第59回【恋愛】雨に抜き身の刀を晒して

 まさか、と男は思った。この日だけは外に出るなと言っておいたのに。

 抜き身の刀に滴る血を、大降りの雨が流していく。

 赤い水は刀のみならず、足下をも濡らしていた。

 足下には、先ほど自分で斬りつけた女が一人、俯せにして倒れている。袈裟懸けに背後がばっさりと切り裂かれ、破れた質素な着物から覗く肌は透き通るかのように白い。

 そんな馬鹿な――。

 雨音とともに戦闘の音が遠く届く。時折響くのは雷ではなく断末魔の叫び声。男は仲間と別れて別の道を行き、今は一人だけだ。

 誰も見ていないことを良いことに、震える手で倒れた女の頭を動かした。

 血の気がない白い顔に、飛び散った泥水が絵を描く。紅が塗られた唇が赤く浮かんでいた。形の良い眉に切れ長の目はとても美しい。

 やはり、知っている女だった。この町に仲間と共に入ってから親しく――それこそ親密な仲になった女だ。

 離さないと誓ったのに、どうして……。

 水たまりではなく血だまりとなったその場所で、男は立ち竦む。女にはかろうじて息があったが、この出血量では助からないだろう。

 瞳から大粒の雨がこぼれ落ちた。



 これまで町中での戦闘は極力避けてきた。無闇に一般人を巻き込むのは良くないとの上が決めた方針に従ってきたからだ。

 ただ、今日は敵が泊まっている宿を襲撃することになってしまった。卑怯なやり方だが、なにぶん相手が手強すぎる。こうでもしなければ、首を取れないとみんなも思ってしまったのだから仕方がない。

 決行は明け方。昨夜からの嵐に乗じる形で始まった。

 作戦はうまくいっているかのように見えた。敵の部下を数人倒し、あとは親玉を捕らえるだけだった。部屋に仲間たちと乗り込んで――しかし、そこに目的の人物はいなかった。

 内通者がいたらしい。親玉とその取り巻き数名が宿の裏口から逃げるところを見つけ、町中での戦闘に移行。嵐の中であるため、幸い町の住人たちはたくさん並ぶ長屋の中だ。追跡し、散った敵をそれぞれが追い詰め――。

 自分が斬ったのは無関係の女だった。大雨で視界が悪く、強風で音も判別しにくいという環境。細い路地から躍り出てきた影を、躊躇なく斬ったのだ。



 いつまでも泣いているわけにはいかない。仲間と合流して、作戦を完遂せねば。

 耳を済ませ、雨と風の中に紛れる音を聞き分ける。場所をある程度絞り込むと、ゆっくり歩き出す。女に背を向けて。この作戦が終わったら迎えに行くと心で語り掛けて。



***



 男の足取りは重い。それだけ自分のことを愛していてくれたのかと思うと、女は苦笑した。意識が少々混濁し、これが死に向かうというものかと覚悟する。

 だが、まだ身体は動きそうだ。男が近付いてきたのに驚いて、思わず死にかけの演技などしてしまったが、これで不意をつきやすくなった。

 私ひとりで死んでなるものですか。私は元々、あなたなんか愛していなかったわ。すべては情報を得るため。身体はあげたけど、心までは虜にできなかったのを悔やむことね。

 できるだけ音を立てないように立ち上がる。手にはさっき使いそびれた小刀を握り締めて。

 心中してあげるわ、あのお方のために。

 力はもうほとんど残っていないはずなのに、いとおしい人の姿を思い描けば身体は意のままに動く。

 さぁ、死にましょう。

 狂気を宿した笑顔を女が作ったのを、血の色が混じる水たまりだけが知っている。


《了》

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