第35回【恋愛】空の砂時計
「お空には、砂時計があるんだね」
幼い彼女は、上り始めたばかりのオリオン座を指差した。
「あぁ、本当だ」
「うふふ。みんな、気付いているのかなぁ?」
見上げてくる彼女は愛くるしい顔を嬉しそうに笑みに変えている。自分の発見を誰かと共有できるのは、単純に嬉しい。それは、共働きでなかなか家に帰って来られない両親と斗真の間でわずかにあったかもしれない一緒の時間、確かに感じてきたことだ。
「どうだろうね」
彼女の小さな手を引きながら、斗真はこの幸せな発見を共有できたことに喜びを得ていた。
小さな約束を破ることも、破られることもずいぶんと増えた。
寝ぐせが直らないことにいつものように苛立ちながら、朝の身支度を終えて外に出る。息が凍りそうになるほどに寒くて、斗真はコートの襟を合わせた。
斗真は社会人になっていた。小さな独立系IT企業で営業職に就いている。外回りの日々で、クタクタになるまで働いてはろくに休めないまま出社する。営業が自分に合わないとわかっていたが、辞めると言い出すタイミングを掴めなくてずるずると続けていた。
辞めるといっても次の就職先の当てなんてない。今の職場に合わせて借りているこのマンションの家賃は給料の大部分を占めているから、辞めるなら引っ越しも考えねばならないだろう。それはそれで面倒だと思うと、斗真は踏ん切りがつかないのだった。
「くっそ……」
久しぶりに二十時台に帰宅して、斗真は部屋で缶ビールを空けていた。外で飲むには給料日前で金がない。
「全部俺の責任かよ……」
空き缶を潰して、キッチンに放る。シンクの中に良い感じに落ちた。
「はぁ……」
視界がにじむ。酔ったせいではあるまい。斗真は頭を抱えて、テーブルに突っ伏す。
営業先と自分の会社の両方から罵倒されて帰ってきた。言い返すこともできただろうが、斗真は何も言わずに聞き流すことを選択したのだった。全部は報告義務を怠った上司が悪かったのに。
「やってられねぇ……」
新しい缶ビールのプルタブを起こしたところで、インターホンが鳴った。何も考えずに斗真がドアを開けると、一人の少女が立っている。目深に被った帽子で顔も表情もわからないが、ダッフルコートから飛び出した指先が自分自身の指先を一生懸命に温めている様子は可愛らしい。
そして、その仕草に見覚えがあった。
「と……斗真お兄ちゃんだよね? お願い、今夜泊めて」
「お前……
少女はこくりと頷く。こうして顔を合わせるのは、高校を卒業してからなので六年ぶりだろうか。あのときはまだ実結は小学生だった。
「泊めて、お兄ちゃん」
はっきりと告げる実結に、斗真は自身の前髪を上げてため息をついた。
「一人暮らしの男の家に来るな、馬鹿」
「今夜だけで良いから」
「家出か?」
「……まぁ、そんなところ」
「なんで俺のところなんだよ」
「知り合いで一人暮らししてるの、斗真お兄ちゃんだけだったの!!」
顔をしっかり上げると、実結と目が合った。冗談を言っているようには見えない目だ。
「……あれ? 斗真お兄ちゃん、泣いてた?」
目を瞬かせて、問うてくる。斗真は慌てて首を横に振る。
「泣いてねぇし。それに、今夜はカノジョが泊まりに来ることになっているんだ。ガキは帰れ!!」
嘘を吐くことに慣れてしまった。別に否定する必要もない泣いたことさえ嘘にした。
「斗真お兄ちゃん、嘘、苦手なんだから、バレてるよ?」
「…………」
返す言葉が浮かばない。
「――空には砂時計なんてないって、あたし、あのとき知っていたよ。周りの人には、あれはオリオン座なんだって言って馬鹿にしてきたのに、斗真お兄ちゃんは違った。あのときから、困ったときは斗真お兄ちゃんに頼ろうって決めていたんだ」
「十年以上前の話じゃないか」
「うふふ。覚えていてくれるって信じてた」
負けたなって思って、しぶしぶ斗真は彼女を部屋に招き入れる。
「無事に部屋から出られると思うなよ」
「うふふ」
六つも離れている彼女には、多分この先も勝てないのだろうと斗真は覚悟したのだった。
《了》
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