第52回【TL】映画館で恋して

「ポルカ・ミゼーリア!」

 字幕に書いてある文字を見て、なるほどこう訳すのかと納得する。パロラッチャは好きになれないが、イタリア映画ではしばしば聞かれる言葉だ。イタリア映画好きな彼と字幕で見ていれば、聞く頻度はより上がる。

 甘えたくて彼の方に伸ばした手は、しかし届くことはなかった。借りたDVDを一時停止させて立ち上がったからだ。

「ん?」

 床を這うようにしている情けないあたしの体勢に気付いたらしく、彼は見下ろしてきた。

菜央なおちゃん、どうしたの?」

 慌てて身体をただして、あたしはセミロングの髪を指ですく。

「な、なんでもない」

 慣れないことをするとこれである。恥ずかしい。

「なら、いいんだけど。俺、便所いってくるわ。キッチンでビール追加してくるけど、君も飲む?」

「あ、うん。欲しい」

「了解」

 彼は短くそれだけを言うと、リビングから出て行った。

 はぁ。何やっているんだか……。

 あたしは彼がいなくなると同時にため息をついた。



 彼と付き合い始めて3ヶ月になる。出会いは映画館だった。

 疲れが溜まったときのあたしのリフレッシュ方法は、レイトショーで映画を観ること。仕事帰りに映画館に寄って、そのときにレイトショーで入れる作品を観るのだ。

 レイトショーでやるくらいなのでたいていは話題性のある作品を観ることになる。しかし、その月は毎週同じ作品しかなくて、しぶしぶ数駅離れた別の映画館に立ち寄った。テーマに合わせた上映をする場所らしい。その時間にやっていたのが名も知らぬイタリア映画。当然、字幕。興味はなかったが、ここまで来て真っ直ぐ帰宅したくはなかったので観ることにした。

 その映画を観ていたのはあたしともう一人だけ。狭いし座席数も少ないその場所で、ゆったりと観たことを覚えている。ただ残念ながら、内容は覚えていない。何故なら、あたしはこの場にいたもう一人の客――彼を見ている時間の方が長かったからだ。

 やや長めの天然パーマ。テレビで見かけた俳優にそっくりで、イケメンだと思った。細身なのだが、着ていたティーシャツから伸びる腕は随分とたくましい。

 真剣に映画を観ている彼の横で不埒な妄想に励んでいたことは、その映画にも彼にも申し訳ないと思う。



 偶然、3回続けば必然。

 あたしはこの小さな映画館に通った。縁があるなら何度も会うはずと信じ、3回通って一度も会わないなら諦めようと決めて。

 結果、3回とも彼がいた。

 3回目のその日、あたしは彼に声を掛けた。

「映画、好きなんですか?」

「君こそ、こんな辺鄙な場所の映画館に通うなんて物好きだね」

 あたしが通っていたことに気付いていたらしくて、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。

「好きっていうか……その……あなたのことが好きになってしまって……」

 勢いのままに告白をしてしまった。引かれたらそれまで。まだ互いのことをよく知らないが、なかったことにするなら傷は浅くて済む。

 すると彼は大きな目をさらに大きく見開いた。

「え、好き?」

「はいっ!」

「それって、LIKEかLOVEかどっち?」

「後者ですっ!」

 返すと、彼はくしゃっと表情を崩した。

「うわぁ。君みたいな可愛い子に告白されるなんて初めてだよ。俺は渋沢しぶさわ雄也ゆうや。君は?」

「あ、あたしは晴海はるみ菜央です」

 告白のあとに自己紹介をする。こういう出会いでもいいんだ。

 こうしてあたしたちは付き合うことになったのだが――。



 彼の部屋でのお家デートもこれが3回目。一緒に彼お薦めのイタリア映画を観ているだけで、彼は手を出そうとすらしてこない。こちらが思わせぶりな態度をしても、だ。草食なのだとしても、寂しすぎる。

 今日だって、外が結構冷えてきたのに露出多めの格好なのだ。色っぽく思えるような化粧だって頑張った。なのに、こうも無反応だと自分に性的魅力がないんじゃないかと不安になる。

「なんて顔してるんだよ」

 ビールの缶が頬に当てられて、あたしは背筋を伸ばす。

「だって……」

 まさかここで正直に「手を出して欲しいのです」などとは言えない。こういうことは、男性にリードして欲しいのだ。

 まだ手を握るくらいしかしてないのに、身体を求めるのははしたないことかしら。

 つい、遠慮してしまう。少しでも触れたいのに。

「君は、俺が映画を止めてビールを取ってきた理由を察しないのかい?」

 言って、彼はプルタブを上げた。

「え?」

 確かに今までの展開とは違う気がする。彼は映画の途中で席を立つような人ではないのだ。

 彼はビールを一口飲んで笑う。

「あんまり可愛く誘惑してくれるなよ」

 次には情熱的なビールの口移しで。

「待って、心の準備が――」

「待ち時間は充分あっただろ?」

 こんなに野獣の面を持っているなんて思わなかった。でも、それが嬉しくて、良いよ、と彼の身体を抱き締めた。


《了》

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