第183話 遠き足音④

「なるほど。『巨獣』ですか……」


 カチャリ、とコーヒーをソーサーに置いてルクスが反芻する。

 そこは村の一室。村長の館の応接室だ。

 ゆったりとしたソファーには今、五人の人物が座っていた。

 ルクスとバルカス。コウタとジェイク。

 そして向かい側に村長である壮年の男性だ。

 彼らは真剣な面持ちで話をしていた。


「ええ。『巨獣』です」


 指を組んで村長が語る。


「数日前から村の近くに現れた魔獣と思しき獣です。木々よりも背の高いそいつが近隣をずっと徘徊し続けているのです」


 村に到着したコウタ達。

 次いで宿を取った彼らは、そのまま村長の館に案内された。

 何やら村で問題が発生しているらしい。それを相談したいということだ。

 しかしコウタ達はただの旅人だ。どうして相談などの流れになったかというと、宿の店員がミランシャを見て騎士であることに気付いたからだった。


『なんでアタシが騎士だって気付いたの?』


 ミランシャがそう尋ねると、その店員は苦笑を浮かべて。


『以前、湯治にいらっしゃった騎士さまがあなたの写真プロマイドを持っておられたのです。彼はあなたの大ファンらしく、皇国一の美貌の騎士だと熱く語られておられました』


 そんなことを言われて、流石のミランシャも赤くなっていた。

 ともあれ、村長宅に案内された一行は村長と面会することになった。

 とは言えコウタ達は到着したばかり。旅の疲れもあるだろうと村長が気を利かせ、話の前に自宅近くにある露天風呂へと招待してくれた。


 そうして十五分後。


 早々と入浴を済ませて手持ち無沙汰になった男性陣達が、女性陣よりも一足先に村長の話を訊いているのが現状である。


「被害は出ているのですか?」


 と、ルクスが皆を代表して尋ねる。

 この場で一番役職が上なのはバルカスなのだが、山賊ルックを極めた彼では村長が萎縮するので代わりにルクスが質問しているのだ。


「いえ。今のところ被害は出ておりません。ですが、定期的に聞こえる先程のような足音にお客さまも村人達も不安を抱いております」


「確かに不安を覚える足音でしたね」


 と、コウタが呟く。

 流石にそろそろ着装型鎧機兵パワード・ゴーレムを脱ぎたいということで、シャルロット、ゴーレム達と共に宿に戻っているメルティアの身を案じる。


(今の足音で怯えていなきゃいいけど)


 やはり旅は引きこもりのメルティアにとって負担になる。

 後で彼女の様子を見に行こうと、コウタは決めた。


「ええ。あんな足音を立てる獣です。現時点で確認できているのは足音と森に刻まれた巨大な足跡だけですが、それだけでも途方もない巨体であることは容易に想像できます。今は無害でもそんな魔獣に徘徊されては……」


 村長は深々と溜息をついた。

 ここ数日、ルーフ村の滞在者が激減しているらしい。

 一日と待たずにチェックアウトする来客が増えているとのことだ。

 温泉地として商売する村としては堪ったものではない。

 ルクスは一度バルカスに視線を送った。隊長代理は無言で首肯する。


「分かりました」


 ルクスは村長に告げる。


「我々で一度調査しましょう」


「! そうですか!」村長は瞳を輝かせた。「ありがとうございます!」


「いえ。これも騎士の務めですから」


 と、ルクスは好青年の笑みで応えた。

 村長は何度も礼を言い、「早速役場にも伝えてきます。必要な物があれば家の者に申しつけてください」と告げて席を外した。

 応接室に残ったのは、コウタ達だけだった。


「なあ、バルカスのおっさん」


 今まで無言で様子を窺っていたジェイクが尋ねる。


「なんか話を聞く限り、結構ヤバそうな魔獣なんだが、オレっち達は本当に手伝わなくていいのか?」


「ガハハッ! 大丈夫さ! けどあんがとよ。気持ちだけ受け取っとくぜ」


 バルカスはソファーにもたれると大仰に肩を竦めた。


「まあ、自国の問題で他国の学生を借り出すのもなんだしな。それよりも悪りいな。折角の旅行なのにこんな件に巻き込んじまって」


「いえ。お気になさらず。こういうこともありますよ」


 そう返したところでコウタは苦笑いした。


「むしろ、絶対何か起きるだろうなと思ってましたから……」


「まあ、オレっち達って初めての小旅行でも化け物みてえな人買いに遭遇したし、その次の旅行だと武装した盗賊団に襲われたしな」


 ジェイクも苦笑を浮かべる。


「そう考えると、今回はおっさん達がいて幸運なのかもな」


「うん、そうだね。ミランシャさん達が調査してくれるのなら安心だし、ボクらはメル達の護衛に専念できるしね」


 親友の意見に、コウタはうんうんと同意した。

 なにせ、皇国の上級騎士が三人も同伴しているのだ。独力でどうにかしなければならなかったこれまでの状況とは雲泥の差である。


「とりあえずボクらはリーゼ達と合流したら、そのまま宿に戻ろうと思います」


「おう。俺らも姐さんと合流したら、森を調査しに行くよ」


 と告げるバルカスの後にルクスが補足した。


「今日は先に姿だけでも確認しておきたいんだ。二、三時間で戻るつもりだから夕食はその後で頂くってスコラさんに伝えておいてくれるかな」


「はい。分かりました」と、コウタが答えるとバルカス達は「そんじゃあ俺らは外で鎧機兵のメンテナンスをしておくよ」と告げて応接室を後にした。

 残されたコウタとジェイクは互いの顔を見て嘆息した。


「もう一回言うが、やっぱ事件が起きちまったな」


「はは……何なんだろ。この圧倒的な発生率」


 そう呟くコウタの顔は強張っていた。

 旅行のたびに事件に巻き込まれる。まるで何かの嫌がらせのようだ。


「まあ、今回はおっさん達が何とかしてくれるだろうから、楽っちゃあ楽だけどな」


「うん。見たところ、バルカスさんはもちろん、ルクスさんも相当な実力者みたいだし。ミランシャさんに至っては……」


 そこでコウタは面持ちを鋭くする。


「流石はアルフのお姉さんだ。自由奔放にみえてほとんど隙がない。下手するとバルカスさんよりも強いかも」


「やれやれ」ジェイクは肩を竦めた。


「お嬢といい、公爵令嬢ってのは強くねえといけないルールでもあんのか?」


「はは、それはどうだろ。だってメルはとてもか弱いし」


 コウタは破顔する。が、すぐに表情を改めて。


「それよりリーゼ達が戻ったら早く宿に帰ろうよ。今頃きっと、メルも不安がっていると思うから」



       ◆



 場所は変わってルーフ村の宿屋の一つ。

 コウタ達がチェックインした大きめの宿で、メルティアは服を脱いでいた。

 いつもの白いブラウス、黒いズボンを順に脱ぎ、さらには上下の下着も外して美しい肢体を露わにする。コウタでさえ一度も見たことのない一糸も纏わぬ姿を晒して、メルティアは小さく嘆息した。


 そこは宿に設置された露天風呂。


 一日中、着装型鎧機兵パワード・ゴーレムを装着して結構汗だくになっていたメルティアは、コウタ達の帰還を待ちきれず、シャルロットに頼んで大浴場を貸し切りにしてもらったのだ。


 そして、メルティアは早速入浴することにしたのである。

 ちなみに、零号達は大浴場の外で待機している。万が一にも他の来客が来ないように警備しているのだ。

 これで準備は万全だ。メルティアはタオルで前面を隠して浴場に向かった。


「おお。これが露天風呂ですか」


 初めて目にする露天風呂に、メルティアは瞳を輝かせた。

 小さな岩に囲まれた湯気の立つ大浴場に、周囲は竹で造られた柵。魔窟館の大浴場とは大分趣が違うことも興味をそそるが、それ以上に目を惹くのは空だ。

 夕暮れが近づく空には星と月がうっすらと輝いていた。

 それは引きこもりでも感嘆するほどの絶景だった。


「アイリとリーゼとも見たかった光景ですね」


 と、感動しつつも少し残念そうに呟く。

 ともあれ、メルティアはいそいそと温泉に向かった。

 そして湯面の近くで桶を手に取ると何度か湯をかぶり、つま先から湯に浸かる。


「ふわあア……」


 ゾクゾクと背中が震えた。

 そのまま腰から肩へと身体を沈めていく。

 身体の芯にまで温かさが染みこんでくるようだった。


「これは想像以上です」


 メルティアの頬も緩んでくる。

 続けて、両手を反らして空に伸ばす。大きな胸がたゆんっと揺れた。

 この胸に加え、研究ばかりしているせいで彼女は結構肩凝りが酷いのだ。

 けれど、そんな肩凝りもこの湯に浸かっているだけで溶けていくようだった。


「至福とはこのことですね」


 ニコニコと笑うメルティア。

 しかし、彼女の幸せ気分もそこまでだった。

 何故ならば――。




「あれ? 誰もいないの?」




 ドキン、と心臓が跳ね上がった。

 同時にぶわっと汗が噴き出し始めた。


(ひ、人の声……?)


 ――何故、どうして?

 現在この大浴場は貸切りにしているはずだ。

 そして外には零号達も警備している。

 ここには誰も入れないはずだった。

 もし零号達が通す者がいるとしたら、リーゼとアイリ、シャルロットだけだろう。


 だが、今の声は一度も聞いたことのない女性のものだった。

 メルティアの全身は硬直した。


「あっ、一人いたんだ」


 しかも、相手に自分の存在が気付かれてしまったようだ。

 ゆっくりとした歩みだが、その人物が近付いてくるのが分かる。

 メルティアは喉を鳴らした。


(で、出ないと……ここから出ないと)


 もう逃げるしかない。

 誰かに自分の姿を見られるのは、彼女にとって苦痛以外何ものでもなかった。

 メルティアはギュッと強く目を瞑り、湯から飛び出した。

 相手の姿は怖いから確認しない。

 ただひたすら目を瞑り、獣人族の感覚に頼って出口を目指す――が、


 ――つるっと。


 いきなり足を滑らしてしまった。

 いかに身体能力に優れようが、目を閉じたまま浴場を走るのは危険すぎる行為だ。

 そんなことすら失念するほどにメルティアは混乱していたのである。

 このままだと固い床に身体を強く打ち付けることになる。

 打撲はおろか、きっと流血も避けられないだろう。


「――ひっ」


 メルティアの顔色は一気に青ざめた。

 けれど、


「危ないよ。浴場で走ったら」


 幸いにもそんな事態にはならなかった。

 まるで天女の抱擁のように、とても柔らかい胸で抱きとめられたからである。

 その人は倒れそうになるメルティアを両腕で支えてくれた。


「大丈夫? 怪我はない?」


 とても優しい声が耳元に届く。


「は、はい……」


 メルティアは恐る恐る目を開けて自分を支えてくれる人物を見た。

 そして両目を見開く。



 ――そこには《夜の女神》がいた。



 流れるような漆黒の長い髪に、黒曜石を彷彿させる黒い眼差し。

 年齢はメルティアよりも少しだけ上だろうか。

 浴場ゆえに全裸である彼女の肌は透き通るように白く、その上、プロポーションに至ってはメルティアさえも凌ぐ美しさであった。

 メルティアは言葉もなく、ただただ彼女の美貌に魅入ってしまった。

 シャルロットや、ミランシャでさえ届かない。

 正直ここまで綺麗な女性は、今まで見たこともなかった。

 一方、黒髪の少女はふふっと笑みを零した。


「怪我をしなくて良かった。けど、もう一回言うけど浴場で走っちゃダメだよ」


「は、はい。すみません」


 メルティアは少し肩を落として謝罪した。


「今度から気をつけてくれるのなら謝る必要はないよ」


 言って、彼女はメルティアをしっかりと立たせた。

 改めて気付いたが、身長もメルティアより頭一つ分ほど上だった。


「もしかして何か急ぎの用事でもあったの?」


「い、いえ。そういう訳では……」


 メルティアは萎縮しながらも正直に答える。

 すると、黒髪の少女は花咲くように笑う。


「ああ、そうなんだ。なら――」


 そうして彼女――サクヤ=コノハナは優しい声でこう提案する。


「これから少しご一緒してもいいかしら?」

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