第8話

牧草地を抜け山の中へ入れたのは、もう、陽がすっかり落ちた頃だった。城の方を見れば篝火が煌々と燃え盛り、牧草地にも松明らしき明かりがちらほらと見える。

マリティはおそらく暫くは追手を差し向けないだろうから、あれは短躯肥満の手の者か。それ程多くないという事は取り敢えず人質が救助されたからか、単に夜だからかは判断がつかない。まあしかし今が逃げ時よ。朝には行われるだろう山狩りの前に、できるだけ遠くに逃げなければ。幸い、俺は夜目が利く。今の体なら尚更よ。


山の中は星空すら見えない程に鬱蒼としている。あまり人の手が入っていないのだろう。乱雑に生えている樹木には針葉樹林もそれなりにある。とすると時期によっては雪の降る場合も考えなければ。まあ今の気温なら大丈夫だろう。そんなに寒くは無い。


とにかく、逃走と水の確保を優先しよう。なあに、遭難した場合の対処は訓練生時代にやった。サイパンで連合軍から1年も逃げ延びて本土帰還した先輩殿の話も他人事と思えず良く良く聴いた。何とかしてみせるさ。


山を登る程、樹々がより太くなっていく。いよいよ人の手が加わっていないのか、原生林の様相がいよいよ強くなってきた。

夜だからか、先程から猿だか何だかの鳴き声は聞こえる。しかし川のせせらぎは一向に聞こえない。

喉が渇いた。腹も減った……。思い返せば朝食べてから今まで何も食べていない。その上走りっぱなしだ。


一向に何も見つけられないまま歩いていると、一本の大きな樹洞の空いた木を見つけた。少し離れた場所から適当に石を拾ってそこに投げ入れるが、別段何かが飛び出てくるということはなかった。中を覗き見て臭いを嗅ぐ。特に獣臭さも感じられない。今夜はここで休むとしよう。


そこら辺に生えている蔦を切り取り、落ちていた適当な大きさの木を括り付けそこら辺に吊るす。それを幾つか作る。折れやすそうな枝を拾って木を囲むように並べる。幸い材料はたくさん落ちていた。

まあ気休めかもしれないが、警報装置として無いよりマシだろう。

樹洞の中で膝を抱えて仮眠する。空腹を紛らわせるため、そこらに生えていた草を暫く舌に乗っけ、痺れが無いのを確認し良く噛んで飲み込んだ。


「不味い……」


だがまあいくらかマシになったかな……


……目が覚めた。あまり寝た気がせん。少し肌寒い。飛行服で良かった。外はまだ薄暗いが、まあ動き出すなら早い方が良い。


鳥の鳴き声はするが、姿が見えない。まあ見えたとしても、万が一捕まえたとしても生で食うのは怖い。先輩殿も言っていたな。最初に死んだと思ったのは、変なものを食って腹を下した時だと。


葉っぱについた朝露を舐める。これくらいなら大丈夫だろう。

何枚も何枚も舐める。少し青臭いが、美味い。

ある程度喉が潤った所で、腰の御守りを開いた。この中には塩と正露丸を入れてある。先輩殿の話によるとこの二つが生死を分けたとか。いやあ、持っていて良かった。

塩をひと舐めし、昨夜食えた葉っぱを何枚か口に含んだ。不味いが、背に腹は代えられん。


さて、出発だ。


早歩きで山を登る。

途中、蛸を見かけた。山に蛸がいた。緑色していた。蛸が歩いていた。意味がわからん。食えるのか?

蛸もこちらに気付いたのか、器用に木を登って逃げていった。蛸、食いたかった……。だが生は虫やら感染症が怖い。火を起こせない今、少し逃走を後悔した。しかしまあな。


「やはり違う世界というのは本当なのか」


矢が空中で曲がった時点で確信は強まっていたが、まさか蛸を見て更に確信を強めるとは思わなんだ。


失意のまま歩いていると、少し開けた場所に辿り着いた。周りの景色が良く見える。ここはどうやら山頂か。


麓の方に城と城下町が見えた。かなり小さい。そしてこの山はかなり高い。周りの山と比べてもかなり、だ。大体標高にして2000m以上はありそうだ。通りで寒いはずだ。その割にはこの辺りの木がでかい気もするが、まあ世界が違うとそんなものか。


さて、他には何があるかな……お、川だ、川がある!丁度、城から見てこの山の裏側に川がある。かなり大きな川だ。とすると源流が近くにあるはずだ。

耳をすませる。集中、集中。……む、何となく水滴の落ちる音がした気がする。むむ、あっちからな気がする。


第六感に従い山を駆け下りる。木の間を猿のごとく駆ける。

少し苔が増えてきた。苔蒸した大きな岩。ここまで来ると、水の音がはっきりと聞こえ出す。そして、ついに!


「あった!水だ、水だ!」


岩の隙間からチョロチョロと水が染み出し、その下に清らかな水溜りを作っていた。

顔を突っ込む。ああ、至極!豪快に飲む!至極!

心行くまで水を飲む。最後に顔を洗い、ああ、人心地着いた。水辺の周りには鱗を持った蛙のような生き物や、一見すると落ち葉のような蟹だとか、見た事のないものがチラホラといる。

蟹ぐらいは食えそうだな。そう思って手を伸ばした所で、何か不穏な気配がしてそちらを向いた。


木の倒れる音。少しの振動。何だ。何かいる。ここからそう遠くない所だ。そして、決定的な事が起きた。


「アイーーーーー……」


人の叫び声だ。女の、おそらく子供だ。


気がつくと走り出していた。無視して逃げた方が良いに決まってるが、何故だかそれをしてはいけない気がしやがる。


駆ける、駆ける。いた、両手を広げた毛むくじゃらの何かが、少女に襲いかかろうとしていた。でかい。体高2mは優にある。熊のような体躯に、手には脇差のような鋭い長い爪がそれぞれ三本もついている。


位置取りは俺の方が上。こちらには気づいていない。忍者刀を構え、一気に跳躍する。相手の首筋を目掛け刃を突き下ろした。


「グオオオ!」


獣は呻き声を上げ、手で俺を振り払おうとする。

糞、筋肉に締め付けられ忍者刀が抜けない。

柄から手を離し、間一髪の所で手を避けた。

獣はこちらを振り向き、怒りのこもった目を向けてきた。狒々ひひの様な顔に鳥の様な大きなクチバシがついていた。首からは忍者刀のきっさきが覗いている。


糞、即死させられなかったか。


だが、それは杞憂だった。

獣はグルりと白目を向き、血を吐きながら倒れた。どうやら倒せた様だ。


さて、襲われていた奴は無事か。


「大丈夫か……うん?」


獣の後ろにいたのは、やはり少女だった。だが予想していなかった事が一つ。


「兎の耳?」


頭から兎の耳を生やしていやがった。


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