第3話 眠れない一日の始まり(1)
「ご苦労だったな、リサ。相変わらず仕事が早くて助かるぜ」
グイード・ボッシはそう言って、満足げな笑みをリサに向けた。
金髪碧眼の中央人で、年齢は三十を越えたばかりのはずだ。
この帝都東南区で『人斬りグイード』と恐れられ、亡き先代の跡を継ぎ一帯を束ねている。
帝都の闇に君臨する実力者の一人だった。
港にほど近い彼の屋敷で、リサは歓待を受けていた。
あの後、必死で懇願するヒューイを強引に縛り上げ、グイードの配下に引き渡すまでは意外に手間取った。やはり人間、己の命がかかると思いがけない力を発揮するものだ。
結局最後は、急所に当て身を入れて気絶させることになってしまった。
用意しておいた麻袋に詰め込み、人目につかないよう気をつけながら運ぶのはかなりの重労働だった。
「お褒めに預かり光栄です、元締」
「おいおい、相変わらず堅ぇなあ~。そんなにしゃっちょこばるなっての。俺とお前の仲じゃねえか。もっとよぉ、ざっくばらんな物言いで構わねえんだぜ?」
「は、はあ……」
そうは言われても、周囲を屈強な護衛たちに囲まれたこの状況で、あまり失礼な態度はできない。そもそも、よほどのことがない限りは上下の礼をわきまえるのが彼女の流儀だ。
苦笑を浮かべ、元締の勧める赤葡萄酒に口をつける。まろやかな口当たりの逸品だ。疲れた身体を癒すには最適であるが、今の彼女が最も欲しているのは温かいベッドだった。
「ところでヒューイの野郎、どうやら北区に逃げ込むつもりだったようだな。まったくフザケた野郎だぜ。で、用心棒の連中は見逃してやったんだってな?」
革張りの高級なソファに身を委ねるグイードの表情は、若干疲れているように見受けられた。豊かな金髪を、神経質そうに手でガサガサとまさぐっている。
彼と北区の元締が不仲だというのは有名な話だ。敵対する勢力に身を預ければ安全が保証されると、ヒューイは目論んだのだろう。実現は叶わなかったわけだが。
「ええ、そうむやみやたらに人の命を奪う必要はありませんから」
「ははっ、なんだい、そりゃあこの『人斬り』グイードに対する当てつけか?」
「ご冗談を」
リサが知り合った時、すでにグイードは元締で、斬った張ったの最前線からは一歩身を引いていた。
だから彼女は、彼がかつて暴れ回っていた姿を知らない。
だが、背はさほど高くないものの引き締まった体躯と、漂わせる気配の強さ、顔に刻まれたいくつもの傷痕から、その片鱗を窺い知ることはできる。
今もリラックスした様子を見せてはいるが、手の届く所に愛刀を置いていた。
情報屋から聞いた話では、いかなる状況であってもこの愛刀だけは常に傍に用意してあるという。
(正面から渡り合う気にはなれませんね……)
もちろん、万が一彼と命を賭けて戦わなければならない、となれば全力を尽くす。
だが、そのような事態を招かないようにするのが、この世界で生きるための知恵というものだ。
「ん、まあいいや。さて、忘れないうちに報酬を渡しておかないとな」
グイードが、傍らに置いていた麻袋を黒檀のテーブルの上に置いた。
手に取ると確かな重みがある。リサはすっと頭を下げ、それを自分の隣に置いた。
「おいおい、ちゃんと中身を確かめとかなくてもいいのかい?」
「その必要はありません。元締を信用しておりますから」
前金で銀貨百枚、後金で二百枚、という約束だった。
計三日間で稼いだ額としては十分だ。つつましやかな暮らしに徹すれば、独り身の彼女なら数ヶ月は過ごせるだろう。
「へへっ、嬉しいこと言ってくれるね。それにしてもよ、まぁ仕事を頼んだ俺の口から言うのも変な話だが……あんまりお前のような別嬪が危ない橋を渡るってのは正直どうかと思うぜ? そろそろ足を洗ったらどうだい?」
「元締……」
この一年間、何度周囲から同じようなことを言われただろうか。おそらくニ十回は下るまい。グイードだけでも、覚えているだけで三回は言っているはずだ。
「いや、そりゃ大きなお世話ってのは百も承知なんだがよ。もちろんお前さんの腕前は確かだし、頭も切れる。けどよ、何が起きるか分からねえってのがこの世界だろ?」
「お気遣い頂きありがとうございます。私もこの稼業をいつまでも続けるつもりはございません。ですが、今はまだ足を洗うべき時とは考えておりませんので」
この手の話が切り出されるたびに、やんわりと断るのも慣れていた。
たいていの者はそれ以上突っ込んではこない。何か言いたげな顔をしながらも、それなら仕方ない、と説得を諦めてくれる。
「そっかぁ、うーん、もったいねえなあ。じゃあどうだい、いっそ俺の嫁さんになるってのは?」
このように彼から冗談半分に求婚されるのも、これが初めてではない。
リサの返答はいつも同じだった。
「……私のようなしがない傭兵にお戯れはご勘弁ください、元締」
「戯れ? おいおい何だよぉ、俺はいたって本気だぜ?」
「……これは失礼致しました。大変ありがたいお言葉ですが……」
毎度毎度、似たようなやり取りで丁重に断っている。リサも初めは本気で困ったものだが、最近はすっかり慣れていた。二人の間のいわば恒例行事ともなっている。
だが、今回はグイードがさらに一歩踏み込んできた。
それもリサが、全く想定していない形で。
「はあ、こりゃ弱ったな。お前さん、この俺の何が気に食わないってんだい?」
(……その質問はずるいです、元締)
さすがのリサも返答に詰まってしまった。咄嗟に上手い返しが浮かんでこない。
もっとも、よほどひどい受け答えでもしない限り、彼の不興を買うことはないだろう。そんな器の小さい男ではない。
しかし彼は雇い主であり、若いながらもこの区の裏の実力者である。このような問いに対して、一体どう答えるべきだろうか。
(さてさて、どうしたものでしょう……まったく、弱ったのはこっちの方ですよ)
ちらりと目線だけ動かして、護衛の男たちの表情を窺う。誰一人、顔色一つ変えていない。内心では面白がっているのか、あるいは話は一切耳に入れないよう心がけているのか。
リサが返答に詰まっていると、グイードが前にぐっと乗り出してきた。このまま強引に唇を奪われたりしたらどうしようかと一瞬心配したが、さすがにそんな急展開はなかった。
(あら、この香りは?)
グイードの精悍な風貌にはややそぐわない、甘い香りが漂ってきた。三人いると噂される愛人からの移り香かとも思ったが、女性のつける香水とは少し趣向が違う気もする。
「元締、香水をつけるようになったのですか?」
話を逸らすには絶好の機会。鋭い攻撃に対しては正面から防御するだけではなく、相手の思いがけない方向に避けるのも有効である、と父もよく言っていたものだ。
「ん? ああ、そうだよ。よく気づいたなぁ」
グイードは一瞬きょとんとした顔になり、すぐに相好を崩した。
「これ、『最果ての森の霧』って銘柄でな。最近流行ってんだよ」
「それは初耳です。さすがは元締、お洒落ですね」
「おいおいリサ、お世辞を言っても何も出ねえよ?」
そう言いながらも、嬉しそうな様子を隠そうとしない。
実際、東南区で彼は伊達男で通っているし、リサもそう認識している。
今は自室ということもあってか、絹のガウンをまとった寛いだ格好だ。
さりげなく身に付けているネックレスや銀の指輪なども、一見して高価な品ばかりである。革鎧に戦闘用の杖という装いのリサには、遥かに縁の遠い装飾品だ。
「お世辞なんてとんでもないです。でも、元締が香水とはちょっと意外でした」
「ふふん、むさくるしい野郎が香水なんて可笑しいかい?」
確かにリサの父親ぐらいの世代なら、そう考える人も多かったかもしれない。
彼らにとって、体臭を気にして香水をつけるなどというのは男らしくない振る舞いなのだ。
「いえ、結構なことではないでしょうか? 男性も人前に出る時には自分の匂いに気を遣うべきでしょう」
「だよなあ? へっ、まあ俺も若い頃は、血の臭いばっかり漂わせていたもんだけどな」
グイードの蒼い双眸が、刃物のように鋭く光った。かつて裏社会の住人を震え上がらせた侠客『人斬りグイード』の片鱗を垣間見て、リサの血が一瞬だけ熱くなる。
「何をおっしゃいます。元締はまだまだお若いですよ」
「ふふっ、『人斬り』の血もまだ冷めきっちゃあいないぜ? ま、今は面倒くせえ縄張りのやりくりばかりで、刀を振り回している場合じゃねえんだけどな」
グイードがソファにもたれかかり、うんざりした顔で深く息をついた。表情に疲れが見える。恐らく、あまり寝ていないのだろう。
もっともその点はリサも同様であった。疲労の極致とは今の自分のことだ。正直に言えばさっさと切り上げて空腹を満たし、寝床に潜り込みたい心境なのだが。
「それはどうも……お疲れ様です」
自分自身にもそう声をかけてやりたかった。依頼を受けてからの数日間は、この暑い最中にヒューイの足取りを追って、ほとんど不眠不休だったのだ。
「まったくだよ、ここのところ景気が悪くてね。子分どもを養っていくのにも一苦労さ」
その割には香水など買っているのですね、とは答えなかった。一家を統べる元締ともなれば、豪商や土地の有力者との交際もある。見栄えのする装いやちょっとした気遣いというものも必要だろう。
「それにしてもバカみたいに暑いやな、最近は」
屋敷の庭で雀たちのさえずりが聞こえてくる。早朝の澄み切った空気が窓から流れ込んできた。しかし、陽がすっかり昇りきる頃はまた暑くなることだろう。
(ホント、嫌になる蒸し暑さですね。ベッドに入る前に水浴びしようかしら)
垢を落とし、すっきりとした気分で羽毛の布団に入り込む。想像しただけで全身を包む疲労感が解けていきそうだ。
そう、まずは水浴びをしよう。それから温かい食事だ。
グイードが傍らに置いていた扇子を手にとり、パタパタと扇いだ。骨の部分が象牙で作られた高級品だ。黒を基調とした色合いに、金糸で紋様が描かれてある。
不景気だと嘆きながらも、何だかんだで羽振りは良いのかもしれない。
「初めて拝見致しますが、良い扇子ですね」
「ん? おう、さすがにお前さんは目利きだな。俺、最近扇子に凝っててな。これはリオネルの若旦那から貰ったんだ。他にも色々あるぜ?」
リオネルは、代々この東南区で交易を営む豪商だ。グイードとは年齢も近く、長い付き合いだと噂に聞いている。扇子に限らず、様々な逸品を気軽にやりとりしているのだろう。
それにしても、趣味にお金をかけられるというのは、正直羨ましかった。リサは報酬を受け取っても、生活費や武具の手入れ、泊まっている宿の支払いなどにしか頭が働かない。
もっとも、リサにはこれといって趣味らしい趣味もないのだが。
「おっ、そうだ! せっかくだからこいつを持っていけよ!」
「え? いや、その、私には……」
グイードが戸棚をがさがさと探り始めたので、リサは少し慌てた。その気前の良さはありがたいが、雅な扇子を頂いてもあいにく傭兵の自分には使い道がない。
「まあ、そう言うなって。お前さんの仕事ぶりにはいつも助けられてっからさ。俺からの気持ちだと思って、受け取ってくれよ!」
そう言ってグイードが差し出した品を見て、リサは絶句した。
黒い光沢を放つ鉄の骨。面には竜と虎の姿が金糸で刺繍されている。
手に取ると、普通の扇よりも重量感があった。見事な造りの鉄扇である。
なるほど、これならいざという時に攻撃を受け止めたり、敵の急所を突いたりもできるだろう。
(……って、雅の欠片もありませんけれどね!)
確かに傭兵のリサにとっては、ある意味ありがたい品ではある。
だが、これでも一応は年頃の乙女なのだ。いくら荒事稼業の身の上とはいえ、このグイードからの贈呈品を手放しで喜ぶ気持ちには到底なれなかった。
「ありがとうございます。そうですか、これが元締の『お気持ち』なのですね」
「……へ?」
満面の笑みを浮かべて礼を述べつつ、少し言葉に棘を含ませてみた。
その空気を察したグイードが、不意を突かれたように目を丸くさせる。
「私のような無骨な傭兵女には、雅な扇子よりもこのような武器がお似合い、ということでございますね?」
「……あ、いや、ちょっと待てよ、リサ」
先程の求婚に対する、ほんのささやかな仕返し。
本気で口説いていたわけではないのですよね、と遠回しに責めてみる。これぐらいのことをしても問題はないだろう。
普段は見せないであろう狼狽した様子に、護衛の誰かがぷっと吹き出した。他の護衛たちも肩を微妙に震わせて、忍び笑いを堪えているのが目の端に映った。
グイードがきっと睨むと、彼らは一斉に元の鉄仮面のような表情に戻る。
少し子供っぽいところもある元締であるが、それもまた彼の魅力の一つとリサは感じていた。
何を考えているのか分からない、という人物よりもよほど信用はできる。
もっとも、デリカシーはいま一つ足りない感じだが。
やり込めたところで満足したリサは、
「それでは元締、そろそろお暇させていただきますね」
報酬の入った麻袋と鉄扇を手に、優雅な物腰で礼をした。
「……おう、お疲れさん。それにしてもお前さん、つくづく喰えねえ女だよなぁ」
呆れた様子のグイードを尻目に、分厚い絨毯の敷かれた部屋を退出した。
(ふふ、喰われてたまるものですか)
(続く)
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