第4話 燕哀來という女

 哀來を指導して一週間が経った。

 人に物事を教えるのは初めてだが哀來は優秀な方だと俺は思う。

 ピアノについては、わからない所があればすぐに俺に聞き、聞いた後も教えた通りに弾いている。

 こいつ才能あるんじゃないか? と思ったほどだ。

 歌もうまい方だった。

 とても綺麗な歌声で歌っていたので思わず聞き入ってしまった。声に惚れるってこういう事なんだな。

 全く、仇の娘がここまで俺の好みとは。

 俺はピアノが弾けて歌もうまい女が好みだ。さらにわがままを言うなら美人だったらパーフェクトだった。

 そんな女が俺の生徒。こんなにも嬉しい事はない。

 しかし、仇の娘だという事実から積極的にはなれない。

 そんな事を夜十時、燕家の俺専用の部屋で思い返していた。

 実家の部屋より広く五、六人くらい人を呼んでも狭いと感じないほどだ。

部屋には俺が住むためにわざわざ燕家で用意してくれた家具が一式揃っている。ベッドにタンス、テレビ、クローゼットなどが置かれ、デスクワークをする机の上には燕家から借りたノートパソコンを置いた。

 俺は普段着に着替え、机の前にある黒のオフィスチェアに座って作業をしていた。

 ピアノ用の楽譜と歌用の楽譜を見ながら次にどんな曲を練習させようかと考えていた。

 今の哀來に向いている曲はどれだろう。

 これがいい。いや、こっちも外せない。こっちも捨てがたい。

 そういえば、ここ一週間、『先生』というものが楽しくなってきた気がする。

 復讐のためになった為、最初は仕方なくやっているようなものだったが最近は『先生になって教えるのも悪くはない』と思うようになった。

 俺意外に先生向いているかも、なんて思ったこともある。

 コンコンコン

 ドアの向こうからノックが聞えた。

「お茶をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか?」

 女の声だった。メイドだろう。屋敷内でも十人以上見た事がある。

「どうぞ」

 ドアに向かって返事を済ませ、楽譜に目を通した。

 ドアが開くと足音が部屋の中に入ってきた。

「お仕事大変ですね」

「はい。まあ一週間で慣れましたが」

「お嬢様と接せられてどう思いましたか?」

 コトッという机に置いた音を立てながら聞いてきた。

 俺のデスクワークではなく後ろにあるミニテーブルに置いたのだろう。あれは向かいにあるテレビを見ながら飲み物を飲んだりする休憩用のテーブルにしている。

「とてもいい人です。性格もいいですし、何より私が教えた事をすぐに理解してくれます。このままいくと素晴らしい保育士になれますよ」

 少し大袈裟だったかもしれない。

 だが、屋敷の主の娘だ。褒めまくったほうがいいだろう。

「……本当にそう思っていらっしゃいますか?」

「は、はい」

 やはり大袈裟に聞えたのだろう。聞き返してきた。

 ……何だか聞き慣れた声だな。


「嬉しいです。こんなにもわたくしのことを褒めてくださるなんて」


 俺はすぐ後ろを振り向くと、思わず立ち上がってしまった。

 なんとそこにはメイド姿の哀來がいたのだ!

「な、何ですかその格好!?」

「おかしいですか?」

「あなたメイドじゃないでしょ!」

「こうでもしないと先生のお部屋に入れないと思ったのです。誰かに見られてしまうと教師と生徒の間で別の関係が生まれている、なんて思われてしまいます。そうなってしまったら先生にご迷惑を掛けてしまいます」

 なるほど。

 芸術室という密室で二人きりで指導しているのだ。夜に俺の部屋に入るのを誰かに見られたら深い関係になっていると思われてもおかしくはない。

 哀來は「どこか座ってもよろしいですか?」と俺に聞いてきたので俺は後ろにあるベッドに座らせた。床以外で座らせる所が無かったからだ。

「別に俺の部屋に入るのはいいですよ。ただ、どうしてこんな夜に?」

「他の習い事をしていたのです。体育と美術も習っていますので」

「なるほど。保育士には欠かせませんね」

「はい。終わって少し時間があったのですが、そこで柏野と新しい習い事の相談をしていたのです」

 まだやるつもりなのか。

 俺だったらせいぜい2つくらいで限界だな。

「新しい習い事ですか?」

「はい。社交ダンスを習わないかと、お父様からお電話が掛かってきて」

 社交ダンス?

「体育のダンスではなく?」

「はい。これからパーティなどでダンスをする機会もあるから習っていて損は無いですよ、と柏野も言っていて」

「大丈夫なんですか? そんなに習っておいて」

「大丈夫なわけありません! みんなわたくしが天才少女だから多く習わせても大丈夫だろうと思っていて!」

 何気なく聞いたつもりだったが哀來は涙目になって怒っていた。

 こんな姿もあるのか。

「天才少女って言われているんですか?」

 ピアノと歌には才能があると思っていたが、他にもあるみたいだ。

「幼い頃からわたくしは情報の吸収能力が高いと言われているのです。勉強も普通の人より理解力が高いそうです」

「私も授業中に感じていました」

 こいつは他の分野でも天才だったのか。

「それからというもの、わたくしは様々な習い事を強いられてきました。幼稚園のお受験から先月まで全国トップレベルの塾に通わされ、受験はすべて合格しました」

「すごいですね。私も音楽幼稚園のお受験をしましたが、それ以上に難しいお受験に合格したなんて」

「合格した後も大変でした。毎日塾に通わないと授業についていけないので」

 あー、進学校だとそういう事があるんだよな。

「お父様は常に学年トップクラスの成績を残さないといけない、とおっしゃっていたのでとても大変でした」

「下がったら怒られるんですか?」

「いえ、『さらに塾を増やす』と」

「さらにですか!?」

 増やしてどうするんだよ!

「他の塾で見てもらったら上がるのでは、という考えからだそうです」

「五教科っていうことは週五回ですか?」

「はい。通っていたのはその塾だけでしたがとても大変でした」

「当たり前ですよ。週の半分以上が塾なんて」

 聞いているだけで大変なのが伝わってくる。

「わたくし本当は学校のお友達と毎日ゆっくり帰ったり、遊んだりするのにずっと憧れていたのです。しかしお父様が『それはお前のような天才がやる事ではない』とおっしゃられていたのでできませんでした。お父様には私を含めて誰一人逆らう事ができないのです」

 哀來は話している途中、本当に泣きそうになっていた。

 話からして燕社長は俺達のような一般市民を見下しているようだ。

 それなら親父を殺して何も思わなくてもおかしくはない。アイツにとっては邪魔な虫を殺したようなものだろう。

「……最低な奴」

「え?」

 しまった!

 親父が殺された事を考えていたら本心が出てきてしまった。

 な、何と言われるか?

「そうですよ。最低は言い過ぎかもしれませんがお父様は自分より下の方々を見下しすぎです!」

「す、すみません。『最低』なんて言ってしまって」

「いいえ。むしろ嬉しいです」

 嬉しい?

 親の悪口を言われたんだぞ。

「お父様の愚痴を使用人に言っても全く共感してくれないのです。まあ、無理もありませんが」

 そりゃそうだろう。言ったらクビになってしまうからな。

 という事は俺も……。

「哀來さん! どうかこの事は秘密に」

「わかりました。それにわたくしも日々思っていますから」

 娘も思っているんだから相当だな。

「お父様は自分より下の方々を見下しています。ですから周りからたくさん恨みを買っていらっしゃるのです」

 だろうな。現に俺もその一人だ。

 ろくな奴じゃないな。さすが人殺しだ。

「先生。また遊びに来てもよろしいですか?」

「はい。授業以外でのお話もしたいですから」

 そうする事で燕家の情報を手に入れる事ができるからな。

「では、また遊びに来ますね」

 哀來は立ち上がるとすぐにドアに向かって歩いていき、ドアを開けて帰って行った。

 今度来るときはメイド服じゃない普通の服で来て欲しい。いきなりあんなコスプレみたいな服を着ていたら驚くからな。

 ……そういえばアイツ何持ってきたんだろう。

 俺はすっかり忘れていたミニテーブルの上にある白いマグカップを持って中を見た。コレは色的に……ココアか?

 俺はコーヒーがまだ飲めないのでココアだといいが、試しに飲んでみた。

 ……うまい。ココアだ。

 時間が経って冷めた事もあってか丁度良い温かさになっていた。

 全部飲み干すとマグカップをミニテーブルに置き、再びデスクに向かって楽譜を見比べた。

 早く決めないと、寝る時間が遅くなってしまう。

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