第290話 闇の先の未来③
夜の公園は、再び静寂に包まれていた。
リノは、茫然とした眼差しで少年を見つめていた。
「え、えっと」
ややあって、コウタは彼女の頬から手を離した。
「その、リノは嫌かな?」
「い、いや……」
リノは言葉を詰まらせた。
様々な感情が胸中で交錯する。
彼女はただただ、忙しく視線を動かしていた。
そしてしばらくすると視線を隠すように、ぷいっと横を向き、
「い、嫌ではない……」
そう告げた。
「も、元は、わらわから言い出したことじゃしの……」
――自分を奪え。
心も身体も力も。すべてを奪い尽くし自分のものにせよ。
それは、リノ自身がコウタに告げたことだった。
その願いに偽りはない。
「……ありがとう。リノ」
コウタは、彼女の両手を力強く取った。
リノは顔を上げる。
彼女の顔は、月明かりだけでも分かるぐらいに真っ赤だった。
「もう一度、ここで誓うよ」
コウタは告げる。
「ボクは君を離さない」
「コ、コウタ……」
リノの顔が、さらに赤くなる。
「そ、そのな……」
そして、もじもじと周囲に視線を向ける。
ここには今人が誰もいない。木々も多く、視界も遮られる場所だ。
その事実が、リノを激しく動揺させた。
「わ、わらわを奪うのか?」
「うん。奪うよ」
コウタは力強く頷く。
「い、今すぐにかの?」
「今すぐにだよ」
これにも揺るぎない声が返ってくる。
コウタの瞳は、真っ直ぐリノを見つめている。
メルティアとリーゼぐらいしか知らないコウタの強欲で強情な一面だ。
リノは今、それに容赦なく晒されていた。
こうなった時のコウタは本当に一歩も退かない。
「君を《黒陽社》なんかに絶対に帰さない。ボクは君を奪う。たとえ、今ここで君が全力で拒絶したとしてもだ」
(……ううゥ)
その宣言は、リノの胸が否応なく高鳴らせた。
自分の存在が全力で望まれている。
そのことが、はっきりと伝わってくる。
「……リノ」
コウタは、さらに畳みかけてくる。
リノを両腕で、ギュッと抱きしめたのだ。
左腕を彼女に背に、右手を彼女の髪に添える。
「……君を失いたくない。ボクが君を守るよ」
それは、まさに必殺の。
完膚なきまでに殺しにかかった文句だった。
メルティア、リーゼ、アイリ。
そして、ジェシカも。
仮に彼女達がその台詞を告げられれば、一発で落ちることだろう。
抗える道理がない。
(……うぐうゥ)
それは当然、リノもだった。
もはや胸を高鳴りは留まることを知らなかった。
そして同時に理解する。
――自分はもう彼から離れられない、と。
こんな感情を知ってしまっては、彼から離れるなど不可能だ。
もし、引き離されたりすれば、絶望的な消失感で心が死んでしまう。
リノはキュッと唇を強く噛む。
「……わらわは《黒陽》の娘ぞ」
「……知っているよ」
「……わらわ自身も犯罪者じゃ」
「……分かっているよ」
コウタは、優しく彼女の長い髪を撫でた。
リノは言葉を続ける。
「……父上や《黒陽社》は無論、世間さえも敵に回すかもしれんぞ。ラゴウなど真っ先に立ち塞がるじゃろう」
「……それも覚悟しているよ」
コウタは穏やかに笑う。
「それでも、君と一緒にいたいんだ」
「……わらわは」
「……君は」
コウタは、最期にもう一度、リノに問う。
「ボクの傍は嫌かな?」
「………」
リノは数瞬、無言だった。
しかし、ややあって、かぶりをはっきり振った。
「……ありがとう。リノ」
コウタは、ホッとするような笑顔を見せた。
「これからは、ずっと一緒だ」
言って、両腕からリノを解放する。
彼女の頬やうなじは、湯気でも立ちそうなぐらい紅潮していた。
――そう。この時こそが。
傾国の雛鳥が、悪竜の騎士を唯一の止まり木として選んだ瞬間だった。
リノは、しばしコウタの顔を見つめて呆けていたが、
「コ、コウタよ」
不意に、キョロキョロと視線を泳がせた。
「その、で、では、早速わらわを奪うのか?」
「………え?」
コウタは、キョトンとする。
リノは耳まで真っ赤にして言葉を続ける。
「ば、場所は宿をとるとして、その、覚悟はしておったが、実のところ、わらわはまだ経験がなくての。そ、その、優しくして欲しい……」
「え? リノ?」
「い、いや! 奪えと言ったのは、わらわじゃし、べ、別に、多少手荒くても受け入れる所存じゃが、その、やはり初めては不安というかなんというか!」
そこまで言われて、コウタはようやくリノが何を告げているのか理解した。
「リ、リノ!?」
コウタは一気に青ざめた。
「ち、違うからね!? 奪うって言っても、その、違うからね!?」
強気から一転、いきなり日和るコウタ。
「その、リノを裏の世界から、表の世界に連れて行くって意味で、その……」
徐々に消えていく言葉の端。
自分でも情けなさを感じていた。
「……お主な」
リノはコウタにジト目を向けた。
「あそこまで言っておいて、今さら日和るのか。まったく」
しかし、リノは特段不機嫌ではなかった。
むしろご機嫌のように見える。
照れはやや収まったようだが、喜びが隠しきれないでいる。
「まあ、よいわ」
彼女は、コツンと指先でコウタの額をつついた。
「どうせ、これからはずっと一緒じゃ。それはもう遅かれ早かれじゃな。まずは――」
リノは、公園の外へと足を向けた。
コウタが「リノ?」と尋ねると、
「――行くぞ! コウタ!」
振り返って、満面の笑みを見せる。
「ラゴウとの待ち合わせまでは、まだそこそこの時間がある! ならば、夜のデートと行こうではないか!」
「い、いや、デートって……」
コウタは、困惑した表情を浮かべた。
「多分、今夜、あの男と戦うことになるんだよ」
《九妖星》の一角にして社長令嬢を奪おうとしているのだ。
当然、ラゴウとは交渉など出来ない。戦闘は必然だろう。
コウタにとって初めて出会った格上の強敵。
あの《金妖星》ラゴウ=ホオヅキとの再戦が待っている。
「だからこそ英気を養うのじゃ」
リノは告げる。
「意気込みすぎてもいかんからの。いや、そうじゃのう……」
そこで、彼女は頬に指先を当てて妖艶に微笑んだ。
「さっきの話の続きじゃ。いっそデートはなしにして宿をとるか? これから、わらわをお主の女にしてしまうのもよいぞ」
「リ、リノ!」
コウタは、赤い顔で彼女の名を呼んだ。
リノは「アハハ!」と笑って、公園の出口へと走り出す。
コウタは、唖然として彼女の背中を見つめていた。
「では、先に行くぞ! コウタ!」
そう告げる彼女の背中は、すぐに見えなくなった。
一人残されたコウタは、ふうっと息を吐いた。
そして、公園から一望できる街並みに目をやる。
コウタは、静かに双眸を細めた。
(……ラゴウ=ホオヅキ)
恐ろしいほどの実力を持つ強敵だった。
あの男の強さは、今も骨身に沁みている。
かつてメルティアを奪おうとした男。
それが今回は全くの逆だった。
(まさかリノを奪うために、あの男と再戦するなんて……)
これもまた運命なのだろうか。
二度に渡って大切な人を賭けることになるとは――。
ただ、今回はメルティアの時と大きく違うところもある。
あの時のラゴウは、どこか『遊び』があった。
しかし、今回は違う。
恐らくあの男は全力で牙を剥いてくる。
なにせ、主君の愛娘が懸かっているのだ。
メルティアの時のような『遊び』は一切期待できないだろう。
紛れもない最強の敵の一人。
苦戦は確実だった。
だが、それでも――。
「……ラゴウ=ホオヅキ。今日、ボクは」
グッ、と拳を握りしめる。
「お前を越える。必ず倒してみせるよ」
決意を固めるコウタだった。
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