第2部

プロローグ

第32話 プロローグ

 カリカリカリカリ……。

 広い室内に、軽快な筆の音が響く。

 そこは森の国。エリーズ国・王都パドロ。

 その一角。貴族が多く住まう区域の中でも、ひと際大きな屋敷の一室にて。

 彼女は席につき、一心不乱に筆を走らせていた。


 スレンダーな肢体に白いドレスを纏い、毛先の部分にきつめのカールがかかっている蜂蜜色の長い髪と同色の瞳を持つ、凛々しく美しい顔立ちをした少女だ。


 彼女の名は、リーゼ=レイハート。

 年の頃は十四歳。

 四大公爵家の一つ、レイハート家の御令嬢であり、この部屋の主人である。


「………ふう」


 リーゼは不意に嘆息した。

 それからピタリと筆を止め、大きな伸びをした。


「流石に根を詰めすぎましたわね」


 長い髪を揺らして、コキコキと肩を鳴らす。

 彼女は朝からずっと執筆していた。


「締め切りは近いですが、まあ、程良いペースですわね」


 リーゼは机の上の原稿用紙を見やり、苦笑する。

 友人も家族さえも知らない彼女の趣味。小説の執筆だ。

 つい最近、実に印象に残るとてもよいネタを経験したので思わず執筆に没頭してしまったが、何事も根を詰めすぎるのはよくない。


「今日はこれぐらいにしておきましょう」


 そう言って、リーゼは原稿用紙の束を机の中に仕舞った。

 そして、引き出しに鍵をかけると、念入りに施錠されているかを確認した。


「……うん。大丈夫そうですわね」


 少し苦笑を浮かべるリーゼ。

 この引き出しの中は、まさに彼女のトップシークレットだった。

 先程まで執筆していたのはまだいい。読者に楽しんでもらうための冒険譚だ。

 問題はさらにその奥にある原稿。裡に秘めた願望を全開にした彼女の想い人への恋文に等しい作品もまた、この中には封印されているのだ。

 流石にあれは表には出せない。


「まあ、勝手にわたくしの引き出しを開けるような不届き者は、この屋敷にはいないでしょうけど……」


 それでも用心するのに越したことはない。

 リーゼは、紐付きの引き出しの鍵を細い首にかけ、服の下に隠した。


「さて、と」


 そして椅子から立ち上がる。

 彼女は「う~ん」ともう一度背伸びをすると、室内を見渡した。

 天蓋付きの大きなベッド。ティーブレイクを楽しむための丸テーブル。壁沿いには大きな書棚とクローゼットが並び、所々には数点の装飾品もある優雅な部屋だ。


 ふと、空気の流れを感じ、リーゼは大きな窓へと目をやった。

 その窓は開いており、レースのカーテンが緩やかになびいている。

 蒸し暑くもある風が、室内に吹き込んでいた。


 彼女は髪を一房かき上げ、窓辺に寄る。

 時節は夏。彼女の通う騎士学校の夏期休暇も半ばを過ぎた頃だった。

 周辺地帯を森で囲まれたこの国は、基本的に夏は蒸し暑い。

 最近は恒力を使用した冷房器具も普及され、この部屋にも設置されてあるのだが、彼女は自然の風を肌で感じ取るのが好きだった。


「ふふ、今日はまだ涼しげかしら」


 四階にある自室の窓から外の景色を眺めてリーゼは呟く。

 と、その時、コンコンとドアがノックされた。

 リーゼはドアの方を見やり、「どうぞ」と声をかける。

 すると「失礼いたします」と告げて、一人の若いメイドが入室してきた。

 年の頃は二十代半ば。藍色の髪を持つ、やや冷淡な顔立ちの女性だ。


 シャルロット=スコラ。

 かれこれ八年以上もの間、レイハート家に仕えるリーゼ専属のメイドである。

 彼女はその手に、ティーカップを乗せたトレイを持っていた。


「お嬢さま。アイスティーをお持ちしました」


「ええ、ありがとう。シャルロット」


 シャルロットは丸テーブルに近付き、すっとティーカップを乗せた。

 それに合わせて、リーゼは丸テーブルの席に着く。

 一方、シャルロットはトレイを片手に、リーゼの傍に控えた。


「それでは、頂きますわ」


 そう言って、リーゼはカチャリと音を鳴らしてアイスティーを口元に運ぶ。

 程良い甘みと冷たさが口内を満たした。


「ふふ、美味しいですわね」


 と、そこでリーゼはシャルロットに目をやった。


「ところでシャルロット。頼んでおいた例の件は順調ですの?」


 主人にそう問われ、シャルロットは「はい」と答える。


「すでに宿泊の準備は整っております。いつでも向かうことは可能です」


「……そう」


 リーゼは満足そうに呟き、再びアイスティーを口元に運んだ。


「……ですが、お嬢さま」


 すると、シャルロットは、ほんの少しだけ眉をひそめた。


「使用人の同行を、もう数名ほどお許し頂けないのでしょうか。私一人では皆さまを十全にサポートするのは難しいかと」


「構いませんわ。わたくし達も自分のことは自分で出来ます。むしろ自主性を高めるには丁度よい機会でしょう」


「……ですが」


 なお眉をひそめるシャルロット。


「お嬢さま方に何かあっては一大事です。せめて護衛の許可を」


「それこそ不要ですわ」


 リーゼは、カチャリとティーカップを置いて微笑する。


「シャルロット。あなたも騎士学校の卒業生。それも次席だったのでしょう? 荒事はお手のものでしょう。それにわたくしも自分の実力には少々自身がありますし、何よりもコウタさまがいらっしゃいます。彼を凌ぐ護衛などそうはいないでしょう」


「……そうですか」


 そう呟いて、シャルロットは内心で嘆息した。

 また、あの少年の名前が出てきた。

 エリーズ国騎士学校において歴代最高の鎧機兵乗りと呼ばれる少年の名だ。シャルロットはまだ一度も会ったことはないが、幾度もリーゼの口からその名を聞いている。


 入学当初は『黒髪』という呼称。

 三日後には『コウタ=ヒラサカ』とフルネーム。

 そして一ヶ月後には『コウタさま』と出世魚のように呼び方が変わった少年だ。


 その少年が、リーゼにとってどんな人物なのかは考えるまでもない。


(……お嬢さまの初恋の相手ですか)


 そこで何とも言えない表情を見せるシャルロット。

 幼少の頃から見守り続け、不敬ながらリーゼを妹のように思っているシャルロットとしては少々複雑な心境だ。

 しかも、今回の『合宿』も元はその少年が言い出した事らしい。


(ここは一度、その少年を見定めなければなりませんね)


 心の中でシャルロットはそう決意する。

 何だかんだでリーゼは箱入り娘だ。害になるならば排除する必要がある。

 そう考えれば今回の一件は、かの少年を見定める良い機会なのかもしれない。


「どうかしましたか? シャルロット?」


 いきなり顔つきが戦士のように変わったメイドに、リーゼが首を傾げて尋ねる。


「いえ、何でもありません。リーゼお嬢さま」


 しかし、自分の内心は一切見せずシャルロットは優雅に一礼した。

 それからテーブルの上の空になったティーカップに目をやり、「お下げいたしましょうか」と主人に問う。リーゼは「ええ、お願いしますわ」と答えた。


「では、失礼いたします」


 そう言って、シャルロットはトレイにティーカップを乗せて退室していった。

 後に残されたリーゼはしばらくしてから立ち上がる。

 そして、もう一度窓辺へと寄り、


「ふふっ、三泊四日の合宿ですか」


 外の景色を眺めながら、目を細める。

 続けて風で揺れる髪を指先で触り、わずかに頬を染めた。


「前回の研修はお流れになりましたが、まさかこんな形でチャンスが訪れるなんて」


 今回の一件は、まさに好機だ。

 上手く立ち回れば、一気に『彼』との仲も進展するに違いない。


「……ふふっ、覚悟しなさいメルティア」


 リーゼは、やや慎ましい胸を反らして不敵に笑った。


「いつまでも幼馴染の立場を過信しないことです。今こそ、あなたに女子力の差を見せつけてあげますわ!」

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