第19話 たった一つの危険な橋(8)
「アン! どうしたの!?」
昼前に、保安隊本部で別れたアンだった。
尼僧姿そのままで、憂いを帯びた眼をリサに向けている。
他の客人ならともかく、彼女だけはいつ如何なる時でも大歓迎だ。
「はい。一度、教会に戻ったのですが、アーシュラ様の使いの方がいらっしゃいまして……リサさんがここに居ると教えて頂きました」
「アーシュラ様が……そ、そう……」
これから死地に向かおうとするリサに対する、アーシュラなりの配慮であろうか。
動揺するリサをよそに、アンは普段通りの落ち着いた物腰で自然に隣に座った。
(参りましたね……)
彼女の頼みなら大抵のことは二つ返事で了解するリサであるが、今回の件に関しては別だ。
たとえ引き止められたとしても、絶対に断る。
海を渡ったのも、傭兵稼業に身を投じたのも、全ては今日、この日のためなのだ。
これだけは、たとえ彼女の頼みであっても譲れない。
「リサさん、私も余計なことは言いません。リサさんにとって……何よりも大切なことだと理解してます。ですが……一つだけ、どうしてもお聞きしておきたいことがあります。よろしいですか?」
「え? ああ、うん」
リサがぎこちなく答えると、アンは一つ呼吸をおいた後、
「この件が終わったら……リサさんはどうするおつもりなのですか?」
「えっ?」
「故郷に戻られるのでしょうか?」
問いかけるアンの瞳に、光るものが浮かんでいた。
想定していなかったその問いに、リサは咄嗟に言葉を返すことができなかった。
思わず地面を見つめると、すぐ足元で、蟻の行列が乾ききった虫の死骸を運んでいた。
ややあって、リサは申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
「ごめん、そこまで考えてないのよね」
他ならぬアン相手に、嘘はつけなかった。
今の自分は、明日のことすら考えることができなくなっている。
チャンを倒す、思い浮かべるのはただその一点のみだ。
「故郷に戻るか帝都に留まるか、ということもそうだけど……たとえ帝都に残ったとしても、傭兵を続けるかどうか……そうね、何も分からないわ」
リサは己の思考を一つひとつ確かめるように、言葉を繋いでいった。
その答えに、アンはゆっくり何度も頷いた。
そして、先程よりもやや安堵したような表情で、
「正直に答えていただいてありがとうございます。おかげで安心いたしました」
「え? 安心?」
「ええ。私の知るリサさんは、気休めのようなお返事を……あるいは、その場だけを取り繕うような言葉を口にされる方ではありませんから」
「あ、ああ……そ、そうだね」
「そこだけが気にかかっていたのですよ。何か、今までのリサさんとは別のお方のように思えてしまって」
「……そんなに普段の私っぽく見えてなかった?」
アンがわずかに頷いたのを見て、そういうことかと納得した。
保安隊本部でチャンの手掛かりを掴んだ瞬間から、恐らく自分でも気づかない内に張り詰めた表情になっていたのだろう。
いや、上辺の部分は隠していたつもりであったが、アンには全てお見通しだったようだ。
「アンには敵わないね、ホント」
「え?」
「フフ、気にしなくていいわ。褒め言葉だからね。でもありがとう、おかげで何だか気が楽になったみたいよ」
これからリサが向かうのは、まぎれもなく『死地』だ。
勝算を見込んだ上で挑んではいるが、それこそコインの引っ繰り返り方次第では命を落とす。
命を賭けることに慣れてはいるが、緊張しないわけではない。
(いや、それだけではありませんね)
今回は、チャンが絡んでいることで無意識の内に気負ってしまっていたのだろう。
何としても仇を討つ、という一心が己の視野を狭め、不必要なまでにプレッシャーをかけていたということかもしれない。
死地に臨む者としては、危険な心理状態とも言えた。
(そう、いつもどおり、よね)
何があっても生き残る。それが傭兵の戦い方だ。
たとえ失敗しても、命があれば挽回の機会はある。
その上で考えるのが『目的を達成する』ことだ。
「ところであの子……マオは大丈夫?」
「ええ、食事を摂って落ち着いたようです。今はモーリーン樣の部屋でお昼寝してますわ」
「そう。そこなら安心ね。鬼姫様の寝室といったら、間違いなくこの東南区で一番安全な場所だから」
リサの冗談に、アンがクスクスと笑う。
自分の心にだいぶ余裕が出てきたことを、リサは自覚していた。
今回も上手くいく、そんな予感がする。
それからしばらく後、船宿『風知草』が抱える優秀な船頭の中でも、一番速いと評判のロドニーが操る船に乗り、リサ一行は東北区を目指していた。
船着き場で、いつまでも手を振り続けていたアンの姿――もしかしたら、一生忘れられないかもしれないと感じずにはいられなかった。
ロドニーは褐色の肌に黒髪の南方人だ。
ロッテの情報では二十代後半らしいが、もっと老けて見える。
驚くほど無口かつ無愛想で、何度か利用しているリサも彼の笑顔を一度も見たことがない。
客商売に携わる者としては致命的とも思えるが、腕が確かなのと、逆にその淡々と仕事をこなすところを気に入って指名する客も多いのだという。
「それがですね~、リサお姉さま。お家では奥さんと子どもにデレデレしっぱなしらしいんですよ~」
「へえ、そうなの? 失礼だけど、普段の様子からは想像もできないわね」
「いやぁ、この春に産まれたばっかりですからね。今はとにかく可愛くて仕方ないんですよ、きっと。奥さんも美人ですし。ね、ロドニーさん?」
揶揄するようなロッテの投げかけにも、ロドニーは口をへの字に結んで答えようとしなかった。
いつもの彼らしい反応であったが、ここまで無愛想だと、その噂の『デレデレした顔』をちょっと見てみたくもなる。
もっとも、簡単には見せてくれそうにもないが。
夏の午後の陽射しは更に厳しさを増していたが、川面を流れる風は心地よい。
船中でアーシュラの使いとの打ち合わせを終えたところで、ロッテがニヤニヤ笑いながら、
「それにしても相思相愛ですね、リサお姉さまとアンさんは。羨ましいなあ」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ」
「いやいやホント、見てるこっちが恥ずかしくなるほどのイチャツキっぷりでしたから」
「……私、そんなに楽しそうに見えた?」
「今日一番の笑顔でしたよ。銀貨五十枚分くらいの笑顔ですね」
それは高いのか安いのか、判断の難しいところだ。
「でも、だいぶ肩の力が抜けたみたいで、あたしも安心しましたねー。いやはや、やっぱりアンさんは凄いなあ」
「やっぱりそんなに肩肘張ってたのね、私」
「ええ、そりゃもう。いかにも死を覚悟してるって感じで。カッコイイですけど、ちょっと怖かったですし、正直これはやばいなあって思ってましたよ」
「人が悪いわね、貴女も。それならそうと一言あってもいいんじゃないの?」
「そりゃ言いたいのは山々でしたけど。でも、多分あたしが言ってもリサお姉さまは聞く耳持たなかったというか……うん、あんまり効果無さそうにも思えたんですよね」
他人の忠告は割と素直に受け入れる性格と自負していたが、どうやら周りはそうと思っていなかったらしい。
いや、先程までの自分はそこまで張り詰めていたということか。
「何を言うかという内容よりも、誰が言うかが重要ってこと、ありますよね。あたしや他の誰かの言葉よりも、アンさんの言葉の方がリサお姉さまには強く響くってことですよ」
確かに彼女の言う通りかもしれない。
先刻のアーシュラ相手の危険な交渉も、彼女がお気に入りのリサが口にしたからこそ成功したとも言えるだろう。
余人であれば、問答無用で八つ裂きにされていた可能性もある。
「驚いたわ」
「えっ、何がです?」
「貴女って、意外に物を考えているのね……私の中でほんのちょっとだけ評価が上がったわ」
「んぐっ……ほんのちょっと、ですか?」
「うん、銅貨五枚分ぐらい」
「ひっどーーーい!」
(続く)
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