金魚鉢16 復讐~亜人密談

「ラタバイ爺が死んだ……」

 壁一面が青く光る水槽すいそうおおわれていた。その淡水魚たんすいぎょが泳ぐ水槽を背にして、オーアが重い口を開く。眼を歪めるオーアの声は、かすかに震えていた。

 その言葉にフクスは息を呑む。

 オーアの前にはミーオがいる。水槽の中にいる銀魚ぎんぎょたちが体を翻し、水が揺らぐ。その水影がミーオの体に反射していた。

 そんなミーオを、天井に吊るされたガレの銀魚ランプが照らしていた。ミーオの後方にいるフクスは、不安げに狐耳をたらすことしかできない。

「やっぱり、そうなるのね……」

 冷たいミーオの言葉が聞こえて、フクスはびくりと狐耳を震わせる。フクスの怯えを感じ取ったのか、ミーオが顔をこちらへと向けてきた。

 瑠璃色るりいろの眼を煌めかせ、ミーオは艶然えんぜんと微笑んでみせる。その笑顔が恐ろしく感じられ、フクスは自身の体を抱いていた。

 ミーオが悲しげに眼をゆらし、顔をらしてみせる。罪悪感を覚え、フクスは自分をいっそう強く抱きしめていた。

 父親が死んでから、ミーオはよく笑うようになった。人を嘲笑あざわらうような不気味な笑顔を彼女は浮かべるようになったのだ。

 そして今日、ミーオはフクスにこんなことを言ってきた。

 レーゲングスの敵をとるために、金魚鉢を壊そうと――。

 そして、ミーオはフクスをともない金魚鉢の地下へとやって来た。オーアと大切な話があると嬉しそうにフクスに語りながら。

 そして、オーアはフクスにこう告げたのだ。

 金魚鉢が、亜人のものでなくなると。

「知っての通り、ラタバイ高官は総督府そうとくふの中でも私たち亜人に理解のあるお方だった。特にミーオに関しては、指の一本も触れずに孫のように話をするだけの仲って異常さだ。その人が、亡くなった……」

 オーアは手にしていた書類を、目の前にある机に放り投げた。類はばらばらになり、何枚かの白黒写真が資料の隙間すきまから顔を覗かせる。フクスは身を乗り出し、その写真を眺めた。

「フクス……」

 ミーオの腕がフクスをせいする。それでも視界に飛び込んできた白黒写真の一部を見て、フクスは狐耳を逆立てていた。

 黒ずくめの男たちが、床に倒れる老人を取り囲んでいる。その老人にフクスは見覚えがあった。高官のラタバイだ。

 そして彼はオーアの――

 フクスはオーアに顔を向けていた。ぎゅっと唇を引き結び、オーアはうつむいている。彼女の体は何かにえるように震えていた。

 ラタバイの好々爺然こうこうやぜんとした笑みをフクスは思い出していた。自分のことを孫のようだと言ってくれた優しいおじいちゃんだった。

 フクスはラタバイにはよくおしりを触られたものだ。フクスがびくりと狐耳を動かすたびに、君はいい子が産めるねなんてラタバイは冗談じょうだんをよく口にしていた。

 レーゲングスの会社からたくさんブーゲンビリアのかんざしを買って、フナの少女たちに贈ってくれたことある。

 ――君たちはね、私の孫のようなものだよ。

 そう笑っていた人はもういない。

 そして、その人を死に追いやったのは――

「兄さんを殺した人たち……」

「フクス……」

 ミーオの腕が力なくたれさがる。フクスは、ふらりとした足取りで机へと向かっていた。視界に映る白黒写真を手に取り、そこに映り込む男たちを食い入るように見つめる。

 フクスの脳裏に、あの夜の光景がよみがえる。

 色のない翠色の眼をフクスに向けながら、谷底へと落とされていったレーゲングス。兄の死を、フクスは怯えながら見つめることしかできなかった。

「こいつらが、全ての黒幕だ。私たちを屈服させるために、総督府は手段を選ばないらしい。その見せしめに、お前の兄さんとミーオの父親は殺されたんだろうよ……」

 机に散らばった資料をでながら、オーアは小さく答える。彼女の後ろを大量の銀魚が通り過ぎていく。銀魚たちはオーアの顔に不気味な影を落としていった。

「ラタバイ爺は私たち亜人のために金魚鉢の自治を残そうと躍起やっきになってた。もちろん、私とミーオも協力したよ。でも、それが裏目に出た……。奴らは目障めざわりになった爺への警告として、お前の兄貴を殺したんだろうよ。でも、爺はそのくらいじゃへこたれない。結局、私たちのせいで命を落としちまった……」

「そんなことのために、兄さんは殺されたの……?」

 フクスは色のない言葉を発していた。じぃっとオーアを見つめても、彼女は何も答えてくれない。

 ぶわりと、どす黒いものがフクスの内側から込み上げてくる。体中の毛を逆立て、頭を熱する怒りをフクスは怒声どせいに変えていた。

「うわぁあああああああぁ!!」

 咆哮ほうこうとともに涙が頬を伝っていく。ゆがんだ視界に男たちの写真を映し込み、フクスはなおもえ続けた。

「殺してやるっ! 殺してやる!! 殺してやる!! 殺して――」

「フクスっ!」

 りんとした声がフクスの声を阻む。温かな感触を背中に感じ、フクスは我に返っていた。後方へと首を巡らせると、蒼い猫耳が視界に入り込んでくる。

 ミーオがフクスを抱きしめていた。彼女の猫耳は小刻みに震えている。フクスは驚きに眼を見開くことしかできない。

 そっとフクスから離れ、ミーオは口を開いていた。

「オーア、本当にフクスも巻き込むの?」

「そのつもりで、お前はフクスをここに連れてきたんだろ?」

 不遜ふそんな笑みがオーアの顔に浮かぶ。対するミーオの表情は、俯いていて窺うことができない。

「巻き込むって、何?」

 色のない声で、フクスはオーアに尋ねていた。腕を組み、口を吊り上げたオーアは笑みを深めてみせる。

「何、総督府のお偉いさんたちのために、でっかい花火をあげる相談をしてるだけだよ。その宴の席には、もちろんこいつらも招待しょうたいされる」

「それって……」

「なぁ、フクス……。少し早いがお前をキンギョにしようと思う。世にも珍しい赤狐が抱けるんだ。総督府のお偉いさんたちも、ご満悦だろうよ。その狐が大事なアソコをを噛みちぎるかもしれないのになぁ」

 くつくつと体を震わせながらオーアが嗤う。

「金魚鉢でね、お父さんが残してくれた花火をあげるの。でも、その花火が特別な花火だったらもっと素敵だと思わないフクス。七色に輝いて、とっても綺麗きれいだろうな……」

 後ろにいるミーオがうっとりと言葉を紡ぐ。フクスが後方へと振り向くと、ミーオは瑠璃色の眼を輝かせ、微笑みを浮かべていた。

 光り輝く瑠璃湖のように、美しい笑みを。

「ねぇ、フクス。一緒に花火上げようよ?」

 こくりと首を傾げ、ミーオはフクスに尋ねてくる。

「なぁ、フクス。赤狐みたく、金魚みたく、真っ赤で美しい花火を見たいと思わないか? その花火を一緒にあげないか? みんなの了承りょうしょうはもうとってある。あとは、お前が頷けば万事解決だ」

 オーアが手を差し伸べ、妖艶ようえんに誘いの言葉を発してくる。オーアの言葉に、フクスは目眩を覚えていた。

 復讐ふくしゅう――。

 その2文字がフクスの脳裏を駆け巡っている。ミーオとオーアはかたきを取れとフクスを誘っているのだ。

「さぁ、どうする、赤狐? 逃げても隠れても、私たちはお前を責めたりはしない。お前は自由だ。自由を手に入れられるんだ。その自由を捨てて、私たちとともに歩む勇気がお前にあるか?」

 囁くように、オーアが狐耳に問いかけてくる。その言葉に引き寄せられるように、フクスはオーアの手を取っていた。

「私は、自由なんていらない……。自由なんて、そんなものどこにもないっ!」

 声が震えてしまう。それでもフクスはオーア手を強く握り締め、己の覚悟を彼女に示す。

 レーゲングスを失ったあの瞬間から、フクスの心は決まっていた。

 自由などいらない。ただ、兄を殺した奴らを許すことはできない。

「あっははははあぁっはははぁはは!」

 突然とつぜん、オーアが笑い出す。フクスは狐耳をびくりと立ち上げていた。片手で腹を抱え、前かがみになるオーアは言葉を続ける。

「それでこそ、私の赤狐だ!! あぁ、本当にいい買い物をしたよぉ! お前は最高のキンギョだよぉ、フクス!!」

 顔をあげ、涙に濡れた笑い顔をオーアはフクスに向けてくる。ひとしきり笑ったあと、オーアは深呼吸をして、こうしめめくくった。

「我ら亜人の未来のために。消えていった同胞どうほうたちのために。この金魚鉢の存在とほこりを守るために。私たちが私たちであり続けるために。共に金魚鉢を壊そう、新たなる同士フクスよ」

 涙に濡れたオーアの眼に笑みが浮かぶ。彼女の慈愛じあいに満ちた眼差しから、フクスは眼を離すことができなかった。



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