7
タイムリミットは目の前だった。
おそらく一分もない。この間に、杉本の本当の死因をつきとめなければならない。全神経を脳にめぐらせる。風見が何かおれに話しかけてきていたが、もう聞こえなかった。
蜂のことは忘れろ。あれは死因ではなかった。杉本の死体を彩る飾りの一部でしかなかった。
では本当の死因は? ランナーの突然死に多い、心筋梗塞? 心筋梗塞は発作性のものだ。杉本のいまの苦しみ方は、それとは違う気がする。急激な変化ではない。徐々に、彼の体を死が飲みこもうとしている。そんな感じだ。
何かほかの持病が発症しているのか? 杉本本人がないと断言していた。
では熱中症か? 彼は普段からそれには気をつけている。今日に限って怠るだろうか。いつも通りに走っていたと、彼自身もつぶやいていた。逆にいえば、それだけは回避するために、杉本は常に水分補給はかかさなかった。
「水が、水が足りないんだ」
ぶつぶつと杉本がつぶやく。
「喉がかわく」
左もものバンドに触り、水筒を取り外そうとするがなかなかうまくいっていなかった。視界の焦点が定まっていないのだろうか。
一度のランニングに三回は中身を交換するという、あの水筒。かなり大きい、二リットルは入る。三度補給すれば六リットル。
待て。
それは、多すぎないか。
連鎖的によぎったのは、いつかで見た、テレビのアナウンサーの言葉。
『日本中が夏の熱気につつまれて、いよいよ本番の季節が到来です。ハイキングや海水浴など、レジャーの機会が増えることも多くなりそうですが、注意しなければならないのは熱中症です。が、実はそれと同じくらい注意の必要なものがあり……』
その先の正体。
思い出して、叫んだ。
「風見! 杉本の水筒をうばえ!」
おれの言葉を疑いもせず、風見はすぐさま行動に移っていた。杉本はバンドから水筒を取り外し、いままさに飲もうとしていたところだった。風見が強引にそれをふんだくる。奪った拍子に杉本は態勢をくずし、その場で膝立ちになる。彼はそれでも諦めず、すがりつくように風見につかまった。
「返せ! ふざけるな、おれは熱中症なんだ。水分補給を……」
「頭を冷やしなさい」
言って、風見は水筒の中身を杉本に頭にぶちまけた。彼の髪が、顔が、服が、体が、次々と濡れていく。水筒が完全に空になったところで、杉本はその場であおむけに倒れこんだ。
風見はそばの地面に視線をうつし、何かを確認したあと、おれに言ってきた。
「凪野くん。未来の死体が、消えた」
杉本は苦しそうではありながらも、目は閉じていなかった。呼吸もちゃんとできている。それでも死を回避したからといって、危険な状態には変わりなかった。顔面も蒼白のままだ。おれは携帯を取りだし、救急車を呼んだ。
電話が終わり、再び杉本とそれを介抱している風見のもとへ戻る。
杉本が力をふりしぼって言ってくる。
「喉が渇いたんだ。水を飲ませてほしい。死んでしまう」
「だめです。それに死にません」
「熱中症だ」
「違う。あなたのそれは、熱中症なんかじゃない」
「じゃあなに?」風見が訊いた。
彼の訪れていた危険。
それは心筋梗塞でも、熱中症でもない。
夏場では特に多い症状。レジャーをたしなむひとや、ランナーを苦しめる、もうひとつの落とし穴。
それは。
「水中毒だ」
救急車がやってくるまでの間、杉本は一度だけ嘔吐した。が、それでも死ぬことはなかった。
水分の多量摂取により、血中のナトリウムの濃度が低下して、脳や肺が膨張することがある。それが水中毒。引き起こされるのは、疲労や精神の錯乱、けいれんに嘔吐。最悪の場合は脳浮腫という病にかかり、死にも至る。という説明を、最近テレビで聞いていた。去年も確か、水中毒という言葉を耳にしたことがあった。最近のテレビでは、熱中症の危険とセットで語られることも多い。
担架に乗せて運ばれるとき、杉本が一度、風見の腕をつかんだ。
「きみの名前は?」
「風見夜子。もう大丈夫、死は通り過ぎたわ」
彼は安心したように目をつぶり、そのまま救急車に乗せられていった。
これでようやく、解決だ。
残っている問題があるとすれば、
「テストの出来は?」
「科学のテスト? 一応、回答欄はすべて埋めたけど。満点になるかは微妙ね。仕方がないわ」
今日一日のテストは科学だけだ。午前中には終わるスケジュールだった。それだけが救いだろうか。
風見にまともな生活を送らせるという目標は、結局、微妙な結果で幕を閉じた。
遊園地のチケットは、自腹で買っておいてやろうと思った。
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