第195話 贄なる世界⑥
「――カハッ!」
どうにか息を吐き出す。
数分後、ジェシカは森の一角に倒れていた。
全身が酷く痛む。重傷は負っていないようだが、衝撃に強いはずのラバースーツはボロボロだった。あちこちが破れ、血が微かに滲む素肌が見えている。
(コウタさんがこれほどだったとは……)
痛みに耐えてジェシカは木の幹に背中を預けた。
体勢を変えたことで少し楽になり、思考も少しは冴えてくる。
(やられたな)
彼女の相界陣は見事に粉砕されてしまった。
あの少年の強引さは先のやり取りから知っていたつもりだが、ここまで力技で押してくるとは思いもよらなかった。
(いや、案外私が彼を不機嫌にさせてしまったからか)
皮肉混じりにそんなことも思う。
いずれにせよ、これで試練は終わった。
やはり彼は本物だったと盟主にご報告すれば任務完了だ。
(……急ぐか)
ジェシカは痛む身体を押さえて歩き出す。
どうにか、最後の転移で距離を稼ぐことは出来た。
後は早くここから撤退しなければならない。
(私が捕まっては姫さまにご迷惑をかけてしまうからな)
ゆっくりと。
けれど立ち止まることなく歩を進めていく。
(……?)
しかし、不意にジェシカは気付いた。
どれだけ進んでも森を抜けれないのだ。
そして、ふと一つの木に目がいった。
先程から必ず目に入る木だ。
何故なら、その木には幹の部位に血痕が染みついているからだ。
「獣の血か?」
ジェシカはゆっくりとその木に近付き――ハッとした。
「ば、馬鹿な……この木は」
『そうだ。ここはお前と私が初めて出会った場所だ』
不意に聞こえた男の声に、ジェシカは目を見開いて振り返った。
そして愕然とする。
「せ、せんせい……」
『久しいな』
そこには黒いコートを羽織るひどく痩せこけた男がいた。
彼女の暗殺の師であり、この手で殺した男だった。
その証拠なのか、師の喉元には今も血が溢れる創傷があった。
「ど、どうして先生が……」
と、ジェシカが呟くが師の返答は苛烈だった。
――ドンッ、と。
いきなりジェシカの腹部を殴打したのだ。
ラバースーツが裂けた箇所を強打されたジェシカは「カハッ」と両膝を付く。
続けて師は彼女の鉄仮面をはぎ取り、後ろに投げ捨てた。玉のような汗をかくジェシカの顔が晒される。師は容赦なく彼女の髪を掴んだ。
『お前など拾うのではなかった』
そして忌々しげに吐き捨てる。
『まさか師である私を殺すとはな。この恩知らずが。だが、私は怨嗟に塗れつつもこの瞬間を待っていたのだ』
言って、師はジェシカの頬を強く叩いた。
彼女は抵抗も出来ず地面に投げ出される。
『ずっと相界陣に囚われたたまま、お前の人生を見てきた。知っているぞ。お前はまだ何も失っていないのだろう』
そう告げて、呻きながら倒れ伏すジェシカに馬乗りになる。そして師は彼女の胸元に手をやると、人間とは思えない膂力で強引にスーツを引き裂いた。
『あの日の続きだ』
師は狂気に満ちた笑みを見せる。
ジェシカは目を見開いて「え?」と呟く。
『これからお前のすべてを奪ってやる。復讐だ。お前が私を殺してまで奪われまいとした純潔も。そしてお前の命もな』
「ッ!」
師の宣告にジェシカは青ざめる。
が、すぐに表情を険しくすると「ふさけるな! 亡霊ごときが!」と吐き捨てて師の顔を殴りつけたのだが、全く通じず逆に頬を再び叩かれてしまった。
『まずはプライドが先だったか。お前は私には勝てない』
言って、師は再び彼女の頬をパンと叩いた。
さほど重くない一撃。
けれど幼き日のトラウマからか、ジェシカはそれだけで身を竦めた。
『もう一度言うぞ。お前は私に勝てない』
言って師は、今度は彼女の胸元に手を入れ、相界陣のキューブを取り出した。
「あっ!」と声を上げるジェシカをよそに、師は『くだらない道具だ』と吐き捨て遠くへ投げ捨てた。
『これでお前は私を消すことも出来ない』
「お、お前はやはり相界陣の……」
『仮初めの力に溺れたな。どこまで行っても愚かな娘だ』
師は彼女の頬を叩いた。さらに二度、三度。
痛みと恐怖から、ジェシカの瞳に涙がにじむ。
彼女が抵抗するたびに平手打ちは続いた。
幼き日、幾度となく繰り返されてきた師の折檻だ。
「い、痛い、や、やめて! もうやめてええええええッ!」
そして遂には悲鳴を上げるジェシカ。
その表情は恐怖に歪み、完全に無力だった少女の頃に戻っていた。
『黙れ。この愚図が』
だが、それでも容赦なく師は彼女の頬を叩いた。
「ご、ごめんなさい。先生……」
ジェシカは顔を両腕で覆った。
小刻みに肩を震わせているが、もう抵抗する素振りもない。
『ふん。本当に愚か奴だな。泣き叫ぶことなどに何の意味もない』
弟子の愚かさを侮蔑しつつ、亡霊はようやく観念した彼女の胸に手を近付ける。
――と、その時だった。
「……そうかな? 怖い時、苦しい時に声を上げるのは必要なことだと思うよ」
不意に響く第三者の声。
ジェシカはもちろん、師の亡霊も硬直した。
亡霊は『チイィ!』と舌打ちしてその場から跳躍するが、初動が遅すぎた。退避は間に合わず次の瞬間には顔を殴りつけられていた。
『――があっ!』
首がへし折れるのではないかと思えるほどの強い衝撃。
亡霊は二度三度と地面を転がって、ようやく倒れ込んだ。
そして『き、貴様は……』と呻き、自分を殴りつけた少年を睨み付ける。
黒髪の少年はジェシカを守るように立っていた。
「……相界陣の暴走か」
少年――コウタはまじまじと亡霊を見つめた。
「死を弄ぶ。やっぱりこの道具は気に入らないな」
そう呟いて、今度はジェシカの方に目をやった。
彼女は酷く傷ついていた。身体もそうだが、それ以上に心がだ。
コウタは少しだけ悲しそうに双眸を細めた。
そして亡霊に告げる。
「失せろ。二度と彼女の前に現れるな」
『ふん。訊けん相談だな。私はその女を――』
そこで亡霊は息を呑んだ。
少年の背後に処刑刀を携えた悪竜の騎士が佇んでいたからだ。
操手である少年は搭乗していない。だというのに、悪竜の騎士はまるで意志でも持っているかのような鋭い眼光で男を睨み付けていた。
「お前の事情なんて聞いていないよ。とっとと失せろ。でないと――」
《悪竜》を従える少年は亡霊に宣告する。
「お前の魂を喰らい尽くすぞ」
――ただ、その一言だけで。
師の亡霊は愕然とした表情のまま、欠片さえも残さず消えてしまった。
あれほど恐ろしかった師があっさりと……。
その様子を、ジェシカは呆然と見つめていた。
すると、コウタは彼女の前で片膝をつく。
「大丈夫ですか? ……ジェシカさん」
彼は静かな眼差しでジェシカを見つめていた。
ジェシカは答えるのを躊躇っていたが、
「……ええ。大丈夫です」
そう告げて、痛む身体をゆっくりと起こした。
だが、一度折れてしまった心にすぐさま立ち上がるような気力は出せない。「ぐ、う」と呻き、その場にペタンと座り込んでしまう。
「無理はしないで。ボクが言うのも何だけど相当な怪我を――」
ジェシカの怪我の具合を確認していたコウタだったが、そこで慌てた様子で視線を逸らした。少年の態度にジェシカは眉根を寄せる。そして直前まで彼が視線を向けていた箇所に目をやった。
(ああ、なるほど)
納得する。
ジェシカの今の姿は無残なものだった。
特にラバースーツが限界だ。腹部の損傷と、亡霊に切り裂かれた胸元が繋がり、へそ辺りから首筋までの前面が露わになっている。左右に割けたスーツの隙間から大きく実った果実が今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。
これは、いささか少年には刺激が強かったのかもしれない。
しかし、ジェシカにとって肌を晒すことまでは日常茶飯事だった。
自分の身体は標的の油断を誘う道具だ。
仮に全裸を見られたところで、今さら動じたりはしない。
――そのはずだった。
(…………え?)
ジェシカは困惑した。
不意に首筋に熱を感じたのだ。
その熱は一気に全身を駆け巡った。特に顔は痛みを感じるほどに熱い。
(こ、これは一体!?)
自分の起きた異常事態にジェシカは動揺した。
そして混乱したまま顔を背けるコウタの横顔を凝視する。
途端、全身の肌がさらに熱を帯びた。
(!? ッ!?)
いつしか彼女は自然と自分の胸元を両腕で隠していた。
こんな仕草を芝居ではなく無意識でするのは初めてのことだった。
今やジェシカの顔は真っ赤になっていた。
すると一方でコウタも流石に気まずさを感じたのか、自分の腰に巻いていた白い
「と、とりあえずこれで」
「す、すみません。コウタさん」
このままでは話が進まないので、ジェシカは素直に彼の
「……ジェシカさん」
彼女が落ち着いてくのを見計らってコウタが本題を切り出した。
「正直言って、まさかあなただったとは思いませんでした」
言って視線を地面に落ちている鉄仮面に向けた。
「教えてください。あなたは一体何者なんですか?」
「それは……」ジェシカは数瞬躊躇った。「申し訳ないが答えられない」
「……ジェシカさん」
「もうあなたから逃げられないのは理解しています。だが、それでも私は口を割らない。例えいかなる拷問を受けてもです」
ジェシカにとってサクヤは特別だった。
自分の失態で彼女に迷惑をかけるぐらいなら死を選ぶつもりだった。
「………………」
コウタは凜々しい眼差しを見せるジェシカをしばし見つめた後、嘆息した。
「分かりました」
そして決断する。
「行ってください。ボクは引き止めませんから」
「………え?」
ジェシカは目を丸くする。
「どういうつもりです? わざわざ捕虜を逃がすと?」
「あなたが口を割らないのは目を見れば分かります。けど、あなたを捕らえれば尋問しなくちゃいけない。ボクはそれをしたくない」
コウタは苦笑を零した。
ジェシカは「ふん」と鼻で笑った。
「それはまた随分と甘いことですね。そんなことでは、どれほど強くともいつか敵に足下をすくわれますよ」
「それも分かっています。でも、これがボクの生き方なので。せめて足下には充分気をつけるつもりです。けど、それとは別に……そうですね。今回の『試練』とやらをクリアした報償に一つだけ失礼なことを許してください」
言って、コウタはすっと右手を軽く上げた。が、そこで少し指先が躊躇う。何をするつもりなのかとジェシカが訝しむと、
「………ふゥ。よし」
覚悟を決めたのかコウタは小さく息を吐き、ジェシカの頭に手を伸ばした。
そして「すみません。失礼します」と告げて彼女の髪にそっと触れた。
ジェシカは目を丸くした。
「……コウタさん? 一体何を?」
「すみません。年上の方に。だけど、見ていてあなたはとても辛そうだったから。さっきの亡霊があなたにとってどんな人物なのかは知りません。けど、それでも、あなたがいま凄く傷ついていることは分かります。だから……」
コウタは真剣な面持ちを向けた。
「どうか辛いのなら辛いと言ってください。もう我慢しなくてもいいから」
そう告げられた途端。
ジェシカの心が――心を覆う氷がピシリと割れた。
同時に、次々と過去の凄惨な出来事が脳裏を過ぎ去っていく。
どれもこれも血に塗れた記憶だ。
ジェシカの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「ふ、ふざけるな! 私は!」
「ジェシカさん」
彼女の拒絶を前にしてもコウタは揺るがない。
いつか約束したようにその手を離さない。
「怖い時、苦しい時には声を上げてもいいんです。きっと誰かに届くから。泣きたい時には泣いたっていいんですよ」
「……あ」
ドクン、と心臓が強く脈打った。
少年の指先が彼女の髪をゆっくりと梳かす。
心の氷に大きな亀裂が走った。
そして――。
「う、うあ……」
とうとう唇から零れる嗚咽。
もう涙を止めることも出来なかった。
「うあああああァああああああああああああああああアァアァ――………」
ジェシカは声を上げて泣き始めてしまった。
幼き日に凍り付いた心が、暖かい雨で溶けていくように。
コウタはそんな女性の髪を優しく撫で続けた。
慟哭だけが森の中に響く。
そうして数分が経ち――……。
「……少しは気が楽になりましたか?」
穏やかな声でコウタが尋ねる。
「え、ええ、すみません。コウタさん」
ジェシカは気恥ずかしそうに視線を逸らしつつ、立ち上がった。
「見苦しい醜態を見せてしまいました」
「いえ。そんなことはないですよ。むしろボクこそ失礼な真似をしました」
と、コウタも少し顔を赤くして告げる。
メルティアを筆頭に日々女の子の髪を撫でることが多いコウタではあるが、流石に年上相手にこんな真似をした経験はない。
「ま、まあともかく」
コウタから借り受けた
「見逃してくれるなら有り難い。私はもう行きます」
「はい」コウタは頷いた。「ここで捕らえてもあなたは何も語らないでしょうから」
「…………」
ジェシカは「その通りです」とは答えなかった。
確かに先程までは拷問・尋問に耐える自信があった。
しかし、今はもう無理だった。きっと耐えられない。
ただ、彼に頭を優しく撫でられるだけで――。
心に備えた鋭利な棘が、一本一本削ぎ落とされるような気がした。
一晩もあれば、丸裸にされてしまうと本気で思った。
(……ふう)
身体に籠った熱を吐き出すように嘆息する。
「では、私は行きます」
これ以上、ここにいてはいけない。
どんどん離れ難くなってしまう。強くそう思った。
ジェシカはまだ少しばかりふらつく足取りで歩を進めていく。こっそりキューブを回収するのも忘れない。が、そんな時だった。
「あの、ジェシカさん。最後に一つだけ教えてください」
コウタがわずかに不安を宿した声で尋ねてきた。
「……なんでしょうか?」とジェシカが尋ね返すと、
「サクヤ姉さんのことです。あなたは姉さんの友達だというのは本当ですか?」
「それは……」一瞬返答に困るが、
「ええ、そうです」
ジェシカは首だけ振り向かせて、はっきりと答えた。
「それに偽りはありません。友人と言うにはおこがましいかも知れませんが、彼女は私のことをそう呼んでくれました」
「……そうですか」
一番重要なことを確認できてコウタは微笑む。
「教えてくれてありがとうございます。ジェシカさん。またいつか」
「ええ、またいつか会いましょう」
言って、ジェシカは森の奥へと消えていった。
コウタはしばし森の奥を見つめていたが、不意に嘆息する。
「……今回も色々あったな」
結局、戦闘にまで発展してしまった。
しかも、今回は何一つ事態が分からないまま終わってしまった。
果たしてジェシカは何者だったのか。
そして彼女が『主君』と呼んで仕える人物とは――。
「まあ、いっか」
考えても仕方がない。
いずれジェシカとは再会することになる。
その時こそ真相を聞けばいい。
「とりあえず今日は疲れたし、メル達も心配してるだろうし、もう帰るか」
そう言って、悪竜の騎士はにこやかに笑うのであった。
こうしてまた一人、《悪竜》の犠牲者となる女性が現れたのである。
まあ、少年自身に全くその自覚がないことは、今さら言うまでもないが。
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