第248話 いざ、クライン工房へ③
――同時刻。
「……ふう」
その時、彼女は重い足取りで階段を降りていた。
凜々しい顔立ちの美しい女性だった。
歳の頃は二十代前半か。
紫がかった紺色の髪に、同色の瞳。
古傷でもあるのか、右側のみ白いスカーフ状の眼帯を付けている。腰にはアロン大陸でよく使用される小太刀と呼ばれる短剣。身に纏うのは漆黒の
「やれやれだ」
狭い階段を降りきったところで、彼女は片手を壁に付けた。
ただ階段を降りただけで、随分と疲れてしまった。
正直に言えば、ベッドから起き上がるのも億劫だったぐらいだ。
腰にまるで力が入らない。
(……むむ。ここまで消耗するものなのか)
思わず渋面を浮かべる。
美しい容姿からは想像しにくいが、彼女は超一流の傭兵だ。
数多の戦場をくぐり抜けた体力には、それなりの自信がある。
しかし、そんな彼女が今は疲労困憊だった。
原因は分かっている。
とても、よく。
「~~~~~~~っっ」
彼女は耳まで真っ赤にして俯いた。
が、ややあって、少しぎこちない様子で歩き出す。
階段から降りたその場所は、鎧機兵が数機待機している。
彼女が居候している工房の
そこには、工具を片手に鎧機兵のメンテナンスに勤しむ青年の姿もあった。
白いつなぎ姿の、二十代前半ほどの青年だ。中肉中背の鍛え上げられた体。最も印象的な特徴としては、毛先のみがわずかに黒い白髪か。
彼女にとって、最も特別な青年である。
すると人の気配を感じてか、彼が振り向いた。
「おっ、起きたのか、オト」
「う、うむ。クライン」
彼女――オトハ=タチバナが頷く。それに対し、青年――アッシュ=クラインは、作業を止めると、工具を近くの作業机の上に置いた。
「まだ寝てても良かったんだぞ」
「そうもいかないだろう。今日は客人も来るのだぞ」
言って、オトハはアッシュの元に歩み寄るが、その足取りはとても頼りなく、ひょこひょこといった様子であった。
アッシュは、少し眉根を寄せた。
「大丈夫か? 随分としんどそうだぞ」
すると、オトハは、
「その原因たるお前が言うのか?」
ムッとした表情で青年を睨み付けた。
アッシュは気まずそうに、頬をかいた。
「……まったく。私は初めてだと言ったはずだぞ」
「……いや、悪りい」
ますます気まずそうに笑う。
「マジで久しぶりだったからな。加減がちょっとな」
「それでもあれはやり過ぎだ。何回意識が飛んだと思っているんだ」
オトハは、ぶすっとした表情を見せる。
しかし、怒っている訳ではない。むしろ心は喜びで満ちている。
これは、ずっと彼女が願っていたことだからだ。
「マジで悪かったって」
アッシュはそう言って、ボリボリと頭をかいた。
オトハは「ふん」と鼻を慣らした。
「少しはまともな顔になったか」
「ああ。感謝しているよ。おかげで随分と吹っ切れたよ」
アッシュは笑う。
昨晩の自分は、相当落ち込んでいたものだ。
(まったく情けねえよな)
アッシュは、内心で渋面を浮かべた。
昨日、久しぶりに再会した友人から告げられた事実は、衝撃的だった。
――まさか、弟が生きていたとは……。
そのことは、当然ながら嬉しい。
死別した家族が生きていると聞いて、嬉しくない者はいないだろう。
ましてや可愛がっていた弟なのだ。
だがしかし。
(昨日まで、全くそのことに気付かねえとはな)
深々と嘆息する。
あまりにも情けない話だった。兄失格と言える。
正直なところ、どんな顔で弟と再会すればいいのか分からなかった。
ここまで気分が沈み込んだのも、久しぶりのことだった。
だが、それがここまで吹っ切れたのは、すべてオトハのおかげだった。
昨夜、落ち込んでいた自分に発破をかけ、激励し、そして自分の想いを、全身で受け止めてくれた彼女のおかげだ。
「本当にありがとうな。オト」
「う、うむ。き、気にするな」
オトハは赤い顔で言う。
「そ、それに、まあ、合意のことだったしな」
「……オト」
アッシュは真剣な顔した。
そして、オトハの腰をグイッと抱き寄せた。
「ク、クライン?」
続けて、彼女を腕の中に収める。
「悪りい。俺は、サクのことは忘れられねえ」
「………そうか」
「けど、お前のことも本当に大切なんだ。絶対に手放したくねえ」
言って、ギュッとオトハを強く抱きしめる。
「マジで悪りい。男らしくねえよな」
「……お前ときたら」
オトハは、口元を綻ばせた。
そして顔を上げて、吐息もかかる距離でアッシュの顔を見つめる。
「構わんさ。私はすでにお前の女だ。心も体もな」
そこで、ふふんと鼻を鳴らす。
「昔の女だろうが、これからドンドン増えようが一向に構わん。その中で私が一番として君臨するだけだからな」
「いや、待てよ。何だよ、そのドンドン増えるって」
アッシュは、オトハを離して苦笑した。
「流石に、俺はそこまで節操なしじゃねえよ」
――死別した恋人を想うことを許して欲しい。
ただ、そう告げたつもりだったのだが、随分と内容が飛躍している。
「いや、何というか、これはもう確定しているような気がするからな」
と、オトハは小さな声で呟いた。
「まあ、ともあれだ」
オトハは、くるりと背中を向けた。
「私は朝食の用意をしてこよう。お前はキリのいいところまで仕事をしていろ」
「ああ、分かったよ」
アッシュは、手を上げた。
オトハは、まだぎこちない様子で、再び二階に上がっていった。
一人、作業場に残ったアッシュは、おもむろに外に向かった。
門戸をくぐると、日差しが目に入る。
瞳を細めた。
空は蒼く、太陽は燦々として眩しい。
とても、心地よい朝だった。
「いい朝だな」
心は落ち着いている。
もう動揺もない。
オトハのおかげで、気持ちは万全となった。
今なら弟の顔を、真っ直ぐ見ることも出来るだろう。
「さて。いよいよだな」
空を見上げたまま、アッシュは口元を引き締めた。
「俺は、ここで待っている。いつでも来な。コウタ」
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