えた。
「すいません、先生。『アレ』って、何のことでしょう?」
「ああ、心配するなよリサ。この間、ギルドの薬師から薬を仕入れてね。開発したばかりの新薬だから、試しに使ってみてくれって言われてんだよ」
「えっ……」
心配をするなと言われても無理な話だ。
といっても、リサには止める権限も義理もない。
ここはグウェンの職場で、若者を担ぎこんで手術を頼んだのは自分たちなのだ。
手術台に上げられたら最後、何をされても文句は言えない。
ココが戸棚から緑色の粉末の入った小さな瓶を取り出してきた。
粉を指先に乗せると、
「あ、ディノさん。この人の頭、上向きにして抑えてくれます?」
ディノがお安い御用と頭をがっちり掴むと、
「はーい、怖くなーい怖くなーい。この粉、ちょっと吸ってみてくださいねー」
満面の笑みで若者の鼻に近づける。
若者は得体の知れない粉を前に、必死に抵抗しようとした。
だが、何しろ口で呼吸ができないのだからどうしようもない。
若者はその粉を吸うと――わずか数秒で、がっくりと首を垂れてしまった。
「成功ですね、先生!」
「うんうん、効くなあ、これ。今度あいつが来たら報告しておこう」
満足げに何度も頷くグウェンに、
「先生、今の粉は一体……?」
「ああ、『麻睡散』って粉でね。鼻から吸うと、あっという間に眠っちまうって薬なのさ。ちょっとやそっとじゃあ起きないって触れ込みだったけど、本当にその通りなら手術する時に便利だなあってね」
「……そのまま永眠、ってことはないですよね?」
「……さて、おとなしくなったところで手術を始めっか!」
リサの問いを無視すると、グウェンは彼女の『本業』を開始した。
それからおよそ一時間後――。
周辺は、すっかり晩夏の夜の静寂を取り戻していた。
傭兵たちはリサを除く全員が『カモメの歌声亭』に戻っている。
おそらく、これからこの一件を肴にしてまた呑み直すことだろう。
若者は一命をとりとめた。
グウェンは、相変わらずの見事な手捌きで傷口を縫合し終えると、
「後は化膿しないように注意だな。それと、しばらくは動かせないね。また傷口が開いちまうからさ」
薬草を磨り潰して調合した軟膏を塗り、包帯を巻いた。
完全に癒えるまでは、だいたい一週間前後はかかるだろう、という話だった。
例の薬が効いたのか、若者は静かな寝息を立てて診療台に伏している。
傍らではココが寝ずの番をするそうだ。
「まあ大丈夫だろうけど、あいつが目を覚ますまで油断はできないからね」
「お疲れ様でした、先生。ありがとうございます」
リサはグウェンと二人、消えかけた焚火の前で晩酌を交わしていた。
月は東にやや傾いていて、もう人影はどこにもない。
先程までの大騒ぎが、まるで嘘のような静かな夏の夜だった。
「礼には及ばないよ。これがあたしの仕事だからね。それに、縁もゆかりもない奴の命を助けたからって、お前さんが頭を下げる義理は無いだろ?」
「私が先生の所に担ぎ込んだ時点で、もう『縁』はありますよ」
「ふふ、いかにもお前さんらしい答えだね。ホント、傭兵にしては変わり者だよなあ。お人好しにも程があるんじゃないか?」
呆れたように、白く濁った東方産の酒を傾ける。
近隣住民からの差し入れだそうだ。
金儲けとはまるで縁のないグウェンを見かねてのことだろう。
リサにとっては、故郷の懐かしい味だ。
空になった盃にリサが酌をして、
「僭越ながら、先生と同じですよ」
「あたしと? はは、このあたしがお人好しだってのかい?」
「できる限り、人の命を救いたいのです」
リサの言葉に一瞬キョトンとした顔になったが、すぐに眼鏡の奥の碧眼が輝いた。
「あたしは外科医、でもってお前さんは傭兵だろ? 普通なら、やってることは真逆だってのに……はは、本当にお前さんは面白いな。意地悪な見方をすりゃ、傭兵失格だぜ」
「私にとっては褒め言葉ですよ、先生」
今度はリサの盃に、グウェンが酒をなみなみと注ぐ。
「だがな、リサ。お前さんの稼業、それだけじゃ済まないだろ?」
「ええ」
グウェンの問いの真意と重さを、リサは瞬時に理解した。
リサは傭兵だ。
戦うことを生業とする人間であり、そのための武を日々磨いている。
戦いの結果として、直接的にしろ間接的にしろ人を傷つけ殺めるのは珍しいことではない。
むしろ傭兵として生きる以上『日常茶飯事』のことだった。
(……そう、私の手はすでに汚れている……)
傭兵稼業を始めておよそ一年、厳しい状況を幾度も潜り抜けてきた。
殺した敵も数知れない。
そういう意味において、もはや自分は『純粋無垢な乙女』などではないのだ。
そこが、グウェンとの決定的な違いであることをリサは認めていた。
「……全て承知の上、か」
「ええ。逆に私自身が傷つけられ、命を落とすことも覚悟しています」
静かな口調だが、リサの言葉には強い意志がみなぎっていた。
己の生きる道と定めたからには、後戻りはしない。
後悔はする。反省もする。
だが、退かない――そう、決めていた。
「……そうか。ま、お前さんにもし何かあったら、いつでもあたしの所に来な。どんなにひどい手傷を負ってても、必ず治してやるからさ」
「先生にそう言って頂けると心強いですね」
「だけどな、くれぐれも無茶はするなよ。いくらお前さんがタフな傭兵で、あたしが腕の立つ外科医だからって、どうにもならねえことだってあるんだからな」
「肝に銘じておきますよ、先生」
「どうだかねぇ。お前さん、日頃は冷静なのに、時々とんでもない無茶をやらかすからな!」
先日の誘拐師の一件を思い出し、今度は返す言葉もないリサだった。
(続く)
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